【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 翌日、ジャンヌはまだ陽が高くなる前に商会に着いた。

 書き物机の前に腰を下ろすと、胸の奥にあるざわめきを押し込めるように深呼吸をする。

(今日こそは早く仕事を片づけて、トーマスの部屋に行こう…顔を見れば落ち着くはず)

 そう決めて、羽根ペンを握った。
 同期がまだ来ない静かな帳場に、紙をめくる音だけが響く。

「おはようジャンヌ」
 背後から軽い声がして、彼女は振り向いた。同期の一人だった。

「ねえ、あなたのイケメン幼馴染って、やっぱりだったのね?」
 唐突な彼女の言葉にジャンヌは目を瞬く。

「どういうこと?」と聞き返す間もなく、彼女は続けた。

「昨日、街で見たの。すっごく可愛い女の人と手を繋いで歩いてた。見間違いじゃないと思うわ。だって、あなたの幼馴染ってかなり美形でしょ?その女の人もすごく可愛くて、まさにお似合いって感じだったわ。とは違ってね」

 ジャンヌは何も言えず、ただ「違う…そんなはず…」と心の中で繰り返すしかなかった。

 やがて、同僚たちが次々と出勤してきて、いつもの喧騒が帳場に戻る。

 仕事が始まっても、彼女の胸の奥にはまだ波立つ思いが渦を巻いていた。帳簿の数字を追いながらも、視界がかすむ。

 ペン先が紙をひっかく音だけがやけに大きく響く。

 昨日ほど大きなミスはなかったが、いつもの正確さが発揮できない。

(…仕事に集中しなくちゃ。余計なことを考えないで)

 何度言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えなかった。

 集中しようとするほど、頭の奥に“噂”の言葉が滲み出してくる。

――街でトーマスがと手を繋いでいたという話。

 否定したいのに、思考はそこから離れない。

「ジャンヌ、ここがずれている」
 帳場長の声にハッと顔を上げる。転記した列が一つ飛んでいた。

「……申し訳ありません」

「一体、どうしたんだ?昨日といい、今日といい…もしかして、体調でも悪いのか?」

「…いえ、体調は問題ありません。急ぎ修正いたします」
 昨日に続き、信じられないほどの初歩的なミスだった。胸の奥が冷たくなる。

 背後で笑い声とささやき声が走る。
「見た?」
「またやってる」
「幼馴染の話を気にしてるんじゃない?」

 紙を擦るような笑い声が耳に残り、手の動きがますます鈍くなる。

「ジャンヌ、これ。昨日の台帳の控え」
 不意に横から差し出された紙束に顔を上げると、ライリーが立っていた。
栗色の短い髪、灰青の瞳が穏やかにこちらを見ている。

「税区分の列、ここで切り替えると見やすいよ」
 そう言って、一枚のサンプルを指先で示す。

「あ、ありがとうございます」
 ジャンヌは受け取りながら、胸の奥にわずかな緩みを感じた。

 ライリーはそれ以上踏み込まず、「無理するなよ」とだけ言って離れていった。



 午前の仕事を終え、昼休み。
 ジャンヌは食堂の隅に腰を下ろし、冷めかけたスープを両手で抱えた。

 窓からの光がやけに白く、周囲の話し声が遠い波のように響く。

(私、どうしてこんなに駄目になってるんだろう……)

 誰にも聞かれない声でつぶやく。
 昨日も今日も、トーマスには会えない。何をしているのか尋ねることさえできない自分に気づき、唇を噛んだ。

「ここ、空いてる?」
 盆を持ったライリーが、向かいに腰を下ろす。

「昨日より顔色いいじゃないか」
 ジャンヌは小さく首を振った。

「……昨日から仕事に集中ができなくて…気をつけているつもりでも、うまくいかないんです」

「誰だってあるさ」
 ライリーはスープを口に運びながら、淡々とした声で言った。

「俺も隣国に行ったばかりの頃は、ミスばかりだった。数字に埋もれると視野が狭くなる。だから、一度外に出て呼吸を整える。それだけで回復することもある」

 その言葉は優しさというより、経験からくる“実用的な助言”だった。

甘やかしではないけれど、突き放しでもない。ジャンヌはその温度に救われた気がした。

「……今度、行き詰まった時は、外に出て呼吸を整えてみます」
 自分からそう口にして驚く。
 ライリーは微笑を浮かべ、「それがいい」と頷いた。

 午後、机に戻るジャンヌの歩幅は、今朝より少しだけ軽かった。

 まだ胸の奥に痛みはある。けれど、誰かに声をかけてもらえたことが、小さな支えになっていた。



 
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