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ベルーラとキリウが夜会の会場へ足を踏み入れると、そこは絢爛たる光と音に満ちていた。きらめくシャンデリアの下、貴族たちが談笑し、優雅な演奏に合わせて舞う姿が、まるで一幅の絵のように会場を彩っていた。
キリウは到着早々、多くの来賓に取り囲まれ、挨拶や談話に追われていた。その様子を見たベルーラは、気を利かせてそっと距離を置き、彼の周囲から離れることにした。
べルーラは会場の熱気を避けるように隅へ身を寄せ、まるで壁の花のように佇んだ。人混みを離れたことで、少しだけ心が落ち着いたと同時に、急な空腹に襲われた。
(お腹空いたな・・・そういえば、あっちに食べ物あったよね)
ドレスを着るのに、朝からほとんど口にしていなかったせいか、お腹の虫が鳴り出した。べルーラは、軽食が置いてある場所へ向かおうとした矢先、恰幅の良い中年の男性貴族に声をかけられてしまった。
「ベルーラ嬢、ご機嫌いかがかな?この度はさぞ、ご苦労であったね。その後、スクヴェルク卿のご容態はどうかね?」
ベルーラの前に、ふてぶてしい表情のシャーディット伯爵とその妻、そしてキリウと同学年の一人娘ローゼリーが現れた。伯爵は昔から何かと父に嫌味を言う人物で、その態度は今も変わらず、ベルーラも苦手に感じていた。
「シャーディット伯爵、ご無沙汰しております。キリウ様のご体調はほぼ回復され、現在は王宮の業務にも差し支えないご様子でございます」
「あら、それは安心いたしましたわ。でも、体はよくても、まだ記憶が曖昧だとか・・・。ベルーラ様のこともお忘れのままなのでしょう?お辛いですわね」
強い香りの香水を撒き散らし、華美な扇子で口元を隠した、娘のローゼリーがベルーラへ近づいてきた。慰めるような言葉の裏には、どこか優越感と皮肉が入り混じった声色が感じ取られ、べルーラは手慣れた笑顔を返すしかできなかった。
ただ、彼女がこのような態度をとるのも無理はない。ローゼリーは学生時代からキリウに夢中で、幾度も好意を示しては、ことごとく玉砕してきた令嬢の一人だった。
ローゼリーは、高慢で自信過剰、お世辞にも良い性格とは言えない伯爵令嬢。今でもキリウに好意があるらしく、自分と結ばれないのは、ベルーラが婚約を解消しないせい、と本気で思っている。
「それにしても本当にお気の毒ですわ。婚約者でありながら忘れられてしまうなんて。まるで、その程度の想いしかなかったと突きつけられたようなものではございませんか。私でしたら到底耐えられませんわ。でも、彼の将来を思うなら、これを機に別々の人生を歩むのも一つの選択なのかもしれませんわね」
「あら、ローゼリーったら。賢いベルーラ様のことですから、我々がアドバイスしなくてもどうすれば皆が幸せになれるのか、色々お考えになっているはずよ」
ここぞとばかりに嫌味を畳みかけてくる母娘に、ベルーラは引きつった笑みを浮かべ、曖昧な返事を返すことしかできなかった。
(言われなくても、私が一番わかってる。本当だったらすでに解消してたんですよ!)
