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この日は、年に数度の市祭だった。
王都の広場には色とりどりの幟が立ち、香辛料や焼き菓子の匂いが風に混じる。
各商会は、露店と並んで広場の端に臨時の勘定所を設けるのが慣わしだった。
白い天幕の下、長机には小口金の袋と秤、算盤、控え伝票、印泥がきちんと並んでいる。
露店で済まない高額決済や返品・値差、複数店のまとめ払い――揉めやすい会計はすべてここへ回る。
今日は帳場所属のジャンヌが金勘定の責任者に選ばれた。
営業・仕入れ担当のライリーが裏方の応援となり、釣銭の補充、人の流れの整列、覚書の用意――二人三脚で一日を乗り切る。
「市祭は初めてだろう? 病み上がりで大丈夫か」
ライリーが気遣うと、ジャンヌはにこりと頷いた。
「おかげさまで、大丈夫です。外の空気、気持ちいいですね」
「そうだな。日の光を浴びて働くのも、たまには悪くない」
天幕の下は忙しないのに、二人のやりとりはどこか穏やかだった。
幟が風を掴み、硬貨の触れ合う音が絶えない。
「次の方、番号札をお願いします」
差し出された札、秤に載った金袋。
手首の返しで小銭をはかり、算盤の珠を弾く。
「釣銭、銀貨一、銅貨八。こちらへ印影を」
横手からはライリーが必要なものだけを音もなく並べる。
台紙、印泥、布巾――迷いがない。目が合うと、彼は顎で「よし」とだけ合図した。それだけで胸の中がほどける。
*
日が少し傾き、ざわめきが一段深くなった頃。
ふと顔を上げたジャンヌの前を、人の波を割るように二人連れが横切った。
白いワンピースの裾、笑う横顔――ハルディだった。彼女は誰かの腕に絡み、楽しげに囁いている。そしてその隣、こちらへ顔を向けた男は――トーマス。
心臓が一度、痛いほど跳ね、珠が指先から滑って軽い音を立てた。
喉が乾き、ペン先が一瞬だけ紙の上で止まり、墨が小さくにじむ。
「……大丈夫か?」
ライリーがすぐ横から水を差し出す。
ジャンヌはほんの刹那、彼の瞳を見て、小さく頷き、水を一口含む。
「ありがとうございます」
一言、礼を述べたあと、視線を戻して珠を弾き直した。
(……今は、仕事に集中)
ライリーの指先が静かに台紙を押さえる。二人の呼吸はまたすぐに揃った。
*
一方のトーマスは、群衆の中で足を緩めた。
天幕の下、帳面を軽やかに捌くジャンヌ。その手元に、タイミングよく道具を差し入れるライリーに視線を止める。
(誰だ…?会社の先輩か?)
喉の奥に乾いた熱がせり上がる。
胸の内側で紙が炙られるような、ちいさな焦げの匂い。
(……ジャンヌ)
彼は一度目を逸らし、また振り返る。
ハルディが見ていないのを確かめるように――そして何も言わず歩を速めた。
午後。
広場の反対側、氷菓の屋台に並びながら、ハルディはふいに目を細めた。
人垣の向こう、白い天幕の下。
速い手つきで紙を並べる“あの子”と、背の高い見目の良い男。
(……へぇ)
(あの時、受付で取り乱していた子じゃない。狼狽えて、無様な姿は見ものだったけど)
ハルディの口元に意地の悪い笑みが乗る。
誰もが振り返るような美少女じゃないのに、妙に目に残る可憐さがある。そこが気に入らない。
おまけに賢そうな目までして、癪に障る。しかも今日は隣に見栄えのいい男。面白くなかった。
(なにそれ。トーマスに振られて、もう“次”? 早いじゃない)
氷菓をひと口。白い匙を唇に咥えたまま視線だけ滑らせた。
「どうした?」
隣のトーマスが首を傾げる。
「なんでもないわ」
ハルディは笑い、腕を絡め直す。人混みに聞かせるように、甘ったるい声をあげる。
「ねぇ、トーマス。ここでキス、して?」
「っ、ハルディ、こんな人混みじゃ……」
「誰も見てないわ。見せつけておきたいの。私の“彼”、って」
腰を寄せ、香りをふわりとまとわせ、目だけで「断る?」と挑発する。
「……帰ったら、するから」
「帰ったら“キスだけ”?」
匙をゆっくり舐め、唇の端を上げる。
「ハルディ、わかってるだろう?」
「ふふ、わかってるわよ。――たっぷり可愛がってね?」
赤くなったトーマスの腕をさらに深く抱え込み、踵を返す前にもう一度だけ天幕を見やる。
勝ち誇った笑みを置き土産に、人波の中へと彼を引いていった。
夕刻、勘定所に小さな騒ぎが起きた。
