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「おはようございます」
出勤したジャンヌは、いつものように皆に挨拶したが、その声はかすれ、自分のものではないように聞こえた。
「今日は珍しくギリギリの出勤なのね?」
一人の同期が片眉を上げ、わざとらしく上ずった声でからかうように言った。
ジャンヌは少し俯き、弱々しい笑みを添えて返す。
「……ええ、少し寝坊してしまって」
「ふーん? あら、そう」
同期は意味深な笑みを残して、自席に戻った。
その背後で、別の小さな声がひそひそと動き出す。
「ねぇねぇ、幼馴染が女の人と歩いていた話がショックだったんじゃない?」
「シッ、あまり突っ込んだら可哀想よ。ほら、顔色が悪いし」
数人の同期が、ジャンヌをちらちら見ながら囁き合う。笑い声は抑えているのに、棘だけが耳に届く。
帳場の他の社員たちは視線を寄せたが、何も言わず、各々の仕事に戻った。
その沈黙もまた、ジャンヌの胸を冷たく撫でていく。
「ここは学園じゃないの。始業時間過ぎてるわよ。私語を慎みなさい」
席を外していたケイシーが戻り、冷ややかに中傷していた社員たちを一喝した。
「す、すみません……」
囁いていた同期たちは慌てて頭を下げ、散った紙片を拾うように仕事へ戻っていく。
ケイシーはその様子を一瞥し、視線をジャンヌに向けた。
目が合ったジャンヌは、胸の奥がひりつきながらも小さく頭を下げ、黙って席についた。
机に向かい、帳簿を開く。数字を追う視線が二重にぶれ、文字が踊って見える。ジャンヌは心の中で何度も唱えた。
(仕事に集中しなくちゃ。何も考えないで、今はこれを……)
けれど、頭の奥では、トーマスの顔、ハルディの勝ち誇った笑み、昨日の光景が何度も浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
指先は氷のように冷たく、羽根ペンは紙の上をうまく滑らない。
午前中いっぱい、ジャンヌは必死に手を動かし続けた。呼吸は浅く、胸は小刻みに上下する。
昼の鐘が鳴る頃には、背中を冷たい汗がつたっていた。
「ジャンヌ、大丈夫なの? 朝からずっと顔色が悪いわ」
ケイシーが心配そうに声を掛ける。
「大丈夫です。ご心配かけてすみません」
ジャンヌは申し訳なさそうに、小さく笑った。その笑みが自分の頬にうまく乗っていないことは、分かっていた。
*
午後の帳簿整理の最中、ジャンヌは数字が急に霞んで見え、目の奥に鈍い痛みが走った。
(目がチカチカする……)
羽根ペンを持つ手が震え、インクが紙の上で滲む。
胸の奥で脈打つ不安が大きくなり、椅子の背に体を預けた瞬間、視界が暗く揺れた。
「……あ、れ……?」
椅子が軋み、書類の束が床に散らばる。
周囲がざわめく中、誰かが立ち上がる音がした。
「ジャンヌ!」
偶然、別部署の資料を届けに来ていたライリーが、真っ先に駆け寄った。栗色の髪が光をはじき、灰青の瞳が驚きに見開かれている。
ジャンヌが床に崩れ落ちる寸前、その腕にしっかりと受け止められた。
「しっかり。動かなくていい」
その声は低く落ち着き、慰めるでも責めるでもなく、揺るぎない温もりを宿していた。
ジャンヌはかすかに首を振った。
「だいじょ……ぶ、です……仕事が……」
「無理だ。今は立つこともできないだろう」
ライリーは短く言い、ケイシーに視線を送る。
「水とタオルを頼む」
ケイシーは頷き、すぐに駆け出した。
ライリーはジャンヌの肩を支え、その場で姿勢を整えながら囁いた。
「少しずつ息を吸って、吐いて。目を閉じて」
ジャンヌは命じられた通りにするしかなかった。
腕の中の体温が、氷のように冷えた自分の心をわずかに溶かしていく感覚があった。
ケイシーが戻り、濡らした布をライリーに渡す。ライリーがそれを受け取り、ジャンヌの額に当てた。冷たい布と彼の手の温もりが、額に混ざり合って広がった。
