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キリウの機嫌もすっかり直り、二人が再び会場へ戻ると、クラシックの旋律が会場に響き渡っていた。華やかな広間では、人々が笑みを浮かべながら優雅に舞う姿が見受けられた。
「姫、一曲、お相手願えますか?」
キリウはベルーラの前に進み出て、恭しく一礼し、そっと手を差し出した。
「喜んでお受けします」
ベルーラが右手を差し出すと、キリウはその手を取って、そっと甲に唇を触れさせた。
(ちゃんと踊れるかしら・・・)
ベルーラにとって、キリウと踊るのは初めてではなかった。以前、一度だけ短い時間ながら共に踊ったことがある。その時は今とは違い、張り詰めた空気の中で緊張が募り、二人の呼吸も合わず、散々な結果に終わってしまった。ベルーラはそれ以来、ダンスには消極的になり、できる限り避けてきたのだ。
「ベルはダンスの練習とかしてるの?」
「そうですね・・・私自身こういった才能が乏しいので。だから毎回レッスンの先生には怒られています」
「俺も正直苦手だ。剣の稽古なら何時間だって苦じゃないが・・・でも、こうやってベルと踊れるなら満更でもないのかもしれないな」
そうは言っても、キリウの舞う姿はあまりに美しかった。一つ一つの所作が流れるように優雅で、周囲の男女は思わず息を呑み、彼から目が離せなくなるほどだった。
何度かベルーラが足を踏み違えそうになるたび、キリウはさりげなく動きを導き、まるで最初からそう振り付けられていたかのように見せてしまう。その完璧な手腕に、誰も気づく者はいなかった。
「こんな楽しいダンスは初めてです。私、何度も失敗したのに・・・。キリウ様、ありがとうございました」
「俺も楽しかったよ。この先もベルと踊れるように練習しなくてはいけないな」
「キリウ様のダンスは完璧です。私の方こそもっと練習しなくちゃいけないです」
互いに照れくさそうに微笑み合っていたその時、曲の終わりと同時に、会場に控えていた近衛たちがどこか慌ただしく動き出すのが目に入った。
やがてホールのざわめきが静まると、視線が一斉に吹き抜けの階上へと向く。そこに、煌めくドレスに身を包んだ王女が、ゆるやかに姿を現した。
「ようこそお集まりくださいました。私の主催する晩餐会へお越しいただき、心より感謝申し上げます。本日の宴は、日頃の形式ばった社交の場とは少し趣を変え、令嬢の皆さまにゆったりとお過ごしいただくためのものです。婚約者やご家族と共に、穏やかな時間と交流を楽しんでいただければ幸いです。今宵はぜひ自由に語らい、素敵なご縁を深めてくださいね」
階上に立つ王女は、ヒールの高い靴を履いていながらも、その長身がさらに映え、遠くからでも目を奪われるほどの存在感を放っていた。その輝きはまるで光そのもののようで、見る者を圧倒し、言葉を失わせる。
あの時よりもさらに妖艶さが増し、ひとまわり大人の女性へと変わったマーヴェルの姿に、ベルーラは思わず心を乱された。
(こんな素敵な方の傍にいたら、たとえ記憶を失っていても・・・)
来賓たちが上階に現れた“唯一無二の国花”に目を奪われ、歓声を上げる中、ベルーラはそっと隣のキリウへ視線を向けた。周囲の男性たちが見惚れるような眼差しを送る中、彼の表情には一切の動揺もない。もっとも、彼はもとより人前で感情を表に出すタイプではないため、その無表情が本心なのかは分からず、ベルーラの胸に小さなもやが残った。
(考えてみれば、普段からずっとお傍に仕えているのに、ここでそんな表情を見せるはずがないわよね。最近は色んな表情を見せてくれるようになっていたから、以前のキリウ様を忘れていたわ)
「どうした?気分でも悪いのか?」
落胆したように表情を曇らせていたその瞬間、いきなりキリウの顔が視界いっぱいに飛び込んできて、思わず声を上げそうになった。
「キ、キリウ様っ!?急に覗き込まれたらビックリするじゃないですか!咄嗟に声を抑えたから良かったものの、もし王女のご挨拶中だったら不敬罪ですよっ!!」
「はは、すまなかった。少し元気がなさそうに見えたから、先ほどのダンスで疲れたのかと思ってな」
ベルーラは小声で抗議したものの、キリウはおかしそうに笑みを浮かべるばかりで、反省の色はまるでなかった。ベルーラの頬がわずかに赤らんでいるのに気づいたのか、キリウは口元を緩めベルーラの耳元に顔を寄せた。
「それとも・・・さっきの続きがしたくてそわそわしてた、とか?」
「なッッ!?」
耳元で甘く囁かれたせいで、くすぐったさと予想外の言葉に思わず声を上げてしまった。すぐに両手で口元を押さえたものの、時すでに遅く、周囲の視線が一斉にベルーラへと集まってしまった。ただでさえキリウを連れ立っての出席に、先ほどのダンスの印象も重なり、注目を浴びるには十分すぎた。