「聞いてない値だ! 昨日より高いじゃないか!」
旧知の商人が声を荒げる。
人だかりができ、空気がわずかにささくれた。
ジャンヌは息を整え、声を落ち着かせた。
「お確かめします。――昨日の価格と今日の掲示、両方見ましょう」
控え札、値札の写し、入荷記録。順に机へ並べ、算盤を弾く。
「昨日は“旧型”、本日はこちら“改良型”の価格です。仕様違いで金額が変わっています。差額はこの通り――」
怒気を孕んだ目が数字へ引き寄せられ、やがて溜息に変わる。
「……こっちの勘違いか。悪かった」
「いえ。紛らわしい掲示でした。次回は見やすく置き換えます」
深々と頭を下げると、周囲の空気がすっと和らいだ。
背後でライリーが小さく指を鳴らし、掲示の位置をその場で改める。
「“改良型”の札を一段上に。視線がまっすぐ当たる」
「はい」
短い言葉がぴたりと噛み合い、勘定所の流れはすぐに元へ戻った。
夜の帳が降り始め、最初の花火が空を裂いた。
轟音の余韻の中、ライリーが横顔だけを向けて囁く。
「――よくやったな」
たったそれだけ。
飾り気のない言葉に、ジャンヌの胸の奥で小さな灯がまたひとつ灯る。
「ありがとうございます」
控えめな笑みを返し、彼女は次の帳面を開いた。
ふと今日を振り返るとーー
遠く、群衆の波へ消えていく白いワンピースと、それに寄り添う背の高い影が一瞬だけ脳裏をよぎる。
思い出した途端、胸に鋭い痛みが走り、涙がにじみそうになる――そのわずかな変化を、ライリーは見逃さなかった。
「ジャンヌ、腹減ってないか?今日はよく頑張った。何か奢らせてくれ」
「え、ライリーさん??」
「好きな物はなんだ?俺は好き嫌いないぞ」
「良いんですか…?」
「ああ、もちろん!俺のおすすめの店もある」
「ふふっ…では、ライリーさんにお任せします」
ライリーの気遣いに、ジャンヌの心はそっと温まる。
二人の影を思い出さないように――彼女は精一杯の笑みを浮かべた。
王都の広場には色とりどりの幟が立ち、香辛料や焼き菓子の匂いが風に混じる。
各商会は、露店と並んで広場の端に臨時の勘定所を設けるのが慣わしだった。
白い天幕の下、長机には小口金の袋と秤、算盤、控え伝票、印泥がきちんと並んでいる。
露店で済まない高額決済や返品・値差、複数店のまとめ払い――揉めやすい会計はすべてここへ回る。
今日は帳場所属のジャンヌが金勘定の責任者に選ばれた。
営業・仕入れ担当のライリーが裏方の応援となり、釣銭の補充、人の流れの整列、覚書の用意――二人三脚で一日を乗り切る。
「市祭は初めてだろう? 病み上がりで大丈夫か」
ライリーが気遣うと、ジャンヌはにこりと頷いた。
「おかげさまで、大丈夫です。外の空気、気持ちいいですね」
「そうだな。日の光を浴びて働くのも、たまには悪くない」
天幕の下は忙しないのに、二人のやりとりはどこか穏やかだった。
幟が風を掴み、硬貨の触れ合う音が絶えない。
「次の方、番号札をお願いします」
差し出された札、秤に載った金袋。
手首の返しで小銭をはかり、算盤の珠を弾く。
「釣銭、銀貨一、銅貨八。こちらへ印影を」
横手からはライリーが必要なものだけを音もなく並べる。
台紙、印泥、布巾――迷いがない。目が合うと、彼は顎で「よし」とだけ合図した。それだけで胸の中がほどける。
*
日が少し傾き、ざわめきが一段深くなった頃。
ふと顔を上げたジャンヌの前を、人の波を割るように二人連れが横切った。
白いワンピースの裾、笑う横顔――ハルディだった。彼女は誰かの腕に絡み、楽しげに囁いている。そしてその隣、こちらへ顔を向けた男は――トーマス。
心臓が一度、痛いほど跳ね、珠が指先から滑って軽い音を立てた。
喉が乾き、ペン先が一瞬だけ紙の上で止まり、墨が小さくにじむ。
「……大丈夫か?」
ライリーがすぐ横から水を差し出す。
ジャンヌはほんの刹那、彼の瞳を見て、小さく頷き、水を一口含む。
「ありがとうございます」
一言、礼を述べたあと、視線を戻して珠を弾き直した。
(……今は、仕事に集中)
ライリーの指先が静かに台紙を押さえる。二人の呼吸はまたすぐに揃った。
*
一方のトーマスは、群衆の中で足を緩めた。
天幕の下、帳面を軽やかに捌くジャンヌ。その手元に、タイミングよく道具を差し入れるライリーに視線を止める。
(誰だ…?会社の先輩か?)