「ジャンヌ、すごい熱だ。今日はもう帰ろう」
ライリーが静かに言った。
「身体がこれでは、仕事にならない」
「……でも、まだ仕事が……」
ジャンヌの声は小さく、消え入りそうだった。
「仕事より、君の体調の方が大事だ」
ライリーは真っ直ぐに告げる。
ケイシーも膝をついてジャンヌの手を取った。
「ジャンヌ、倒れるまで働くことが“頑張ってる”じゃないのよ」
その言葉に、ジャンヌの目尻に涙がにじんだ。
(どうして、こうも自分は弱いのだろう……)
社会人として仕事をしなければならないのに、恋愛問題で体調を崩し、周りに迷惑をかける自分が情けなかった。
*
病院へ運ばれる道すがら、ジャンヌはもう自分の足で歩けなかった。
熱が高すぎて、世界が遠く霞んでいく。
馬車の揺れに身を任せながら、かろうじて聞こえるのは、ライリーとケイシーの声。
診察の受付や薬の説明をしている声が、波の音のように耳に流れ込んでくる。
「……ごめんなさい、ご迷惑を……」
かすれた声でそれだけ言うと、ジャンヌは目を閉じた。
「謝ることじゃない」
ライリーの声は淡々としているが、その奥に確かな優しさがあった。
診察を終え、薬を受け取り、二人はジャンヌを寮まで送り届けた。
寮の入り口に着く頃、ジャンヌの顔は青ざめ、汗がこめかみを伝っていた。
「ここまでで大丈夫です……」
ジャンヌが弱々しく言うと、ケイシーが小さく首を振った。
「いいえ、部屋まで送るわ」
ライリーが肩を貸し、ケイシーが荷物を持って、三人で寮の階段を上った。
小さな部屋のベッドまで送り届け、ライリーは毛布を掛け直してやった。
「薬はここに置いておく。必ず飲んで、今日は何も考えずに寝ること」
ライリーが低く言うと、ケイシーが柔らかい声で続けた。
「明日は必ず良くなるわ。大丈夫、ジャンヌ」
ジャンヌは涙でにじむ視界の中、かすかに頷いた。二人の背中が扉の向こうに消えた後、毛布の中に顔を埋め、嗚咽がこぼれた。
出勤したジャンヌは、いつものように皆に挨拶したが、その声はかすれ、自分のものではないように聞こえた。
「今日は珍しくギリギリの出勤なのね?」
一人の同期が片眉を上げ、わざとらしく上ずった声でからかうように言った。
ジャンヌは少し俯き、弱々しい笑みを添えて返す。
「……ええ、少し寝坊してしまって」
「ふーん? あら、そう」
同期は意味深な笑みを残して、自席に戻った。
その背後で、別の小さな声がひそひそと動き出す。
「ねぇねぇ、幼馴染が女の人と歩いていた話がショックだったんじゃない?」
「シッ、あまり突っ込んだら可哀想よ。ほら、顔色が悪いし」
数人の同期が、ジャンヌをちらちら見ながら囁き合う。笑い声は抑えているのに、棘だけが耳に届く。
帳場の他の社員たちは視線を寄せたが、何も言わず、各々の仕事に戻った。
その沈黙もまた、ジャンヌの胸を冷たく撫でていく。
「ここは学園じゃないの。始業時間過ぎてるわよ。私語を慎みなさい」
席を外していたケイシーが戻り、冷ややかに中傷していた社員たちを一喝した。
「す、すみません……」
囁いていた同期たちは慌てて頭を下げ、散った紙片を拾うように仕事へ戻っていく。
ケイシーはその様子を一瞥し、視線をジャンヌに向けた。
目が合ったジャンヌは、胸の奥がひりつきながらも小さく頭を下げ、黙って席についた。
机に向かい、帳簿を開く。数字を追う視線が二重にぶれ、文字が踊って見える。ジャンヌは心の中で何度も唱えた。
(仕事に集中しなくちゃ。何も考えないで、今はこれを……)
けれど、頭の奥では、トーマスの顔、ハルディの勝ち誇った笑み、昨日の光景が何度も浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
指先は氷のように冷たく、羽根ペンは紙の上をうまく滑らない。
