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ライリーに看病をしてもらった日の夜――。
ジャンヌの身体は、拍子抜けするほど軽くなっていた。
温かいスープが喉を通り、食べやすくカットされた林檎の甘さが胸の奥のこわばりを少しずつ解いていくのがわかった。
毛布を肩まで引き上げると、眠気がやわらかな波のように押し寄せ、いつの間にか深い眠りへ落ちた。
――久しぶりに、トーマスの夢を見なかった。
目覚めは静かだった。
薄い朝光がカーテン越しに差し、室内の影を淡くする。頬に触れる空気はひんやりしているのに、背筋に残る冷たさは不思議と薄れている。
体温計を脇に挟むと、針は平熱で止まった。喉の痛みも退き、頭の重さもない。ジャンヌは小さく息を吐き、胸の奥でそっとつぶやく。
(ありがとう、ライリーさん)
鏡の前に立ち、乱れ気味の髪を梳く。ゴムでまとめ、白の細いリボンを結ぶ指先が、昨日までより確かだ。
結び目を一度きゅっと確かめる。
目の下の影はまだ薄く残っているが、顔色は思ったより悪くない。
卓上に残っていたパンをひと口、林檎をもう一切れ。胃が受け入れてくれるのを確かめてから外套を羽織った。
石畳の朝は、思ったよりも明るかった。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥がきれいになる気がした。
(大丈夫。今日は行ける)
心の中で短く合図を送り、歩調を整える。
商会に着くと、まだ始業前のざわめきが薄く漂っていた。
「おはようございます」
入口で数人に会釈を返す。
驚いたように目を瞬かせた同期もいたが、誰も余計なことは言わなかった。
帳場に入ると、ケイシーがチェックリストを掲げてこちらを見る。
「おはよう、ジャンヌ。来られたのね? 体調はどう?」
「おはようございます。いろいろとご心配をおかけしました。すっかりよくなりました」
ジャンヌが深々と頭を下げると、ケイシーは柔らかく微笑み、肩をひと撫でして「良かった」とひと言。
それだけのやり取りが、ジャンヌには、とても救いに感じられた。
机に腰を下ろし、帳簿と伝票を並べる。まずは簡単な照合から始めた。
列を指でなぞり、数字を声に出さずに数える。指先の震えは出ず、ペン先が紙の上を素直に滑る。ページの端を繰るたび、気持ちも薄紙一枚分だけ前へ進んだ。
*
午前の半ば、ライリーが隣の部署へ書類を届けるついでに帳場の入り口を横切った。
ジャンヌと視線がかすかに合い、彼は顎で短く「どうだ?」と問う仕草をする。
彼女は小さく頷いて微笑み、ペンを持ち直した。言葉は交わさなかったが、それでも背中に一本、見えない支えが通っていくのを彼女は感じた。
昼前、ケイシーが通りがかりに帳簿をひと束指さした。
「午後までにここの小計を。急ぎじゃないから、余力がなければ明日に回して」
「できます。――無理なら、すぐ言いますので」
「それで良いわ。身体を優先してね」
短いやり取りが積み重なるほど、体内の速度が“いつもの自分”に近づいていく。
昨日までなら泣きたくなって逃げ込んだかもしれない隙間を、今日は数字で埋められる。
小休憩で席を立つと、窓の外は薄曇りに変わっていた。
湯気の立つマグを両手で包む。唇に触れる温かさが、胸の底の不規則な波を落ち着かせる。
(ライリーさんにお礼を伝えたい。林檎も、スープも……あの看病がなかったら、今日ここに立てなかった)
トーマスの名を思い出すと、まだ胸の奥がきゅっと縮む。涙腺の裏側が熱を帯びる。
――でも、その熱はすぐに仕事の熱に溶けていった。「それでいい」と自分に言い聞かせる。
完全に忘れられるわけではない。
それでも、机に向かっているあいだだけは、前を向ける。
昼の鐘。書類の角をそろえ、栞をはさみ、ペン先の汚れを拭う。
三日ぶりの勤務で、午前中を倒れずに走り切れたことが、ささやかでも確かな自信になった。席に戻る足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。
(大丈夫。今日はここまでやれた。明日も、少しだけ伸ばせる)