そんなことを口に出せるはずもなく、どうにかこの場を切り抜けようと考えていた矢先、ローゼリーの敵意に満ちた視線が、急に恍惚とした表情へと変わった。
同時に、背後からは馴染みのある香りがふわりと漂い、すぐに誰が来たか理解できた。
「ここにいたのか。急にいなくなったから心配したよ」
キリウは、背後からそっとベルーラの両肩に手を添え、静かに包み込んだ。
「これはシャーディット伯爵、ご無沙汰しております。ご機嫌はいかがですか?」
キリウは目の前のシャーディット伯爵一家に一礼し、丁寧に挨拶を交わした。彼の存在が場の空気を一気に和ませ、ベルーラも思わず胸をなで下ろした。
「おお、これはスクヴェルク卿。こちらは相変わらずだよ。それより、体の具合はどうだね?君が落馬して大怪我をしたと聞き、驚いたよ。我が娘、ローゼリーも心配で、食事も喉を通らなかったほどだ」
伯爵はあえてローゼリーを会話に出すと、彼女は先ほどまでの高慢さは消え失せ、顔を赤らめながら父の言葉に従順に耳を傾けた。
「それは、ご心配おかけいたしました。今は、剣の訓練にも参加できるほどに回復いたしました。しかし、このような不甲斐ない状況に陥ったのは、日頃の鍛錬不足によるものと認識しており、今後はさらに一層、精進してまいりたい所存です」
「わははは。いやー、毎度毎度惚れ惚れするほど仕事熱心だな。儂も見習わんと」
社交的な会話をするキリウと伯爵の間に、ローゼリーが優雅に歩み寄った。彼女は、敬意を示すように両手で軽くドレスの裾を摘むと片足を後ろに引き、膝を軽く曲げてお辞儀をした。
「キリウ様、お久しゅうございます。事故の報に接した時は、あまりの衝撃に胸が締め付けられる思いでした。私にできることといえば、ただご快復をお祈りするばかり・・・。しかし、こうして元気なお姿を拝見できて、安心いたしましたわ」
目を潤ませてキリウを見上げるローゼリーからは、先ほどの嫌味な言動がまるで嘘のように、しおらしい態度を見せていた。その様子に、ベルーラは思わず呆気にとられ、ぽかんと口を開きかけたが、すぐに一文字に引き締めた。
「ローゼリー嬢、ありがとう。私はもう、この通り不自由なく過ごせているよ。こうして元気でいられるのも、ここにいるベルのおかげだ。献身的な看病と彼女の癒しがあったからこそ、早期の回復が見込めたと言っても過言ではない。ね、ベル」
「え、あ・・・はい」
(“献身的な看病”も“癒し”もした覚えがないのですが・・・)
急に会話を振られたかと思うと、ベルーラの腰に手を回し、キリウは自分の方へと寄せた。ドレス越しに互いの身体が密着し、身長差はあるものの、間近に迫るキリウの端正な顔に、ベルーラは心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えた。
「ご存じの通り、私はまだベルーラとの記憶を完全には取り戻してはいません。しかし、こうして一から彼女との思い出を紡ぐことで、過去には気づかなかったであろう、表情や仕草を改めて知ることができています」
べルーラへ愛おしそうな眼差しを向けるキリウに、ローゼリーはわずかに眉をひそめ、苦々しい表情を浮かべそうになるのを堪えた。しかし次の瞬間、ベルーラに視線を向け皮肉な笑みを浮かべた。
「失礼ながら申し上げますが、キリウ様は私のことは覚えていらっしゃったのに、婚約者であるベルーラ様のことはお忘れになっておられる。つまり大してお気持ちが向いていなかったという現れではございませんか?」
勝ち誇ったような表情を向けられたべルーラは、痛いところをつかれ思わず、視線を逸らした。
「確かに、そう思われても仕方がない。でも、もし本当にローゼリー嬢の言う通りだとしたら、私は記憶を取り戻さなくても構わないと思っている。記憶が戻ることで、この愛らしいべルーラの笑顔を失ってしまうくらいなら今のままで十分だ」
