【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 その日、ジャンヌは朝から落ち着かなかった。

 二日続けて帰ってこないトーマスのことを考えまいと、羽根ペンを走らせる手にぐっと力を込める。

 机に身を寄せ、数字の列を睨みつけるようにして仕事へ没頭した。

 ――今日は残業しないで、早くトーマスの部屋に行こう。

 余計なことを考えないために、まずは目の前を片づける。胸の奥でその言葉を何度も繰り返す。

 だが、考えないほどに思考はにじみ出る。
 新規先の台帳で税区分の列を一つ飛ばし、丸ごと一頁ずらして転記してしまったことに、照合作業の終盤でようやく気づいた。数値が合わず、背を冷や汗が伝う。

「ジャンヌ、どうした?君らしくないぞ」

 帳場長の眉がぴくりと動く。叱責は短く、正確だった。

「訂正に一刻かかる。今日はこれ以上広げるな。手順を見直してからやり直せ」

「……申し訳ありません」
 ジャンヌが慌てて頭を下げた背中の向こうで、小さな囁きが走る。

「見た?」
「あの子でもミスるんだ」
「調子にのってたから、いい気味」
「張りつめすぎるからよ」

 薄い笑い声が紙の端を擦るように耳に残り、ざらつく言葉が手の動きを鈍らせた。




 昼休み、ジャンヌは食堂の隅にひとり座り、冷めかけたスープを両手で包む。

 深呼吸をしても胸の重さは抜けない。 頭を冷やすつもりが、同じ思考をぐるぐる巡るばかりだった。

「座ってもいいかな」
 ふと、向かいに影が落ちる。ライリーだった。盆を置く手つきは静かで、目はまっすぐにジャンヌを見つめていた。

「叱られたと聞いた。――君にしては珍しいな」

「……はい。完全に私のミスです」
 ジャンヌは言葉を選ぶ余裕もなく、正直に頷き、瞳を伏せた。

「なら、やることは単純だ」
 ライリーはパンをちぎりながら、淡々と続ける。

「まずは、原因を切り分ける。①作業の順序、②確認の読み合わせ、③外乱――気が散る要因。三つに分けて、明日まず①と②を直す。③は、今日のうちに対処する」

「……今日のうちに、ですか?」
 ジャンヌは思わず顔を上げる。

「そう。つまり――帰ることだ」
 ライリーの声は優しくも甘くもなかったが、真っすぐで誠実な響きがあった。

「ミスを取り返したい気持ちはわかる。
けど、疲れた頭で数字に向かうと、傷口が広がる。止血して、明日の朝いちばんの集中力でやる方が速い」

「でも、今日中に原紙を……」
 言いかけたところで、横から声が重なる。

「ライリーの言う通りよ」
 ケイシーがトレイを持って現れ、ふたりの間に腰を下ろした。

「あなた、ここまでほとんどミスがない。今日の一件で優秀さは何ひとつ損なわれないわ。むしろ、引き際を見誤らないことの方が、長く働く上では重要よ」

 ケイシーはジャンヌの表情をじっと見た。

「それに――少し顔色が悪い。休むのも仕事のうちだから」

 ライリーも頷く。
「明日、俺が朝一で点検を手伝う。だから今日は戻って、温かいものを食べて、寝る。数字は逃げない」

 ジャンヌは唇を結び、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えて、今日は帰ります」

 席を立つ前、胸の底に淀んでいた重さが、ほんのわずか形を変えた気がした。



***

 一方で――トーマスは別の熱に浮かされていた。

 仕事の合間、人目のない場所でハルディとすれ違えば、二人はそっと唇を重ねた。
 廊下ですれ違うときも、彼女の涼やかな指先がトーマスの袖口をかすめ、視線だけで秘密めいた言葉を交わす。

(――これが、恋人というものなのか)


 胸の奥で言葉を転がすたび、体温が上がる。昼の光まで柔らかく見える。

 休憩の終わり、裏庭へ続く回廊の角で声が荒んだ。

「ハルディ、話がある」

 振り返った彼女の前に、ユアンが立っていた。営業部のエース、華やかな雰囲気はいつも通りだが、今日の目はどこか切迫している。

「よりを戻したい。俺はまだ――」
 言い切るより早く、ハルディは短く首を振った。

「ごめんなさい、ユアン。もう恋人ができたの」

 静かな声だった。はっきりと線を引く拒絶。ユアンの口がわずかに開く。言葉が続かなかった。

 角影からそのやり取りを見たトーマスは、喉元に熱がせり上がるのを感じた。

 それは嫉妬や不安ではない、確かな手応え――自分が選ばれたのだという優越感が身体の芯を支配していった。

 定時の鐘が鳴ると、トーマスは早足で自分の部屋へ向かった。

 数日分の着替えを鞄に詰める。
 机に目をやると、端に折りたたまれた紙――ジャンヌの書き置きがまだそこにあった。

 一瞬、指先が止まる。

(……話すのは、また今度だ)

 ペンを取り、短い文を書いた。
 
【用事があって、しばらく部屋には戻れない。トーマス】

 それ以上の説明はしなかった。するべきかもしれない言葉は、喉でほどけて形にならない。

 扉を閉めて廊下に出ると、夜風が頬を冷やす。足は自然とハルディの住む方角へ向いていた。歩幅が広がる。心は前だけを見ている。



 ジャンヌは、いつもなら寄っていくはずのトーマスの部屋には寄らず、寮へ帰った。

 鏡の前で髪を結び直した。

 「明日は頑張ろう」
 ――その言葉を胸の奥に沈めて、目を閉じる。

(恋も仕事も頑張りたい)

 彼女にとってトーマスは、いまだ心の拠り所であり、恋そのものだった。

 同じ頃、トーマスはハルディの部屋へ向かう石畳を軽い足取りで歩いていた。

 頭の中は、ハルディがどんな顔で迎えてくれるか、一緒に何を食べようか、夜を共に過ごすことでいっぱいだった。

 ジャンヌのことは、幼馴染としてありがたい存在だとは思っても、それ以上の感情は無い。

――同じ夜、同じ街で、二人の心はまったく別の方向を見ていた。





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