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第12話・もうひとりの立木陵介

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 菜緒は施設で育った、五歳のころ、両親が謎の死を遂げた。二人とも脳溢血で亡くなった。まだ三十代前半だった。司法解剖はなされず、密かに荼毘に伏された。菜緒は中学を卒業すると、実谷にスカウトされた。街の不良たちのなかで、菜緒のことを知らないものはいなかった。ステゴロ、いわゆる喧嘩師。武器は使わない。両親ゆずりの身体能力、とりわけ母方の生方うぶかた家はたどると古くから隠密・暗殺を生業としていた。時の為政者の暗殺から街の有力者、広い範囲で暗殺業を請け負っていた。いわゆる、忍者と言えば話は早い。父方の宍倉ししくら家は特殊な才能の持ち主が隔世遺伝するといわれていたが、菜緒にはその才能は引き継がれなかった。

 実谷の事前調査により、異例の未成年での武威裁定Q課ブサイクに採用された。菜緒は施設を出た。そこからの活躍は棲まじいものであった。敵対するA国とB国双方の外交官を暗殺し、中東の戦争の引き金となった一件も菜緒によるものだった。今回の依頼は簡単だと思われていた。テロ集団・蜘蛛の巣、トップにいるの男は立木陵介。その裏側にいる人物は特定できなかった。

 呪現言語師、口から発せられる言葉を言霊化し、具現化するものたち。平たく言うと、言葉で好き勝手できるってものだ。実谷は特別潜入課に所属する。ここでスカウトを行い、見込みのある呪現言語師を武威裁定Q課に送り込む。世界をひっくり返すほどの力がある者たちを、みすみすテロリスト達の手に渡してしまうのは国益どころか、人類益、地球益を損なう。大儀見鷲子、音丸慎吾は実谷のスカウトによるものだ。

 千堂寺は現在、特別潜入課、武威裁定Q課をまとめる鷹取甚一たかとりじんいちのスカウトだ。日本には多くの呪現言語師がいる。スカウトからこぼれるものの大半は、いわゆる雑魚。束になってかかってきてもたいしたことはない。残りスカウトから零れたわずかな者たちは、これは零れたというよりも、スカウトを拒否したものたちだ。国家公務員という形で穢れた正義を振りかざすよりも、堂々と自分の思うままに生きていきたいという本能むき出しの呪現実言語師たち。三角ラトイもそうだ。蜘蛛の手のトップ、立木陵介も同じく。三角ラトイは今とは違う名前、違う顔だった。名前と顔を変え、素性を暗い闇のなかに潜ませて生きてきた。立木と出会い、蜘蛛の巣に参画したのだと、実谷に報告されている。

 立木陵介は近々国内でテロを起こすと、特別潜入課より実谷に報告もあがっていたが、鷹取はそれを放置した。いや、泳がせたと言う方が正しい。神保町駅ビルでのテロでは二十八人の尊い命が失われたが、鷹取にとってはひとつの事件でしかなかった。何人死のうが関係ない。立木陵介を確保できるならば、逮捕要件を作ってしまう方が話は早かった。官僚というものはそういうものだ、実谷の口癖を音丸は良く聞かされた。

「音丸、菜緒は呪現言語師ではない。だが、大儀見が言っていたことは、完全に間違いでもない」
 実谷は左手でボールペンをクルクルと器用に回した。学生が授業中に退屈しのぎに、指先を動かす、昔流行った遊びだ。
「どういうことですか?」
「彼女の父方は、複写師コピードッグといわれる能力の家系だ」
「複写師?」
「ええ、能力をコピーする。能力だけに限らん、顔立ち、骨格、話し方、声帯、筆跡、格闘技術、語学、まぁなんでもございで、指紋だけは無理のようだがね」
 音丸は面食らっている。そんな能力があるなら、もっと早く事態を収拾できたのではと。
「菜緒さんは、立木が三角ラトイに仕掛けた呪現実言語で瞬間移動したんですよね。枚方へ」
「あぁ、だが、三角ラトイに仕掛けられた呪現実言語は予約型だったろ。それじゃぁ、弱い。東京から大阪までは飛べんよ」
「ならどうやって?」
「音丸が発した瞬間移動を、一瞬で覚えてコピーして、三角ラトイの瞬間移動にさらに強力な呪現実言語を上書きしたってところかな」

 実谷はペン回しに飽きたのか、ピタッと手が止まった。明日彌はそばで聞き耳を立てている。会話には参加しない方が無難だと思っているのか、位置表示モニターから目を離そうとせず、音丸と実谷の方を見ようとはしなかった。
「立木は死んでるって、鷲子さんが言ってました。菜緒さんは立木陵介が亡くなったことは知ってるんですか?」
「鷲子か、おしゃべりな奴め」
 実谷はボールペンをへし折った。そのまま床に向かって投げつけた。後ろ側のキャップが外れ、音丸のスニーカーに当たる。実谷は続けた。

「鷲子は、千堂寺の使いだ。シンプルに言うと二人はスパイだ」
 明日彌がヘッドセットを外して、実谷の側に来た。
「どういうことですか?」
 いつになく明日彌の顔が紅潮している。自分の右手を左手で握りしめすぎて、そのまま右手ごと破壊しそうな勢いだった。

「そういうことだよ。だから蜘蛛の巣のトップ、表の顔役は立木陵介だ。立木のところに菜緒を潜入させて結婚までさせた。まぁ、それ自体が千堂寺のアイデアだ」
「菜緒さんはそれを知ってたんですか?」
「いやぁ、どうかな。知らないと思う。立木陵介と暮らしを共にするにつれ、菜緒の愛情が深まっていったからかもしれんが」