凛とした表情で話すキリウに、ローゼリーは言葉が出ず、行き場のなくなった鋭い視線をべルーラへ向け睨みつけた。
「ま、まあ仲がよろしいことですわね・・・あなた、お二人の邪魔をしてはいけないわ。そろそろ私たちも行きましょう」
「あ、ああ、そうだな。それでは挨拶はこれくらいにしておこう。スクヴェルク卿、ベルーラ嬢、今宵の宴を存分に楽しんでくれたまえ。ほら、ローゼリー行くぞ」
キリウのベルーラに対する溺愛ぶりに、シャーディット伯爵夫妻は少々気まずくなり、次の反撃を考えていたローゼリーにその場から離れることを促した。
「キリウ様、名残惜しいですが、失礼いたしますわ。次にお会いする時は、ぜひ二人でじっくりお話しできることを楽しみにしております。では、ごきげんよう」
ローゼリーは一度気持ちを整え、まるでこの場にベルーラの存在などないかのように、キリウだけを見つめて微笑んだ。彼女は、別れを惜しむような仕草でドレスの裾を摘み、優雅に一礼すると、そのまま背を向けて去っていった。
☆☆☆
(はあ…まだここに来て、それほど時間は経っていないはずなのに、もう満身創痍だよ)
慣れない社交の場にいるだけでも疲れるのに、キリウが少し離れた途端、敵意を隠そうともしない令嬢たちに次々と声をかけられ、ベルーラの心はすっかり擦り減っていた。
「今なら人もいないし、外に出ようか」
早々に帰りたい気持ちでいっぱいだったが、それに気づいたキリウがそっと手を取り、バルコニーへと連れ出してくれた。
「今日は、すまなかった。疲れただろう?ベルは社交の場が苦手だと聞いていたから、無理はさせたくなかったんだが。でも今回の夜会は、どうしてもパートナーが必要と言われていて・・・」
べルーラは夜風にあたり、ソファに座って落ち着いていたところ、一旦中に戻ったキリウがグラスを持って帰ってきた。
「俺もこういう会は苦手で、なるべく避けていたんだ。でも、騎士見習いの頃に世話になった元団長が久しぶりに王都に来ると聞いてね。人づてに怪我のことも聞いていたらしいから、改めて直接挨拶したかったんだ」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、グラスをテーブルに置くとベルーラの隣に腰かけた。
「そんなお顔をなさらないでください。その方はご年配ということもあって、最近はあまりお見かけしなかったのでしょう? それならなおさら、私でお役に立てるのなら、いくらでもお使いください。喜んでお供します」
これまでベルーラは、今回の件に限らず、キリウから何かを頼まれたことなど一度もなかった。だからこそ、初めて彼の力になれたことが、心から嬉しく感じられた。
「それにしても、今回のことで改めて思い知ったよ。どんなに華やかなドレスや宝石で飾り立てても、ベルの美しさには到底及ばないってね」
「そ、それよりも、本当に驚いたんですよ。毎日のようにドレスやアクセサリーが届いて。しかもどれも魅力的なものばかりで、なかなか決められなかったんですから!」
「はは、それは悩ませてしまって申し訳なかった。どれもベルに似合いそうで、想像していたらつい張り切ってしまったんだ。それにしても・・・見るたびに見惚れてしまうな」
キリウが低く艶のある声色でベルーラの耳元に囁いた。ベルーラの唇から小さな息が漏れ、思わず口元に手を添えようとした瞬間、キリウがそっとその手を取り、動きを止めた。
「キ・・・リウ、様?」
「少しでいい・・・ほんの少しでいいから」
「え?・・・あ、ちょっ・・・」
キリウの指先がベルーラの頬を撫で、ゆっくり唇へなぞるように滑らせる。ベルーラは、恥ずかしさに顔を背けようとしたが、キリウの手が頬に優しく触れ、抗えぬまま視線は彼に引き戻された。キリウの熱を帯びた瞳に、ベルーラは目を逸らせず、まるで心を囚われたかのような感覚に襲われる。