胸の中で静かに刻む宣言は、誰にも聞こえない。でも、自分には届いている。ジャンヌはリボンの結び目を指先で確かめ、午後のページをもう一度開いた。
***
(ライリー視点)
帳場の入口で足を止め、ジャンヌの姿が目に入った。
(来られたか)
朝の挨拶に返ってきた声はまだか細かったが、目の焦点は合っている。
椅子に座る姿勢も、数日前までの「耐えている」という緊張ではない。紙をめくる指の運びにも、仕事のリズムが戻りつつある。
むやみに言葉をかけるのはやめた。
彼女は、励ましの量よりも「作業の手触り」で立ち直っていくタイプだと思ったからだ。
顎で合図を送ると、小さくうなずいて微笑みが返ってくる――それだけで十分だった。
午後、書類を受け取りに行くと、彼女のほうから「ここまで終わりました。続きは明日に」と簡潔に報告があった。
(いい言い方だ)
やれるところまでやり、線を引く。
その線の引き方を、今日は彼女自身が選んだ。
帰り支度を終え、商会を出たとき、背後から声がかかった。
「ライリーさん、昨日はありがとうございました」
ジャンヌだった。礼儀正しく一礼する姿に、目元が綻むのを自分でも感じた。
「具合は?」
「はい。おかげさまで大丈夫です。……本当にありがとうございました」
彼女の声に力が戻っている。
「病み上がりだから、無理はするなよ」
そう短く告げると、彼女は小さく「はい」と答え、はにかむように笑った。
その表情に、胸がざわめく。頬が熱くなるのがわかり、気づかれないように顔をそらした。
「では、これで」
自分の様子など露知らず、ジャンヌは頭を軽く下げて歩き出す。
(あ……)
寮まで送ろうと言いかけたが、タイミングを逃した。
(まあ、仕方ない)
遠ざかる背を見ながら、そのしっかりした足取りに安堵する。
誰かの手を取って無理やり立たせるのではなく、倒れずに立てる場所を一緒に探す。
――それが、今の俺にできること。
明日、彼女がまた机に向かえるように。必要なときには、手を伸ばせる距離にいるように。
彼女の背中を見つめ、俺はその約束をひそかに胸に刻んだ。
ジャンヌの身体は、拍子抜けするほど軽くなっていた。
温かいスープが喉を通り、食べやすくカットされた林檎の甘さが胸の奥のこわばりを少しずつ解いていくのがわかった。
毛布を肩まで引き上げると、眠気がやわらかな波のように押し寄せ、いつの間にか深い眠りへ落ちた。
――久しぶりに、トーマスの夢を見なかった。
目覚めは静かだった。
薄い朝光がカーテン越しに差し、室内の影を淡くする。頬に触れる空気はひんやりしているのに、背筋に残る冷たさは不思議と薄れている。
体温計を脇に挟むと、針は平熱で止まった。喉の痛みも退き、頭の重さもない。ジャンヌは小さく息を吐き、胸の奥でそっとつぶやく。
(ありがとう、ライリーさん)
鏡の前に立ち、乱れ気味の髪を梳く。ゴムでまとめ、白の細いリボンを結ぶ指先が、昨日までより確かだ。
結び目を一度きゅっと確かめる。
目の下の影はまだ薄く残っているが、顔色は思ったより悪くない。
卓上に残っていたパンをひと口、林檎をもう一切れ。胃が受け入れてくれるのを確かめてから外套を羽織った。
石畳の朝は、思ったよりも明るかった。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥がきれいになる気がした。
(大丈夫。今日は行ける)
心の中で短く合図を送り、歩調を整える。
商会に着くと、まだ始業前のざわめきが薄く漂っていた。
「おはようございます」
入口で数人に会釈を返す。
驚いたように目を瞬かせた同期もいたが、誰も余計なことは言わなかった。
帳場に入ると、ケイシーがチェックリストを掲げてこちらを見る。
「おはよう、ジャンヌ。来られたのね? 体調はどう?」
「おはようございます。いろいろとご心配をおかけしました。すっかりよくなりました」
ジャンヌが深々と頭を下げると、ケイシーは柔らかく微笑み、肩をひと撫でして「良かった」とひと言。
それだけのやり取りが、ジャンヌには、とても救いに感じられた。
