【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

文字の大きさ
29 / 74

29

しおりを挟む
 ジャンヌは、どうやって寮まで戻ってきたのか、自分でも思い出せなかった。

 気づけば、狭い部屋のベッドの端に腰を落とし、靴も脱がずに毛布にくるまっていた。

 冷たい夜気が窓辺からじわじわと染み込み、暗闇はまるでジャンヌの心をそのまま映しているようだった。

 胸の奥には、動かせない石の塊が居座り、息をするたびに重みを増していく。

 食堂に行く気力もなく、夕飯は抜いた。机の上に置かれたぬるい水を一口含むのに、ひどく時間がかかった。

 喉を通るたびに胸の奥が裂けるように痛い。ため息を飲み込もうとした拍子に、涙が一粒、頬を伝った。

「……トーマスっ……」

 名前を口にした瞬間、張り詰めていたものが切れ、嗚咽が小さな部屋に響いた。

 息を殺して泣こうとしても、体が震えて、声が漏れてしまう。胸の奥の空洞が音になってあふれ出す。

 横になって目を閉じると、次々に彼との記憶が押し寄せてきた。

 叔父一家に虐げられていた日々、唯一優しくしてくれた少年――トーマス。

 冬の日、冷たい洗濯水に手を浸すジャンヌにお湯を運んでくれたこと。
荒れた手に軟膏を差し出してくれたこと。 
トーマスが街に出た時は、必ず、お菓子をお土産でくれたこと。

 トーマスの優しさに、お返しができないと落ち込むジャンヌに、穏やかな笑みを浮かべて「気にすんな」と笑って頭を撫でてくれた、あの大きな手の感触。

 一緒に上京してからも、劇場や食事、街歩き――二人で過ごす時間が何よりの救いだった。
 
 身体を重ねるようになってからは、最初は戸惑いながらも、次第にその温もりの中で安堵を覚え、愛されているのだと信じた。

 あれはだからだと思っていたからだった。

 彼との思い出の一つ一つが胸を締めつけ、息をするたびに涙が溢れていく。



 ーージャンヌ気づけば、夢を見ていた。

 彼の部屋で夕食を準備している。
 夢の中のトーマスは、あの頃と同じ顔で部屋に帰ってきて、ジャンヌの頬に触れた。

「ジャンヌ、傷つけてごめん。ハルディとは遊びだった。俺には、ジャンヌしかいない」
 柔らかく、低く、優しい声でそう囁き、彼は腕を広げる。
 ジャンヌは泣きながら飛び込んで、彼の温かく広い胸に顔を埋め、もう離れないと胸に誓った。

……幸せな夢だった。
 けれど、目覚めたときにあったのは薄暗い天井と冷たい空気だけだった。

 そこはトーマスの部屋ではなく、自分の部屋だった。手のひらに残っているはずの温もりはなく、頬だけが涙で濡れている。

「……夢だったの……」

 かすれた声で呟くと、その瞬間に胸の奥の何かが音を立てて崩れ、ジャンヌは毛布の中に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 泣いても泣いても、あの日々は返ってこない。昨日までの思い出が、誰かの物語のように遠くなっていく。

「どうして……どうして、あんな顔で……あんな声で……」

 問いかけても、返ってくるのは嗚咽と自分の息の音だけだった。

小さな部屋にその音が反響して、孤独はますます濃くなっていく。

 窓の外では朝の光が差し、石畳を撫でる風の音が続いていた。

 いつもはその音を子守歌のように感じていたのに、今は心の隙間に冷たい指を差し込むようにしか聞こえない。

(……起きなくては……)

 そう自分に言い聞かせながら、鉛のように重い体をゆっくりと起こした。

 机の鏡を覗くと、頬は青ざめ、目の下には深い影が落ちていた。震える手で髪をまとめたが、指先の感覚が自分のものではないように遠かった。

 外套を羽織ろうとした瞬間、ジャンヌの視界がぐらりと揺れた。
 
 胸の奥が焼けるように熱いのに、背筋には氷のつめたさが這い上がってくる。指先まで力が抜け、壁に手をついてようやく立っている。

(いけない……仕事に行かなきゃ……)

 小さく口の中で繰り返しながら、外套のボタンを留めようとしたが、指が思うように動かない。

 昨日の夜、きちんとした睡眠が取れなかったせいだろうか。

 部屋の空気を吸い込むと、涙と吐き気が同時にこみ上げてくる。ジャンヌは必死に飲み込んだが、足元から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。

 膝に顔を埋め、浅い呼吸を繰り返す。
 胸の奥で石のような重みが動かず、体温だけが奪われていく。

(……仕事に行かなくちゃ……)

 何度唱えても体が言うことをきかない。  
 立ち上がろうとするたびに、頭の奥で鐘のような音が鳴り、視界が白く霞む。

(ダメ…、しっかりしなくては)

 自分にそう言い聞かせ、静かに呼吸を整えたあと、ゆっくりと起き上がったジャンヌは、外套の襟を握りしめた。

 胸の奥には石を抱え込んだような重さがあるのに、時間だけは止まってくれない。足を動かさなければ、置いていかれる。

 石畳を踏みしめる音が、自分のものかどうかも曖昧なまま、ジャンヌは商会への道を歩いた。






 


 


 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。 婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。 しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。 儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで—— 「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」 「……そんなことにはならない」 また始まった二人の世界。

「妹の方が可愛い」と不倫夫に捨てられた私。どうぞ借金まみれの実家ごと引き取って。私が肩代わりしていた負債、すべてお二人に引き継いでおきました

唯崎りいち
恋愛
「お前より妹の方が可愛い」 不倫した夫は私を追い出し、略奪した妹と笑った。 どうぞ、その「可愛い妹」と地獄までお幸せに。 私が肩代わりしていた実家と店の多額の借金、すべてお二人に引き継いでおきましたから。 「財布」を失った元夫と、逃げ場を失った妹。 身の丈に合わない贅沢を望んだ寄生虫たちの、惨めな末路を特等席で眺めさせていただきます。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

どうぞお好きになさってください

みおな
恋愛
学園に入学して一ヶ月。 婚約者の第一王子殿下は言った。 「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか。君が王太子妃になることは決定事項だ。だから、せめて学園に通う二年間は、僕は恋がしたい」 公爵令嬢はその綺麗な顔に冷酷な笑みを浮かべる。 「好きになさればよろしいわ」

夫が運命の番と出会いました

重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。 だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。 しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

処理中です...