人がいないとはいえ、いつ誰が来てもおかしくはない。もしこんな姿を見られたら・・・という羞恥心と、このまま触れられていたいという微かな願望が入り混じり、ベルーラの思考は鈍っていく。
「ベル・・・」
「んッ」
この世のものとは思えないほど、美しい顔が間近に迫ると、ベルーラの唇に柔らかく温かい感触がそっと重なった。啄むような口づけは次第に熱を帯び、キリウはタガが外れたかのように両手でベルーラの頬を優しく包むと、角度を変えながら何度も唇を重ねた。
「ベルーラ・・・愛してる・・・ずっと一緒にいてくれ」
名残惜しそうに唇を離すと、キリウは親指でベルーラの唇を優しくなぞった。ベルーラの下唇を親指でそっと押し下げ、少し開いたその唇に再び自分の唇を重ねようとした刹那、驚いた表情を向けたキリウは、ゆっくり離れた。
「キリ、ウ様?」
困惑した表情のベルーラにキリウは上着の胸ポケットからハンカチを取り出し、そっとベルーラの手元に差し出した。キリウがなぜハンカチを渡したのか、その時はまだ、ベルーラは気づいてはいなかった。
キリウは到着早々、多くの来賓に取り囲まれ、挨拶や談話に追われていた。その様子を見たベルーラは、気を利かせてそっと距離を置き、彼の周囲から離れることにした。
べルーラは会場の熱気を避けるように隅へ身を寄せ、まるで壁の花のように佇んだ。人混みを離れたことで、少しだけ心が落ち着いたと同時に、急な空腹に襲われた。
(お腹空いたな・・・そういえば、あっちに食べ物あったよね)
ドレスを着るのに、朝からほとんど口にしていなかったせいか、お腹の虫が鳴り出した。べルーラは、軽食が置いてある場所へ向かおうとした矢先、恰幅の良い中年の男性貴族に声をかけられてしまった。
「ベルーラ嬢、ご機嫌いかがかな?この度はさぞ、ご苦労であったね。その後、スクヴェルク卿のご容態はどうかね?」
ベルーラの前に、ふてぶてしい表情のシャーディット伯爵とその妻、そしてキリウと同学年の一人娘ローゼリーが現れた。伯爵は昔から何かと父に嫌味を言う人物で、その態度は今も変わらず、ベルーラも苦手に感じていた。
「シャーディット伯爵、ご無沙汰しております。キリウ様のご体調はほぼ回復され、現在は王宮の業務にも差し支えないご様子でございます」
「あら、それは安心いたしましたわ。でも、体はよくても、まだ記憶が曖昧だとか・・・。ベルーラ様のこともお忘れのままなのでしょう?お辛いですわね」
強い香りの香水を撒き散らし、華美な扇子で口元を隠した、娘のローゼリーがベルーラへ近づいてきた。慰めるような言葉の裏には、どこか優越感と皮肉が入り混じった声色が感じ取られ、べルーラは手慣れた笑顔を返すしかできなかった。
ただ、彼女がこのような態度をとるのも無理はない。ローゼリーは学生時代からキリウに夢中で、幾度も好意を示しては、ことごとく玉砕してきた令嬢の一人だった。
ローゼリーは、高慢で自信過剰、お世辞にも良い性格とは言えない伯爵令嬢。今でもキリウに好意があるらしく、自分と結ばれないのは、ベルーラが婚約を解消しないせい、と本気で思っている。
「それにしても本当にお気の毒ですわ。婚約者でありながら忘れられてしまうなんて。まるで、その程度の想いしかなかったと突きつけられたようなものではございませんか。私でしたら到底耐えられませんわ。でも、彼の将来を思うなら、これを機に別々の人生を歩むのも一つの選択なのかもしれませんわね」
「あら、ローゼリーったら。賢いベルーラ様のことですから、我々がアドバイスしなくてもどうすれば皆が幸せになれるのか、色々お考えになっているはずよ」
ここぞとばかりに嫌味を畳みかけてくる母娘に、ベルーラは引きつった笑みを浮かべ、曖昧な返事を返すことしかできなかった。
(言われなくても、私が一番わかってる。本当だったらすでに解消してたんですよ!)
