【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 翌朝になってもジャンヌの体調は戻らなかった。

 朝の光が差し込み、目は覚めたものの、身体は鉛のように重く、起き上がろうとしても頭がぐらりと揺れた。

 熱は昨夜より少し下がったが、それでも頬は火照り、全身がだるい。

(仕事に…) 

 そう思っても、腕一本持ち上げるのがやっとで、鏡の前に立つ力もなかった。

 枕元の薬を手に取って水で流し込み、毛布に顔を埋める。

(無理に出勤しても、また迷惑を掛けてしまう…)

 ジャンヌは、隣に住む先輩社員に伝令をお願いして会社を休むことにした。




 帳場では、ケイシーが朝の確認作業をしていた。そこへ書類を抱えたライリーが通りかかる。

「……ジャンヌ、やはり今日は休みか」
 声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
 
「ええ。昨日の様子だと、しばらく休まないと無理だと思うわ」
 ケイシーは眉根を寄せて小さくため息をついた。

「確かに……だいぶ熱も高かったからな。倒れるまで頑張るとは……。もっと誰かに頼れればいいんだが」
 ライリーは腕に抱えた書類を机に置き、しばらく黙ってからそう漏らした。
 ケイシーは少し迷ってから、低い声で打ち明ける。

「ジャンヌはね、幼い頃に両親を亡くして、親戚中をたらい回しにされて育ったの。頼れる人が誰もいない生活が長かったから、余計に自分で全部抱え込む癖があるのよ」

「……そんなことが」
 ライリーの目が驚きに見開かれる。

「同郷の幼馴染がこの近くに勤めているようだけど、どこまで面倒を見てくれるかは分からないし……正直、心配なの」
 ケイシーは書類を閉じながら、苦い声で言った。

「私がジャンヌの面倒を見られたら良いんだけど……母の介護があるから…」
 ケイシーは申し訳なさそうに俯いた。
 彼女は、数年前、事故で身体が不自由になった母と二人で暮らしているのだった。

「君は仕方ないさ」
 と、彼は短く答えたが『頼れる人がいない…』の一節が、小骨のように喉もとに引っかかって離れなかった。

(そんな哀しい過去があっても、あれだけ真面目に働いているのか……)

 机に向かって誰よりも正確に数字を追うジャンヌの姿。
 疲れているはずなのに愚痴も弱音も吐かず、しっかりと仕事をする横顔。

 そのすべてが鮮明に脳裏に浮かび、胸の奥に、小さな灯がともる。

(もう、見過ごせない……)

 ケイシーはライリーの視線に気づき、苦笑するように肩をすくめた。

「気になるのは分かるけど、あなたも仕事があるでしょう?」
「ああ。でも……」
 ライリーは窓の外に目をやった。冷たい冬の光が差し込み、石畳を照らしている。

(彼女が倒れたのを、見てしまったからな……)

 抱き止めたジャンヌの震える細い肩を思い出していた。

その思いは、いつの間にか彼の中で「後輩への心配」以上のものへと変わり始めていた。

***

 夕刻、女子寮の廊下に背の高い影がさした。ライリーだった。

 昼から胸に残った心配が拭えず、仕事を終えるとその足で寮へ向かったのだ。
扉の前に立ち、軽くノックする。

「ジャンヌ。俺だ、ライリーだ」

 中で衣擦れがして、かすれた声が返る。
「……ライリーさん……?」

「差し入れを持ってきた。開けていいか?」

 少しして扉がゆっくり開いた。
 ジャンヌが顔を出す。頬は青白く、目の下に深い影。髪も少し乱れている。
ライリーは胸がきゅっと締めつけられた。

「体調はどうだ?」

「……ありがとうございます。すみません、こんな姿を見せてしまって」

「謝ることはないよ。何か食べられてるか?」

「……買い物に行けなくて、飲み物くらいしか…」
 ジャンヌは青ざめた顔で、弱々しく笑った。

「そうか。なら、ちょうどよかった。消化にいいものを持ってきた」

「…助かります」

 包みを手渡そうとした瞬間、ジャンヌの身体がぐらりと傾いた。

「ジャンヌ!」
 ライリーはジャンヌの肩を支え、そのまま軽々と抱き上げる。

「……押しかけて悪い。無理をさせたな」

「……いえ、せっかく来てくださったのに……こちらこそ申し訳ありません」
 ジャンヌの声は力無く、掠れていた。

「中に入るぞ」
 ライリーは一言、断ってから部屋へ入り、ベッドにジャンヌをそっと寝かせた。

 ジャンヌの熱が上がっているのが手のひら越しにもわかった。

 ライリーは水を汲み、冷やした布を額に当てる。ひやりとした感触に、ジャンヌが安堵の息を漏らした。

「ライリーさん、すみません…」

「謝ることはないんだ。少し台所、借りるぞ?」

 小さな流しで手早く包みをほどく。
 林檎、消化のよいスープ、パン、冷たいお茶。

 林檎は包丁で食べやすい大きさに切り、皿へ。スープとパンとともにトレイに載せた。

「ジャンヌ、少し起きられるか。食べられそうなら、口にしたほうがいい」
 ライリーは、ベッド脇に腰をおろし声をかける。

 ジャンヌはゆっくり上体を起こし、目の前の盆を見て瞬きをした。
「ライリーさん……ずいぶん慣れてらっしゃるんですね」

「妹がな。子どもの頃は身体が弱くて、よく世話をした。お粥を作ったり、熱を計ったり——ほとんど日課みたいだった」

「妹さん、今は……?」

「もうすっかり元気。病弱だった頃が懐かしいくらいだ」
ライリーは肩をすくめ、穏やかに笑う。

 その笑顔につられて、ジャンヌも小さく笑った。
「……初めてです、こうして人にお世話されるの。何だか気恥ずかしくて……」

「気にしなくていい。たまには誰かに甘えるのも、悪くないだろ?」

 その一言に、ジャンヌの頬がほんのり色づく。その変化に気づき、ライリーの胸の奥に温かいものが灯った。

「ほら、スープが冷める前に少しずつ。俺は片づけておく」
 トレイをジャンヌの膝の上に載せ、毛布を整える。

 スプーンを持ちながら、ジャンヌがちらりと見上げた。
「……ありがとうございます、ライリーさん。本当に」

「どういたしまして」
 頬の紅潮から視線を外しつつ、ライリーは短く答えた。

 彼の胸の内には、これまで職場の後輩に抱いたことのない感情が、静かに広がっていた。
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