午前中いっぱい、ジャンヌは必死に手を動かし続けた。呼吸は浅く、胸は小刻みに上下する。
昼の鐘が鳴る頃には、背中を冷たい汗がつたっていた。
「ジャンヌ、大丈夫なの? 朝からずっと顔色が悪いわ」
ケイシーが心配そうに声を掛ける。
「大丈夫です。ご心配かけてすみません」
ジャンヌは申し訳なさそうに、小さく笑った。その笑みが自分の頬にうまく乗っていないことは、分かっていた。
*
午後の帳簿整理の最中、ジャンヌは数字が急に霞んで見え、目の奥に鈍い痛みが走った。
(目がチカチカする……)
羽根ペンを持つ手が震え、インクが紙の上で滲む。
胸の奥で脈打つ不安が大きくなり、椅子の背に体を預けた瞬間、視界が暗く揺れた。
「……あ、れ……?」
椅子が軋み、書類の束が床に散らばる。
周囲がざわめく中、誰かが立ち上がる音がした。
「ジャンヌ!」
偶然、別部署の資料を届けに来ていたライリーが、真っ先に駆け寄った。栗色の髪が光をはじき、灰青の瞳が驚きに見開かれている。
ジャンヌが床に崩れ落ちる寸前、その腕にしっかりと受け止められた。
「しっかり。動かなくていい」
その声は低く落ち着き、慰めるでも責めるでもなく、揺るぎない温もりを宿していた。
ジャンヌはかすかに首を振った。
「だいじょ……ぶ、です……仕事が……」
「無理だ。今は立つこともできないだろう」
ライリーは短く言い、ケイシーに視線を送る。
「水とタオルを頼む」
ケイシーは頷き、すぐに駆け出した。
ライリーはジャンヌの肩を支え、その場で姿勢を整えながら囁いた。
「少しずつ息を吸って、吐いて。目を閉じて」
ジャンヌは命じられた通りにするしかなかった。
腕の中の体温が、氷のように冷えた自分の心をわずかに溶かしていく感覚があった。
ケイシーが戻り、濡らした布をライリーに渡す。ライリーがそれを受け取り、ジャンヌの額に当てた。冷たい布と彼の手の温もりが、額に混ざり合って広がった。
「ジャンヌ、すごい熱だ。今日はもう帰ろう」
ライリーが静かに言った。
「身体がこれでは、仕事にならない」
「……でも、まだ仕事が……」
ジャンヌの声は小さく、消え入りそうだった。
「仕事より、君の体調の方が大事だ」
ライリーは真っ直ぐに告げる。
ケイシーも膝をついてジャンヌの手を取った。
「ジャンヌ、倒れるまで働くことが“頑張ってる”じゃないのよ」
その言葉に、ジャンヌの目尻に涙がにじんだ。
(どうして、こうも自分は弱いのだろう……)
社会人として仕事をしなければならないのに、恋愛問題で体調を崩し、周りに迷惑をかける自分が情けなかった。
*
病院へ運ばれる道すがら、ジャンヌはもう自分の足で歩けなかった。
熱が高すぎて、世界が遠く霞んでいく。
馬車の揺れに身を任せながら、かろうじて聞こえるのは、ライリーとケイシーの声。
診察の受付や薬の説明をしている声が、波の音のように耳に流れ込んでくる。
「……ごめんなさい、ご迷惑を……」
かすれた声でそれだけ言うと、ジャンヌは目を閉じた。
「謝ることじゃない」
ライリーの声は淡々としているが、その奥に確かな優しさがあった。
診察を終え、薬を受け取り、二人はジャンヌを寮まで送り届けた。
寮の入り口に着く頃、ジャンヌの顔は青ざめ、汗がこめかみを伝っていた。
「ここまでで大丈夫です……」
ジャンヌが弱々しく言うと、ケイシーが小さく首を振った。
「いいえ、部屋まで送るわ」
ライリーが肩を貸し、ケイシーが荷物を持って、三人で寮の階段を上った。
小さな部屋のベッドまで送り届け、ライリーは毛布を掛け直してやった。
「薬はここに置いておく。必ず飲んで、今日は何も考えずに寝ること」
ライリーが低く言うと、ケイシーが柔らかい声で続けた。
「明日は必ず良くなるわ。大丈夫、ジャンヌ」
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