そんなことを口に出せるはずもなく、どうにかこの場を切り抜けようと考えていた矢先、ローゼリーの敵意に満ちた視線が、急に恍惚とした表情へと変わった。
同時に、背後からは馴染みのある香りがふわりと漂い、すぐに誰が来たか理解できた。
「ここにいたのか。急にいなくなったから心配したよ」
キリウは、背後からそっとベルーラの両肩に手を添え、静かに包み込んだ。
「これはシャーディット伯爵、ご無沙汰しております。ご機嫌はいかがですか?」
キリウは目の前のシャーディット伯爵一家に一礼し、丁寧に挨拶を交わした。彼の存在が場の空気を一気に和ませ、ベルーラも思わず胸をなで下ろした。
「おお、これはスクヴェルク卿。こちらは相変わらずだよ。それより、体の具合はどうだね?君が落馬して大怪我をしたと聞き、驚いたよ。我が娘、ローゼリーも心配で、食事も喉を通らなかったほどだ」
伯爵はあえてローゼリーを会話に出すと、彼女は先ほどまでの高慢さは消え失せ、顔を赤らめながら父の言葉に従順に耳を傾けた。
「それは、ご心配おかけいたしました。今は、剣の訓練にも参加できるほどに回復いたしました。しかし、このような不甲斐ない状況に陥ったのは、日頃の鍛錬不足によるものと認識しており、今後はさらに一層、精進してまいりたい所存です」
「わははは。いやー、毎度毎度惚れ惚れするほど仕事熱心だな。儂も見習わんと」
社交的な会話をするキリウと伯爵の間に、ローゼリーが優雅に歩み寄った。彼女は、敬意を示すように両手で軽くドレスの裾を摘むと片足を後ろに引き、膝を軽く曲げてお辞儀をした。
「キリウ様、お久しゅうございます。事故の報に接した時は、あまりの衝撃に胸が締め付けられる思いでした。私にできることといえば、ただご快復をお祈りするばかり・・・。しかし、こうして元気なお姿を拝見できて、安心いたしましたわ」
目を潤ませてキリウを見上げるローゼリーからは、先ほどの嫌味な言動がまるで嘘のように、しおらしい態度を見せていた。その様子に、ベルーラは思わず呆気にとられ、ぽかんと口を開きかけたが、すぐに一文字に引き締めた。
「ローゼリー嬢、ありがとう。私はもう、この通り不自由なく過ごせているよ。こうして元気でいられるのも、ここにいるベルのおかげだ。献身的な看病と彼女の癒しがあったからこそ、早期の回復が見込めたと言っても過言ではない。ね、ベル」
「え、あ・・・はい」
(“献身的な看病”も“癒し”もした覚えがないのですが・・・)
急に会話を振られたかと思うと、ベルーラの腰に手を回し、キリウは自分の方へと寄せた。ドレス越しに互いの身体が密着し、身長差はあるものの、間近に迫るキリウの端正な顔に、ベルーラは心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えた。
「ご存じの通り、私はまだベルーラとの記憶を完全には取り戻してはいません。しかし、こうして一から彼女との思い出を紡ぐことで、過去には気づかなかったであろう、表情や仕草を改めて知ることができています」
べルーラへ愛おしそうな眼差しを向けるキリウに、ローゼリーはわずかに眉をひそめ、苦々しい表情を浮かべそうになるのを堪えた。しかし次の瞬間、ベルーラに視線を向け皮肉な笑みを浮かべた。
「失礼ながら申し上げますが、キリウ様は私のことは覚えていらっしゃったのに、婚約者であるベルーラ様のことはお忘れになっておられる。つまり大してお気持ちが向いていなかったという現れではございませんか?」
勝ち誇ったような表情を向けられたべルーラは、痛いところをつかれ思わず、視線を逸らした。
「確かに、そう思われても仕方がない。でも、もし本当にローゼリー嬢の言う通りだとしたら、私は記憶を取り戻さなくても構わないと思っている。記憶が戻ることで、この愛らしいべルーラの笑顔を失ってしまうくらいなら今のままで十分だ」
凛とした表情で話すキリウに、ローゼリーは言葉が出ず、行き場のなくなった鋭い視線をべルーラへ向け睨みつけた。
「ま、まあ仲がよろしいことですわね・・・あなた、お二人の邪魔をしてはいけないわ。そろそろ私たちも行きましょう」
「あ、ああ、そうだな。それでは挨拶はこれくらいにしておこう。スクヴェルク卿、ベルーラ嬢、今宵の宴を存分に楽しんでくれたまえ。ほら、ローゼリー行くぞ」
キリウのベルーラに対する溺愛ぶりに、シャーディット伯爵夫妻は少々気まずくなり、次の反撃を考えていたローゼリーにその場から離れることを促した。
