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ジャンヌはトーマスの部屋の小さな椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を固く組んだまま、じっと扉を見つめていた。
燭台の火は芯を短くして頼りなく揺れ、部屋の影をゆらゆらと伸ばしている。
(きっと帰ってくる。今日は、きっと……)
何度もそう心の中でつぶやく。
けれど、壁掛け時計の針だけが淡々と進み、扉が開く気配は無かった。
窓の外では風が石畳を撫で、街の明かりがひとつ、またひとつ消えていく。
冷えた空気がすき間から忍び込み、足元をじわりと冷やした。
眠ろうにも横になれず、やがて椅子の上で膝を抱え、背を丸める。目蓋の奥がひりつき、胸の奥の小さな鼓動がやけに大きく響く。
夜が深まるにつれ、不安は輪郭を持ち、体温を奪っていった。
指先が白くなるまでハンカチを握りしめ、ジャンヌはほとんど一睡もできぬまま、東の空が白むのを見ていた。
朝、商会の寮に戻って鏡を覗くと、頬は青ざめ、目の下にはうっすら影が落ちている。
髪をまとめ、いつものリボンを結ぶ手先もわずかに震えていた。
それでも――仕事に行かなければ、と自分に言い聞かせるように外套を羽織り、冷たい空気の中を商会へ向かった。
***
仕事を終えたジャンヌは、胸の奥に溜まったものを抑えきれず、トーマスの勤める建築会社へ足を運んだ。
せめて顔を見て確かめたかった。受付に立ち、声をかける。
「すみません…。設計部のトーマスさんをお願いしたいのですが……」
カウンターの奥から現れたのは、愛らしい笑顔の奥に氷のような冷たさを宿した女性――ハルディだった。
「どのようなご用件でしょうか?」
その声音は柔らかいのに、どこか見下した雰囲気があった。
ジャンヌは胸の奥に冷たいものが落ちる感覚を覚え、思わず言葉を探した。
「えっと、その……」
視線は泳ぎ、喉がからからに乾く。言葉は出てこない。
ちょうどそのとき、背後の廊下から靴音が近づいてきた。
「ハルディ……」
トーマスの声だった。低く、少し息が弾んでいる。
ジャンヌは反射的に振り向いた。
トーマスはジャンヌに気づくと一瞬だけ目を見開き、その瞬間、胸の奥に一抹の緊張が走ったのが顔に出た。
けれど、すぐに表情を整え、何事もなかったかのようにハルディへ向き直った。
「その、ハルディ、誤解しないでくれ。彼女は、ただの幼馴染なんだ」
「まぁ、同郷の幼馴染って、この方だったのね?」
わざとらしいほど丁寧に、しかし口元には小さな棘を含んだ笑みが浮かんでいた。
ジャンヌは胸が詰まり、どう返せばいいかわからない。喉が鳴っただけで、声にならなかった。
「ジャンヌ、一体、会社にまで何の用だ?」
トーマスの声は低く、いつもより硬い。
迷惑そうな響きが混じっているのを、ジャンヌは聞き逃せなかった。
目の前で、彼が自分より先にハルディに向かって言葉をかけた光景が頭から離れない。
ハルディは、そんなジャンヌを横目に、あくまで余裕たっぷりに続ける。
「ねぇ、トーマス。仕事は終わった?」
「……ああ、終わった」
「じゃあ一緒に帰りましょうよ。昨夜、トーマスがたくさん求めてきたから、寝不足で…今日、一日大変だったのよ?」
甘えた声で話すハルディが、さりげなくトーマスの近くに身を寄せる。惚気とも挑発ともつかない調子に、ジャンヌの鼓動が一気に冷たくなる。
「…こら、ハルディ。人に聞かれたらまずいだろ」
トーマスは小声で笑いながらも、否定しなかった。
「ハルディが可愛すぎるから、仕方ないよ。…まだ足りないくらいだった。帰るなら、いつもの所で待っててくれ」
「ふふっ…わかったわ、待ってる」
ハルディは片目をつぶり、すれ違いざまにトーマスの腕に軽く触れて、奥へ消えていった。
残されたジャンヌの前に、トーマスは気まずそうに立ち尽くした。
「……トーマス?…これは…どういうこと…なの?」
「…はぁ、ジャンヌ。見てわからないか?恋人ができたんだ」
大袈裟なため息をつき、トーマスの口調は傲慢な響きがあった。
(恋人?!)
