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翌日、ジャンヌはまだ陽が高くなる前に商会に着いた。
書き物机の前に腰を下ろすと、胸の奥にあるざわめきを押し込めるように深呼吸をする。
(今日こそは早く仕事を片づけて、トーマスの部屋に行こう…顔を見れば落ち着くはず)
そう決めて、羽根ペンを握った。
同期がまだ来ない静かな帳場に、紙をめくる音だけが響く。
「おはようジャンヌ」
背後から軽い声がして、彼女は振り向いた。同期の一人だった。
「ねえ、あなたのイケメン幼馴染って、やっぱりただの幼馴染だったのね?」
唐突な彼女の言葉にジャンヌは目を瞬く。
「どういうこと?」と聞き返す間もなく、彼女は続けた。
「昨日、街で見たの。すっごく可愛い女の人と手を繋いで歩いてた。見間違いじゃないと思うわ。だって、あなたの幼馴染ってかなり美形でしょ?その女の人もすごく可愛くて、まさにお似合いって感じだったわ。誰かさんとは違ってね」
ジャンヌは何も言えず、ただ「違う…そんなはず…」と心の中で繰り返すしかなかった。
やがて、同僚たちが次々と出勤してきて、いつもの喧騒が帳場に戻る。
仕事が始まっても、彼女の胸の奥にはまだ波立つ思いが渦を巻いていた。帳簿の数字を追いながらも、視界がかすむ。
ペン先が紙をひっかく音だけがやけに大きく響く。
昨日ほど大きなミスはなかったが、いつもの正確さが発揮できない。
(…仕事に集中しなくちゃ。余計なことを考えないで)
何度言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
集中しようとするほど、頭の奥に“噂”の言葉が滲み出してくる。
――街でトーマスが見知らぬ女性と手を繋いでいたという話。
否定したいのに、思考はそこから離れない。
「ジャンヌ、ここがずれている」
帳場長の声にハッと顔を上げる。転記した列が一つ飛んでいた。
「……申し訳ありません」
「一体、どうしたんだ?昨日といい、今日といい…もしかして、体調でも悪いのか?」
「…いえ、体調は問題ありません。急ぎ修正いたします」
昨日に続き、信じられないほどの初歩的なミスだった。胸の奥が冷たくなる。
背後で笑い声とささやき声が走る。
「見た?」
「またやってる」
「幼馴染の話を気にしてるんじゃない?」
紙を擦るような笑い声が耳に残り、手の動きがますます鈍くなる。
「ジャンヌ、これ。昨日の台帳の控え」
不意に横から差し出された紙束に顔を上げると、ライリーが立っていた。
栗色の短い髪、灰青の瞳が穏やかにこちらを見ている。
「税区分の列、ここで切り替えると見やすいよ」
そう言って、一枚のサンプルを指先で示す。
「あ、ありがとうございます」
ジャンヌは受け取りながら、胸の奥にわずかな緩みを感じた。
ライリーはそれ以上踏み込まず、「無理するなよ」とだけ言って離れていった。
*
午前の仕事を終え、昼休み。
ジャンヌは食堂の隅に腰を下ろし、冷めかけたスープを両手で抱えた。
窓からの光がやけに白く、周囲の話し声が遠い波のように響く。
(私、どうしてこんなに駄目になってるんだろう……)
誰にも聞かれない声でつぶやく。
昨日も今日も、トーマスには会えない。何をしているのか尋ねることさえできない自分に気づき、唇を噛んだ。
「ここ、空いてる?」
盆を持ったライリーが、向かいに腰を下ろす。
「昨日より顔色いいじゃないか」
ジャンヌは小さく首を振った。
「……昨日から仕事に集中ができなくて…気をつけているつもりでも、うまくいかないんです」
「誰だってあるさ」
ライリーはスープを口に運びながら、淡々とした声で言った。
「俺も隣国に行ったばかりの頃は、ミスばかりだった。数字に埋もれると視野が狭くなる。だから、一度外に出て呼吸を整える。それだけで回復することもある」
その言葉は優しさというより、経験からくる“実用的な助言”だった。
甘やかしではないけれど、突き放しでもない。ジャンヌはその温度に救われた気がした。
「……今度、行き詰まった時は、外に出て呼吸を整えてみます」
自分からそう口にして驚く。
ライリーは微笑を浮かべ、「それがいい」と頷いた。
午後、机に戻るジャンヌの歩幅は、今朝より少しだけ軽かった。
まだ胸の奥に痛みはある。けれど、誰かに声をかけてもらえたことが、小さな支えになっていた。
