ラブドールは突然に

高殿アカリ

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真っ黒で巨大な影が幾重にも積まれ、びりりっと無惨にも洋服の破れる音がやけに耳に残った。荒い呼吸と重たい身体は、それだけで私を萎縮させる。もう終わりだわ。そう諦めた時だった。彼が私の前に現れたのだ。
力強い腕力で私にのしかかっていた獣たちを薙ぎ倒すと、絶望していた私の身体を最も容易く抱き上げた。琥珀色の瞳が怪しく煌めき、深い蒼に染まる長髪が夜空に舞った。
悪夢が終わらないままに、私は彼に連れられて夜の街を逃げる。どこまでもどこまでも、男たちの影は私たちを追いかけてきた。
だから、鳥籠に入ったのだ。それがどれほど愚かな行為であったのか、今の私ならよく分かる。鳥籠は私を守ってくれるシェルターであり、同時に私を閉じ込める牢獄でもあった。琥珀色の瞳が私を捉えて離さない。逃げる術は、既に無かった。

「――――さん、小谷さーん? 起きてください」
名前を呼ばれた気がして、重たい瞼を持ち上げた。ぼやけた視界の向こうは真っ白で、次に白衣を着た看護師が私を覗き込むのが見えた。そこで、ここが病院であることを理解した。
「おはようございます、小谷さん。お気分はいかがですか?」
にっこりと人好きのする笑顔を向けられて私の新しい生活は始まった。
「あの、小谷って誰のことですか?」
私の問いかけに看護師の顔が一瞬引き攣ったように見えた。それから気を取り直したようにもう一度私に笑顔を向ける。
「記憶が混乱しているのかもしれませんね。今、先生を呼んできますので少し待っていてくださいね」
こうして清潔に保たれた部屋の中で、私は自分の境遇を知ることとなった。主治医曰く、私は大きな事故に遭って記憶喪失になってしまったのだとか。小谷澪、二十五歳と記入された個人カードを渡された。空中列車同士がぶつかった事故の被害は甚大で、多くの被害者がひとまず空いていた病院に運び込まれた。私もその被害者の一人だった。私が今入院している病院は民間経営のため、退院するにもオーナーの許可を得なければならない、と主治医は続けた。しかし現在、その肝心のオーナーが不在のため現場では私の処遇を決めかねているのだそう。
「身体には何も問題はない。すぐにでも普通の生活が送れるんだがね」
はぁ、と溜め息を吐いた主治医が看護師に問いかけた。
「退院させてはいけないのかね?」
「しかし、まだオーナーが帰ってきてません」
主治医が拳をテーブルに力強く叩きつけた。診察時の様子からは考えられないほどの剣幕だった。突然のことに驚いて、私は肩を揺らす。
「彼女自身のためにも退院させるべきだとは思わんのかね! はっ、なんだ。それとも君は彼女の代わりになれると?!」
嫌な笑顔で看護師を品定めする主治医に、彼女は何も言えなくなったようだ。そのまま黙って立ち去ってしまった。結果、私は主治医の独断により退院させられることとなった。
病院を出る直前、看護師が何度も私に謝ってきた。彼女の謝罪の意味を理解したのはすぐだった。病院を出た私の目に、私の顔が飛び込んできたからだ。
ビルの巨大電光掲示板でも、歩行者用通路の掲示板にも、あるいはすれ違う人の個人用端末のディスプレイにすら、私の顔をしたラブドールの広告が掲載されていたのだ。幸いにも、病院前を歩く人々の視界は仮想空間で彩られており、私を認識する人はいなかった。
『最高の瞬間を貴方だけに♡』
馬鹿みたいなキャッチコピーを見て、私の頬は羞恥に赤く染まる。居た堪れない気持ちを抱えたまま、どうすることも出来ず、私はただその場から逃げ出したのであった。
それが昨日までの話だ。そして今、私は美しい顔をした男性に何故か手を引かれ、路地裏を駆けている。弾む息が示すのは、恐怖か、高揚か。行く宛のない私の両足は驚くほど軽かった。表通りまでどうにか逃げて、私は荒い呼吸を整えた。
「おい、大丈夫か?」
私をここまで連れてきた男の人から声がかけられる。当の本人は汗の一滴すら流さずに、しれっと涼しげな様子で私の隣に立っていた。
彼の体力が計り知れないのか、あるいは入院していたことで私の身体能力が想定より低下してしまったのか。ようやく鼓動が安定し、私は彼に返事をした。
「あの、どなたか存じ上げませんが助けてくださり、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をすると、頭上からテノールの艶やかな声が聞こえた。
「構わん」
ふんっとそっぽを向く彼の耳朶が赤くなっていくのを見て、私の心はほくほくと温まった。
「俺はアレクシアだ、よろしくな」
差し出された彼の手に私の手を重ねる。大きな手のひらはすっぽりと私の手を覆い隠してしまった。
「澪、です」
自分の手が見えなくなってしまったことにより、逃げ出せなくなるんじゃないかという不安が押し寄せてきた。途端、裏路地で男たちに襲われた先程の光景が脳裏にフラッシュバックする。
にたにたとした気持ちの悪い笑顔と、それから弄るような手つき、彼らの肌の質感を思い出して胃の中から何かが迫り上がってくる。悪寒が背中を駆け抜け、私は自らの肩を抱え込んだ。私の様子がおかしいことに気がついたアレクシアが声をかけてくれる。
「バスに乗るぞ」
周りの人の視線を気遣ったのか、彼は自ら着ていたジャケットを脱ぐと、何一つ躊躇うことなく私にそれを被せた。体格の違いで、私の身体がほとんどすっぽり隠れる形となる。
「わっ!」
それから、ぐんっと身体が持ち上げられて、気がつけば彼の腕の上に座らされていた。真っ暗闇の中、硬い布越しに感じるアレクシアの体温に、ひっそりと私の心臓が動き始めた。
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