「キリウ様、名残惜しいですが、失礼いたしますわ。次にお会いする時は、ぜひ二人でじっくりお話しできることを楽しみにしております。では、ごきげんよう」
ローゼリーは一度気持ちを整え、まるでこの場にベルーラの存在などないかのように、キリウだけを見つめて微笑んだ。彼女は、別れを惜しむような仕草でドレスの裾を摘み、優雅に一礼すると、そのまま背を向けて去っていった。
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(はあ…まだここに来て、それほど時間は経っていないはずなのに、もう満身創痍だよ)
慣れない社交の場にいるだけでも疲れるのに、キリウが少し離れた途端、敵意を隠そうともしない令嬢たちに次々と声をかけられ、ベルーラの心はすっかり擦り減っていた。
「今なら人もいないし、外に出ようか」
早々に帰りたい気持ちでいっぱいだったが、それに気づいたキリウがそっと手を取り、バルコニーへと連れ出してくれた。
「今日は、すまなかった。疲れただろう?ベルは社交の場が苦手だと聞いていたから、無理はさせたくなかったんだが。でも今回の夜会は、どうしてもパートナーが必要と言われていて・・・」
べルーラは夜風にあたり、ソファに座って落ち着いていたところ、一旦中に戻ったキリウがグラスを持って帰ってきた。
「俺もこういう会は苦手で、なるべく避けていたんだ。でも、騎士見習いの頃に世話になった元団長が久しぶりに王都に来ると聞いてね。人づてに怪我のことも聞いていたらしいから、改めて直接挨拶したかったんだ」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、グラスをテーブルに置くとベルーラの隣に腰かけた。
「そんなお顔をなさらないでください。その方はご年配ということもあって、最近はあまりお見かけしなかったのでしょう? それならなおさら、私でお役に立てるのなら、いくらでもお使いください。喜んでお供します」
これまでベルーラは、今回の件に限らず、キリウから何かを頼まれたことなど一度もなかった。だからこそ、初めて彼の力になれたことが、心から嬉しく感じられた。
「それにしても、今回のことで改めて思い知ったよ。どんなに華やかなドレスや宝石で飾り立てても、ベルの美しさには到底及ばないってね」
「そ、それよりも、本当に驚いたんですよ。毎日のようにドレスやアクセサリーが届いて。しかもどれも魅力的なものばかりで、なかなか決められなかったんですから!」
「はは、それは悩ませてしまって申し訳なかった。どれもベルに似合いそうで、想像していたらつい張り切ってしまったんだ。それにしても・・・見るたびに見惚れてしまうな」
キリウが低く艶のある声色でベルーラの耳元に囁いた。ベルーラの唇から小さな息が漏れ、思わず口元に手を添えようとした瞬間、キリウがそっとその手を取り、動きを止めた。
「キ・・・リウ、様?」
「少しでいい・・・ほんの少しでいいから」
「え?・・・あ、ちょっ・・・」
キリウの指先がベルーラの頬を撫で、ゆっくり唇へなぞるように滑らせる。ベルーラは、恥ずかしさに顔を背けようとしたが、キリウの手が頬に優しく触れ、抗えぬまま視線は彼に引き戻された。キリウの熱を帯びた瞳に、ベルーラは目を逸らせず、まるで心を囚われたかのような感覚に襲われる。
人がいないとはいえ、いつ誰が来てもおかしくはない。もしこんな姿を見られたら・・・という羞恥心と、このまま触れられていたいという微かな願望が入り混じり、ベルーラの思考は鈍っていく。
「ベル・・・」
「んッ」
この世のものとは思えないほど、美しい顔が間近に迫ると、ベルーラの唇に柔らかく温かい感触がそっと重なった。啄むような口づけは次第に熱を帯び、キリウはタガが外れたかのように両手でベルーラの頬を優しく包むと、角度を変えながら何度も唇を重ねた。
「ベルーラ・・・愛してる・・・ずっと一緒にいてくれ」
名残惜しそうに唇を離すと、キリウは親指でベルーラの唇を優しくなぞった。ベルーラの下唇を親指でそっと押し下げ、少し開いたその唇に再び自分の唇を重ねようとした刹那、驚いた表情を向けたキリウは、ゆっくり離れた。
「キリ、ウ様?」
困惑した表情のベルーラにキリウは上着の胸ポケットからハンカチを取り出し、そっとベルーラの手元に差し出した。キリウがなぜハンカチを渡したのか、その時はまだ、ベルーラは気づいてはいなかった。
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