書き物机の前に腰を下ろすと、胸の奥にあるざわめきを押し込めるように深呼吸をする。
(今日こそは早く仕事を片づけて、トーマスの部屋に行こう…顔を見れば落ち着くはず)
そう決めて、羽根ペンを握った。
同期がまだ来ない静かな帳場に、紙をめくる音だけが響く。
「おはようジャンヌ」
背後から軽い声がして、彼女は振り向いた。同期の一人だった。
「ねえ、あなたのイケメン幼馴染って、やっぱりただの幼馴染だったのね?」
唐突な彼女の言葉にジャンヌは目を瞬く。
「どういうこと?」と聞き返す間もなく、彼女は続けた。
「昨日、街で見たの。すっごく可愛い女の人と手を繋いで歩いてた。見間違いじゃないと思うわ。だって、あなたの幼馴染ってかなり美形でしょ?その女の人もすごく可愛くて、まさにお似合いって感じだったわ。誰かさんとは違ってね」
ジャンヌは何も言えず、ただ「違う…そんなはず…」と心の中で繰り返すしかなかった。
やがて、同僚たちが次々と出勤してきて、いつもの喧騒が帳場に戻る。
仕事が始まっても、彼女の胸の奥にはまだ波立つ思いが渦を巻いていた。帳簿の数字を追いながらも、視界がかすむ。
ペン先が紙をひっかく音だけがやけに大きく響く。
昨日ほど大きなミスはなかったが、いつもの正確さが発揮できない。
(…仕事に集中しなくちゃ。余計なことを考えないで)
何度言い聞かせても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
集中しようとするほど、頭の奥に“噂”の言葉が滲み出してくる。
――街でトーマスが見知らぬ女性と手を繋いでいたという話。
否定したいのに、思考はそこから離れない。
「ジャンヌ、ここがずれている」
帳場長の声にハッと顔を上げる。転記した列が一つ飛んでいた。
「……申し訳ありません」
「一体、どうしたんだ?昨日といい、今日といい…もしかして、体調でも悪いのか?」
「…いえ、体調は問題ありません。急ぎ修正いたします」
昨日に続き、信じられないほどの初歩的なミスだった。胸の奥が冷たくなる。
背後で笑い声とささやき声が走る。
「見た?」
「またやってる」
「幼馴染の話を気にしてるんじゃない?」
紙を擦るような笑い声が耳に残り、手の動きがますます鈍くなる。
「ジャンヌ、これ。昨日の台帳の控え」
不意に横から差し出された紙束に顔を上げると、ライリーが立っていた。
栗色の短い髪、灰青の瞳が穏やかにこちらを見ている。
「税区分の列、ここで切り替えると見やすいよ」
そう言って、一枚のサンプルを指先で示す。
「あ、ありがとうございます」
ジャンヌは受け取りながら、胸の奥にわずかな緩みを感じた。
ライリーはそれ以上踏み込まず、「無理するなよ」とだけ言って離れていった。
*
午前の仕事を終え、昼休み。
ジャンヌは食堂の隅に腰を下ろし、冷めかけたスープを両手で抱えた。
窓からの光がやけに白く、周囲の話し声が遠い波のように響く。
(私、どうしてこんなに駄目になってるんだろう……)
誰にも聞かれない声でつぶやく。
昨日も今日も、トーマスには会えない。何をしているのか尋ねることさえできない自分に気づき、唇を噛んだ。
「ここ、空いてる?」
盆を持ったライリーが、向かいに腰を下ろす。
「昨日より顔色いいじゃないか」
ジャンヌは小さく首を振った。
「……昨日から仕事に集中ができなくて…気をつけているつもりでも、うまくいかないんです」
「誰だってあるさ」
ライリーはスープを口に運びながら、淡々とした声で言った。
「俺も隣国に行ったばかりの頃は、ミスばかりだった。数字に埋もれると視野が狭くなる。だから、一度外に出て呼吸を整える。それだけで回復することもある」
その言葉は優しさというより、経験からくる“実用的な助言”だった。
甘やかしではないけれど、突き放しでもない。ジャンヌはその温度に救われた気がした。
「……今度、行き詰まった時は、外に出て呼吸を整えてみます」
自分からそう口にして驚く。
ライリーは微笑を浮かべ、「それがいい」と頷いた。
午後、机に戻るジャンヌの歩幅は、今朝より少しだけ軽かった。
まだ胸の奥に痛みはある。けれど、誰かに声をかけてもらえたことが、小さな支えになっていた。
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