「え、…今の人…が?」
「ああ。入社してしばらく経った頃、彼女から手紙をもらって、付き合うことにしたんだ」
「っ…トーマス…?」
ジャンヌが呆然となりながら、口を開く。
「…わたしたち…恋人では、無かったの…?」
「まさか!!俺たち、幼馴染だろう!?」
あからさまにトーマスは驚き、狼狽えた。ジャンヌは青ざめ、小さく言葉を繋ぐ。
「……私達、愛し合った…よね…?」
「っ……、いや、その、愛し合ったわけじゃない。ただ、身体を繋いだだけで、恋人のソレじゃないだろう?幼馴染同士で欲を吐き出しただけじゃないか」
トーマスが悪びれずにいった言葉がジャンヌの胸を容赦なく突き刺した。
「ジャンヌ、俺達はただの幼馴染だ」
「……っ!!」
「っ…、ま、まあ、こういうことだから、ジャンヌ。もう俺の部屋には来ないでくれ。今までありがとうな」
それだけ言い残し、トーマスは足早に去っていく。
ジャンヌは声を出せなかった。
手の中のハンカチを握りしめ、立ち尽くすしかなかった。
頭の中で、何度も「違う」「そんなはずない」と響く声だけが反響し、目の前の世界が遠く、冷たくぼやけていった。
燭台の火は芯を短くして頼りなく揺れ、部屋の影をゆらゆらと伸ばしている。
(きっと帰ってくる。今日は、きっと……)
何度もそう心の中でつぶやく。
けれど、壁掛け時計の針だけが淡々と進み、扉が開く気配は無かった。
窓の外では風が石畳を撫で、街の明かりがひとつ、またひとつ消えていく。
冷えた空気がすき間から忍び込み、足元をじわりと冷やした。
眠ろうにも横になれず、やがて椅子の上で膝を抱え、背を丸める。目蓋の奥がひりつき、胸の奥の小さな鼓動がやけに大きく響く。
夜が深まるにつれ、不安は輪郭を持ち、体温を奪っていった。
指先が白くなるまでハンカチを握りしめ、ジャンヌはほとんど一睡もできぬまま、東の空が白むのを見ていた。
朝、商会の寮に戻って鏡を覗くと、頬は青ざめ、目の下にはうっすら影が落ちている。
髪をまとめ、いつものリボンを結ぶ手先もわずかに震えていた。
それでも――仕事に行かなければ、と自分に言い聞かせるように外套を羽織り、冷たい空気の中を商会へ向かった。
***
仕事を終えたジャンヌは、胸の奥に溜まったものを抑えきれず、トーマスの勤める建築会社へ足を運んだ。
せめて顔を見て確かめたかった。受付に立ち、声をかける。
「すみません…。設計部のトーマスさんをお願いしたいのですが……」
カウンターの奥から現れたのは、愛らしい笑顔の奥に氷のような冷たさを宿した女性――ハルディだった。
「どのようなご用件でしょうか?」
その声音は柔らかいのに、どこか見下した雰囲気があった。
ジャンヌは胸の奥に冷たいものが落ちる感覚を覚え、思わず言葉を探した。
「えっと、その……」
視線は泳ぎ、喉がからからに乾く。言葉は出てこない。
ちょうどそのとき、背後の廊下から靴音が近づいてきた。
「ハルディ……」
トーマスの声だった。低く、少し息が弾んでいる。
ジャンヌは反射的に振り向いた。
トーマスはジャンヌに気づくと一瞬だけ目を見開き、その瞬間、胸の奥に一抹の緊張が走ったのが顔に出た。
けれど、すぐに表情を整え、何事もなかったかのようにハルディへ向き直った。
「その、ハルディ、誤解しないでくれ。彼女は、ただの幼馴染なんだ」
「まぁ、同郷の幼馴染って、この方だったのね?」
わざとらしいほど丁寧に、しかし口元には小さな棘を含んだ笑みが浮かんでいた。
ジャンヌは胸が詰まり、どう返せばいいかわからない。喉が鳴っただけで、声にならなかった。
「ジャンヌ、一体、会社にまで何の用だ?」
トーマスの声は低く、いつもより硬い。
迷惑そうな響きが混じっているのを、ジャンヌは聞き逃せなかった。
目の前で、彼が自分より先にハルディに向かって言葉をかけた光景が頭から離れない。
ハルディは、そんなジャンヌを横目に、あくまで余裕たっぷりに続ける。
「ねぇ、トーマス。仕事は終わった?」
「……ああ、終わった」
「じゃあ一緒に帰りましょうよ。昨夜、トーマスがたくさん求めてきたから、寝不足で…今日、一日大変だったのよ?」
甘えた声で話すハルディが、さりげなくトーマスの近くに身を寄せる。惚気とも挑発ともつかない調子に、ジャンヌの鼓動が一気に冷たくなる。
「…こら、ハルディ。人に聞かれたらまずいだろ」
トーマスは小声で笑いながらも、否定しなかった。
「ハルディが可愛すぎるから、仕方ないよ。…まだ足りないくらいだった。帰るなら、いつもの所で待っててくれ」
「ふふっ…わかったわ、待ってる」
ハルディは片目をつぶり、すれ違いざまにトーマスの腕に軽く触れて、奥へ消えていった。
残されたジャンヌの前に、トーマスは気まずそうに立ち尽くした。
「……トーマス?…これは…どういうこと…なの?」
「…はぁ、ジャンヌ。見てわからないか?恋人ができたんだ」
大袈裟なため息をつき、トーマスの口調は傲慢な響きがあった。
(恋人?!)
「え、…今の人…が?」
「ああ。入社してしばらく経った頃、彼女から手紙をもらって、付き合うことにしたんだ」
「っ…トーマス…?」
ジャンヌが呆然となりながら、口を開く。
「…わたしたち…恋人では、無かったの…?」
「まさか!!俺たち、幼馴染だろう!?」
あからさまにトーマスは驚き、狼狽えた。ジャンヌは青ざめ、小さく言葉を繋ぐ。
「……私達、愛し合った…よね…?」
「っ……、いや、その、愛し合ったわけじゃない。ただ、身体を繋いだだけで、恋人のソレじゃないだろう?幼馴染同士で欲を吐き出しただけじゃないか」
トーマスが悪びれずにいった言葉がジャンヌの胸を容赦なく突き刺した。
「ジャンヌ、俺達はただの幼馴染だ」
「……っ!!」
「っ…、ま、まあ、こういうことだから、ジャンヌ。もう俺の部屋には来ないでくれ。今までありがとうな」
それだけ言い残し、トーマスは足早に去っていく。
ジャンヌは声を出せなかった。
手の中のハンカチを握りしめ、立ち尽くすしかなかった。
頭の中で、何度も「違う」「そんなはずない」と響く声だけが反響し、目の前の世界が遠く、冷たくぼやけていった。
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