机に腰を下ろし、帳簿と伝票を並べる。まずは簡単な照合から始めた。
列を指でなぞり、数字を声に出さずに数える。指先の震えは出ず、ペン先が紙の上を素直に滑る。ページの端を繰るたび、気持ちも薄紙一枚分だけ前へ進んだ。
*
午前の半ば、ライリーが隣の部署へ書類を届けるついでに帳場の入り口を横切った。
ジャンヌと視線がかすかに合い、彼は顎で短く「どうだ?」と問う仕草をする。
彼女は小さく頷いて微笑み、ペンを持ち直した。言葉は交わさなかったが、それでも背中に一本、見えない支えが通っていくのを彼女は感じた。
昼前、ケイシーが通りがかりに帳簿をひと束指さした。
「午後までにここの小計を。急ぎじゃないから、余力がなければ明日に回して」
「できます。――無理なら、すぐ言いますので」
「それで良いわ。身体を優先してね」
短いやり取りが積み重なるほど、体内の速度が“いつもの自分”に近づいていく。
昨日までなら泣きたくなって逃げ込んだかもしれない隙間を、今日は数字で埋められる。
小休憩で席を立つと、窓の外は薄曇りに変わっていた。
湯気の立つマグを両手で包む。唇に触れる温かさが、胸の底の不規則な波を落ち着かせる。
(ライリーさんにお礼を伝えたい。林檎も、スープも……あの看病がなかったら、今日ここに立てなかった)
トーマスの名を思い出すと、まだ胸の奥がきゅっと縮む。涙腺の裏側が熱を帯びる。
――でも、その熱はすぐに仕事の熱に溶けていった。「それでいい」と自分に言い聞かせる。
完全に忘れられるわけではない。
それでも、机に向かっているあいだだけは、前を向ける。
昼の鐘。書類の角をそろえ、栞をはさみ、ペン先の汚れを拭う。
三日ぶりの勤務で、午前中を倒れずに走り切れたことが、ささやかでも確かな自信になった。席に戻る足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。
(大丈夫。今日はここまでやれた。明日も、少しだけ伸ばせる)
胸の中で静かに刻む宣言は、誰にも聞こえない。でも、自分には届いている。ジャンヌはリボンの結び目を指先で確かめ、午後のページをもう一度開いた。
***
(ライリー視点)
帳場の入口で足を止め、ジャンヌの姿が目に入った。
(来られたか)
朝の挨拶に返ってきた声はまだか細かったが、目の焦点は合っている。
椅子に座る姿勢も、数日前までの「耐えている」という緊張ではない。紙をめくる指の運びにも、仕事のリズムが戻りつつある。
むやみに言葉をかけるのはやめた。
彼女は、励ましの量よりも「作業の手触り」で立ち直っていくタイプだと思ったからだ。
顎で合図を送ると、小さくうなずいて微笑みが返ってくる――それだけで十分だった。
午後、書類を受け取りに行くと、彼女のほうから「ここまで終わりました。続きは明日に」と簡潔に報告があった。
(いい言い方だ)
やれるところまでやり、線を引く。
その線の引き方を、今日は彼女自身が選んだ。
帰り支度を終え、商会を出たとき、背後から声がかかった。
「ライリーさん、昨日はありがとうございました」
ジャンヌだった。礼儀正しく一礼する姿に、目元が綻むのを自分でも感じた。
「具合は?」
「はい。おかげさまで大丈夫です。……本当にありがとうございました」
彼女の声に力が戻っている。
「病み上がりだから、無理はするなよ」
そう短く告げると、彼女は小さく「はい」と答え、はにかむように笑った。
その表情に、胸がざわめく。頬が熱くなるのがわかり、気づかれないように顔をそらした。
「では、これで」
自分の様子など露知らず、ジャンヌは頭を軽く下げて歩き出す。
(あ……)
寮まで送ろうと言いかけたが、タイミングを逃した。
(まあ、仕方ない)
遠ざかる背を見ながら、そのしっかりした足取りに安堵する。
誰かの手を取って無理やり立たせるのではなく、倒れずに立てる場所を一緒に探す。
――それが、今の俺にできること。
明日、彼女がまた机に向かえるように。必要なときには、手を伸ばせる距離にいるように。
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