【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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「おはようございます」

 出勤したジャンヌは、いつものように皆に挨拶したが、その声はかすれ、自分のものではないように聞こえた。

「今日は珍しくギリギリの出勤なのね?」
 一人の同期が片眉を上げ、わざとらしく上ずった声でからかうように言った。
 
 ジャンヌは少し俯き、弱々しい笑みを添えて返す。
「……ええ、少し寝坊してしまって」

「ふーん? あら、そう」
 同期は意味深な笑みを残して、自席に戻った。

 その背後で、別の小さな声がひそひそと動き出す。

「ねぇねぇ、幼馴染が女の人と歩いていた話がショックだったんじゃない?」
「シッ、あまり突っ込んだら可哀想よ。ほら、顔色が悪いし」

 数人の同期が、ジャンヌをちらちら見ながら囁き合う。笑い声は抑えているのに、棘だけが耳に届く。

 帳場の他の社員たちは視線を寄せたが、何も言わず、各々の仕事に戻った。

その沈黙もまた、ジャンヌの胸を冷たく撫でていく。

「ここは学園じゃないの。始業時間過ぎてるわよ。私語を慎みなさい」
 席を外していたケイシーが戻り、冷ややかに中傷していた社員たちを一喝した。

「す、すみません……」
 囁いていた同期たちは慌てて頭を下げ、散った紙片を拾うように仕事へ戻っていく。

 ケイシーはその様子を一瞥し、視線をジャンヌに向けた。
 目が合ったジャンヌは、胸の奥がひりつきながらも小さく頭を下げ、黙って席についた。

 机に向かい、帳簿を開く。数字を追う視線が二重にぶれ、文字が踊って見える。ジャンヌは心の中で何度も唱えた。

(仕事に集中しなくちゃ。何も考えないで、今はこれを……)

 けれど、頭の奥では、トーマスの顔、ハルディの勝ち誇った笑み、昨日の光景が何度も浮かんでは消え、浮かんでは消えた。

 指先は氷のように冷たく、羽根ペンは紙の上をうまく滑らない。

 午前中いっぱい、ジャンヌは必死に手を動かし続けた。呼吸は浅く、胸は小刻みに上下する。
 昼の鐘が鳴る頃には、背中を冷たい汗がつたっていた。

「ジャンヌ、大丈夫なの? 朝からずっと顔色が悪いわ」
 ケイシーが心配そうに声を掛ける。

「大丈夫です。ご心配かけてすみません」
 ジャンヌは申し訳なさそうに、小さく笑った。その笑みが自分の頬にうまく乗っていないことは、分かっていた。




 午後の帳簿整理の最中、ジャンヌは数字が急に霞んで見え、目の奥に鈍い痛みが走った。

(目がチカチカする……)

 羽根ペンを持つ手が震え、インクが紙の上で滲む。

 胸の奥で脈打つ不安が大きくなり、椅子の背に体を預けた瞬間、視界が暗く揺れた。

「……あ、れ……?」

 椅子が軋み、書類の束が床に散らばる。 
 周囲がざわめく中、誰かが立ち上がる音がした。

「ジャンヌ!」

 偶然、別部署の資料を届けに来ていたライリーが、真っ先に駆け寄った。栗色の髪が光をはじき、灰青の瞳が驚きに見開かれている。

 ジャンヌが床に崩れ落ちる寸前、その腕にしっかりと受け止められた。

「しっかり。動かなくていい」
 その声は低く落ち着き、慰めるでも責めるでもなく、揺るぎない温もりを宿していた。

 ジャンヌはかすかに首を振った。
「だいじょ……ぶ、です……仕事が……」

「無理だ。今は立つこともできないだろう」
 ライリーは短く言い、ケイシーに視線を送る。

「水とタオルを頼む」
 ケイシーは頷き、すぐに駆け出した。

 ライリーはジャンヌの肩を支え、その場で姿勢を整えながら囁いた。

「少しずつ息を吸って、吐いて。目を閉じて」

 ジャンヌは命じられた通りにするしかなかった。

 腕の中の体温が、氷のように冷えた自分の心をわずかに溶かしていく感覚があった。

 ケイシーが戻り、濡らした布をライリーに渡す。ライリーがそれを受け取り、ジャンヌの額に当てた。冷たい布と彼の手の温もりが、額に混ざり合って広がった。

「ジャンヌ、すごい熱だ。今日はもう帰ろう」
 ライリーが静かに言った。
「身体がこれでは、仕事にならない」

「……でも、まだ仕事が……」
 ジャンヌの声は小さく、消え入りそうだった。

「仕事より、君の体調の方が大事だ」
 ライリーは真っ直ぐに告げる。
 ケイシーも膝をついてジャンヌの手を取った。
「ジャンヌ、倒れるまで働くことが“頑張ってる”じゃないのよ」

 その言葉に、ジャンヌの目尻に涙がにじんだ。

(どうして、こうも自分は弱いのだろう……)

 社会人として仕事をしなければならないのに、恋愛問題で体調を崩し、周りに迷惑をかける自分が情けなかった。



 病院へ運ばれる道すがら、ジャンヌはもう自分の足で歩けなかった。

 熱が高すぎて、世界が遠く霞んでいく。  
 馬車の揺れに身を任せながら、かろうじて聞こえるのは、ライリーとケイシーの声。

 診察の受付や薬の説明をしている声が、波の音のように耳に流れ込んでくる。

「……ごめんなさい、ご迷惑を……」
 かすれた声でそれだけ言うと、ジャンヌは目を閉じた。

「謝ることじゃない」
 ライリーの声は淡々としているが、その奥に確かな優しさがあった。

 診察を終え、薬を受け取り、二人はジャンヌを寮まで送り届けた。

 寮の入り口に着く頃、ジャンヌの顔は青ざめ、汗がこめかみを伝っていた。

「ここまでで大丈夫です……」
 ジャンヌが弱々しく言うと、ケイシーが小さく首を振った。

「いいえ、部屋まで送るわ」

 ライリーが肩を貸し、ケイシーが荷物を持って、三人で寮の階段を上った。

 小さな部屋のベッドまで送り届け、ライリーは毛布を掛け直してやった。

「薬はここに置いておく。必ず飲んで、今日は何も考えずに寝ること」
 ライリーが低く言うと、ケイシーが柔らかい声で続けた。

「明日は必ず良くなるわ。大丈夫、ジャンヌ」

 ジャンヌは涙でにじむ視界の中、かすかに頷いた。二人の背中が扉の向こうに消えた後、毛布の中に顔を埋め、嗚咽がこぼれた。

 

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