喉の奥に乾いた熱がせり上がる。
胸の内側で紙が炙られるような、ちいさな焦げの匂い。
(……ジャンヌ)
彼は一度目を逸らし、また振り返る。
ハルディが見ていないのを確かめるように――そして何も言わず歩を速めた。
午後。
広場の反対側、氷菓の屋台に並びながら、ハルディはふいに目を細めた。
人垣の向こう、白い天幕の下。
速い手つきで紙を並べる“あの子”と、背の高い見目の良い男。
(……へぇ)
(あの時、受付で取り乱していた子じゃない。狼狽えて、無様な姿は見ものだったけど)
ハルディの口元に意地の悪い笑みが乗る。
誰もが振り返るような美少女じゃないのに、妙に目に残る可憐さがある。そこが気に入らない。
おまけに賢そうな目までして、癪に障る。しかも今日は隣に見栄えのいい男。面白くなかった。
(なにそれ。トーマスに振られて、もう“次”? 早いじゃない)
氷菓をひと口。白い匙を唇に咥えたまま視線だけ滑らせた。
「どうした?」
隣のトーマスが首を傾げる。
「なんでもないわ」
ハルディは笑い、腕を絡め直す。人混みに聞かせるように、甘ったるい声をあげる。
「ねぇ、トーマス。ここでキス、して?」
「っ、ハルディ、こんな人混みじゃ……」
「誰も見てないわ。見せつけておきたいの。私の“彼”、って」
腰を寄せ、香りをふわりとまとわせ、目だけで「断る?」と挑発する。
「……帰ったら、するから」
「帰ったら“キスだけ”?」
匙をゆっくり舐め、唇の端を上げる。
「ハルディ、わかってるだろう?」
「ふふ、わかってるわよ。――たっぷり可愛がってね?」
赤くなったトーマスの腕をさらに深く抱え込み、踵を返す前にもう一度だけ天幕を見やる。
勝ち誇った笑みを置き土産に、人波の中へと彼を引いていった。
夕刻、勘定所に小さな騒ぎが起きた。
「聞いてない値だ! 昨日より高いじゃないか!」
旧知の商人が声を荒げる。
人だかりができ、空気がわずかにささくれた。
ジャンヌは息を整え、声を落ち着かせた。
「お確かめします。――昨日の価格と今日の掲示、両方見ましょう」
控え札、値札の写し、入荷記録。順に机へ並べ、算盤を弾く。
「昨日は“旧型”、本日はこちら“改良型”の価格です。仕様違いで金額が変わっています。差額はこの通り――」
怒気を孕んだ目が数字へ引き寄せられ、やがて溜息に変わる。
「……こっちの勘違いか。悪かった」
「いえ。紛らわしい掲示でした。次回は見やすく置き換えます」
深々と頭を下げると、周囲の空気がすっと和らいだ。
背後でライリーが小さく指を鳴らし、掲示の位置をその場で改める。
「“改良型”の札を一段上に。視線がまっすぐ当たる」
「はい」
短い言葉がぴたりと噛み合い、勘定所の流れはすぐに元へ戻った。
夜の帳が降り始め、最初の花火が空を裂いた。
轟音の余韻の中、ライリーが横顔だけを向けて囁く。
「――よくやったな」
たったそれだけ。
飾り気のない言葉に、ジャンヌの胸の奥で小さな灯がまたひとつ灯る。
「ありがとうございます」
控えめな笑みを返し、彼女は次の帳面を開いた。
ふと今日を振り返るとーー
遠く、群衆の波へ消えていく白いワンピースと、それに寄り添う背の高い影が一瞬だけ脳裏をよぎる。
思い出した途端、胸に鋭い痛みが走り、涙がにじみそうになる――そのわずかな変化を、ライリーは見逃さなかった。
「ジャンヌ、腹減ってないか?今日はよく頑張った。何か奢らせてくれ」
「え、ライリーさん??」
「好きな物はなんだ?俺は好き嫌いないぞ」
「良いんですか…?」
「ああ、もちろん!俺のおすすめの店もある」
「ふふっ…では、ライリーさんにお任せします」
ライリーの気遣いに、ジャンヌの心はそっと温まる。
二人の影を思い出さないように――彼女は精一杯の笑みを浮かべた。
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