 明日彌はデスクのサイドチェストを左脚裏で蹴った。そのまま原型を崩して、ひしゃげた。まるで紙でできていたかのように、スチール製のチェストはクレーターのように凹んだ。
「菜緒さんを利用したんですね」
 明日彌の怒りが全身にあふれかえっていた。煮えたぎるような感情に音丸は圧倒されていた。
「立木陵介は菜緒の両親が殺害されたとき、一緒に保護された。たしか当時奴は十歳だったかな。菜緒の両親はな、立木の父親に殺された。呪現言語で。その現場に居合わせたのが菜緒と立木陵介だ」

 実谷は明日彌と音丸の顔をまじまじと眺めながら、ようやく告白できたというかせを外された囚人のように安堵の表情を浮かべた。
 明日彌と音丸の表情が険しくなるが、実谷は逆に表情筋が緩んだ。秘密の共有が心を楽にしてくれる。
「立木の父親をその場で殺したのが、立木陵介だ。初めてだったんだろうな、呪現言語を使ったのは。『おまえ死ね』っていっちゃったんだよな、父親に」
「でもどうして、立木の父親は菜緒さんの両親を?」
 音丸が口を開いた。

「些細な事さ、道端で肩がぶつかった程度の。チンピラの言いがかり、因縁みたいなものだ」
 父子家庭だった立木陵介は両親を失った宍倉菜緒とともに保護され、施設で育つ。菜緒は当時の事件のショックから、立木陵介の父親が両親殺しの犯人とは結び付かず、立木陵介のことも施設で頼れる兄程度にしか認識できなかった、と実谷は説明した。
「悪趣味ですね。立木陵介のところに菜緒さんを潜入させて、結婚までさせるなんて」
「いや、鷹取さんの親心じゃないか」

 実谷は持論を展開する。
「菜緒は立木陵介に会いたがっていた。ヤツが蜘蛛の巣を立ち上げたころ、実は鷹取さんが特別潜入課トクセンが提案してきた蜘蛛の巣壊滅作戦を握りつぶした」
「どういうことですか?」
 音丸は食いつくように実谷に訊いた。前のめりに音丸は実谷に近寄る。
「当時の蜘蛛の巣なら壊滅させるのも、立木陵介を暗殺するのも容易だった。まだ小さな組織だったからな」
「なら、その時に潰していれば」
「音丸よぉ。菜緒は立木陵介のことが本気で好きだったんだ。だから、立木陵介の捕獲を狙って、菜緒を送り込み結婚までこぎつけさせた。菜緒は本望だったろうよ。鷹取さんの親心がいまや仇になっちまったがな」

 実谷の肩が震えている。
「あのまま立木と暮らしてたら菜緒は取り込まれちまう。立木陵介の中にいる悪側に。だから、離れた」
「悪側?」
 音丸が要領を得ない表情で実谷に訊いた。
「悪側、そう、立木の二面性は善と悪で極端に二分されている。おそらく、父親の残虐性を幼いころから目の当たりにしてきたせいだろうよ。呪現言語でやたらめったら、殺しまくって来たからな。母親を殺された時には、すでに人格分離は始まってたんだろう。菜緒の両親の殺害が最後のトリガーといったところだ」

 明日彌は言葉にならず、柄にもなく涙をながしている。頬に伝わる涙はいつぶりだろう。こんなに悲しいこと、せめて菜緒に寄り添いたかった。まだ自分が、菜緒にとっては幼い存在だったとしても、支えたかった。明日彌は、今まさに、今、菜緒の側にいないことに胸がぎゅっと締め付けられていた。

「菜緒さんが枚方に飛んだのは」
「おそらく理由は二つ、ひとつは立木陵介に会うため。菜緒は立木陵介が死んでいるとは知らないはずだ。もうひとつは、立木陵介の悪を目覚めさせた人物への復讐」
 実谷はタバコに火を付けた。「ここ禁煙ですよ」という言葉を音丸は飲み込んだ。実谷の鼻からタバコの白煙が淀んだ武威裁定Q課を覆う。もやのかかった、朝のように。これから何が起こるか見えない、そんな不安な一日の始まりのように。
「復讐の相手は…」
 音丸の言いかけた言葉に、実谷がかぶせた。
「千堂寺と鷲子だな」

 明日彌はヘッドセットをつけなおした。
「菜緒さんが飛んだ位置の近く、これ、廃ビルですね。二階に菜緒さんの反応を確認できています。千堂寺は三階の非常階段から降りてきている模様。大儀見は一階のフロア内の階段から。菜緒さん、挟み撃ちにされますよ」
 明日彌の声が荒い。鈍感な音丸にもその言葉の端々から緊張感が伝わる。

「呪現言語師二人相手じゃぁ、しかもトップクラスの。菜緒も、分が悪いなこりゃ」
 実谷が吐き捨てるようにつぶやいた。音丸が肩を回す。
「じゃぁ、俺、行きますよ。菜緒さんのところ」

 音丸が二度目の瞬間移動を発動させようとしている。実谷が音丸の右腕を掴み、言った。
「菜緒に任せておけ、生粋のステゴロで複写師。分が悪いって言ったが、負けるとはいってないぜ」
 実谷の眼がギラツイている。父親を呪現言語で殺害したときに、スカウトに来たあの実谷の眼だ。音丸は実谷に捕まれた腕を振りほどこうとしたが、力が強すぎる。実谷の手が音丸の鍛えられた腕に食い込む。

「信じるんだ。仲間を」
 実谷はキャスターが緩んだチェアに座った。ぎぃと軋む音が立った。
 
 モニターに映し出される、千堂寺穣一、大儀見鷲子、菜緒の位置情報アイコンが光っていた。
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