そんなベルーラとキリウのやりとりを遠くから見つめていたマーヴェルは、目を細め、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。
☆☆☆
会場に入ってから幾ばくかの時が経ち、王女に挨拶を申し上げる列は途切れることなく続いていた。どの令嬢も、王女と話せることに胸を躍らせているのか、頬を赤く染め、笑みを弾ませていた。
(今度こそ動かない)
そんな中、壁際で飲み物を手にしたまま、今度こそベルーラはひっそり佇んでいた。先ほどまで一緒にいたキリウは、王女の護衛を務める騎士からの急な呼び出しで、一時的に席を外してしまっていた。
(なんか、トラブルっぽい感じだったけど・・・大丈夫かな)
キリウより階級が下の騎士が申し訳なさそうにひたすらベルーラに頭を下げるものだから、彼らを笑顔で送るしかできなかった。
「失礼致します、モーリス子爵家のご令嬢、ベルーラ・モーリス様でお間違いないでしょうか?」
そんな考えを巡らせていると、一人の女性がベルーラの前に立ち、頭を下げ確認するように尋ねてきた。
「え、あ、は──「私、マーヴェル王女殿下の侍女、オーリと申します。王女がベルーラ様にお話がございます。別館へご一緒くださいますようお願いいたします」
ベルーラが返事をする間もなく、彼女はこちらの意見など関係ないかのような、無機質な口調で淡々と告げてきた。
「マーヴェル王女様が・・・私にですか?」
ふと辺りを見回すと、先ほどまでの人だかりはすっかり消え、王女の姿もなくなっていた。王族からのお声掛けなら断る者はほとんどいないが、今はキリウを待っている身。ベルーラは、一瞬困った表情を浮かべ、目の前の侍女に伝えてみることにした。
「実は今、私の婚約者で王女の護衛を務めるキリウ・スクヴェルクが席を外しております。ですので、彼が戻られてからお伺いしてもよろしいでしょうか」
「キリウ・スクヴェルク様には、こちらからご説明いたしますので、ご心配には及びません。王女がお待ちです。参りましょう」
「・・・わかりました」
最初から決まっていたかのように、無表情の侍女に導かれ、ベルーラは別棟へと向かった。つい先ほどまで賑わっていた会場の声は徐々に遠のき、今では虫の鳴き声だけが夜気に響いた。
静寂が増すほどベルーラの胸の鼓動は速まり、底知れぬ恐怖がじわじわと彼女を包み込んでいく。
長い廊下を抜けた先に一枚の重厚な扉が現れ、その前にはその場所を護るように二人の護衛騎士が控えていた。二人は侍女の姿に気づくと、恭しく扉の前から退いた。侍女は扉の前で一息つくと指を添え、控えめに二度、音を立てた。
「マーヴェル王女殿下、ベルーラ・モーリス様をお連れいたしました」
「通してさしあげて」
侍女が言葉どおりに扉を開くと、光沢のある白と金を基調とした室内が現れた。そこには数えきれないほどの花々が飾られ、まるで現実から切り離されたような、美しい空間がベルーラの目に飛び込んできた。
「何かあったら呼ぶから、あなたは下がっていいわ」
「畏まりました」
侍女はマーヴェルの言葉に従い、静かに部屋を後にした。
見るからに高価とわかる大きなソファに腰かけたマーヴェルを前に、ベルーラは思わず身を強張らせた。初対面でいきなり二人きりにさせられたせいなのか、それとも王族としての威圧に呑まれたのか・・・ベルーラは息苦しさを感じ、扉付近から動けずにいた。
「ま、マーヴェル王女殿下・・・モ、モーリス子爵家の・・・長女、ベル、ベルーラ・モー」
それでもベルーラは、挨拶をしなくてはと思いながらも、金縛りにあったように体は硬直し、震えが止まらず言葉が上手く出せずにいた。
「やだ、そんな顔をしないで。まるで、子兎が猛獣にでも出くわしたみたいよ」
マーヴェルは優雅な手つきで紅茶を口にし、静かに寛いでいた。対するベルーラは、何か応えなければと思いながらも、思考が回らず唇は動かせても声が出なかった。
「ふふ。私ね、ずっとあなたに直接お会いしたかったの。なにせ、あのキリウの婚約者なのですもの」
マーヴェルの言葉にハッとしたベルーラは、己の非礼を悔い、キリウに恥をかかせぬよう深くカーテシーを捧げた。
「マーヴェル王女様を前に、気が動転してしまい大変失礼な態度を取ってしまいました。どうかお許しください。改めまして、私はモーリス子爵家の長女、ベルーラ・モーリスと申します。このように王女様自らお声を掛けていただけるなど、身に余る光栄でございます」
何とか挨拶だけは終え、僅かに気持ちを落ち着けたベルーラは、小さく息を吐いた。
「そんな堅苦しい挨拶はやめましょ。それより此方に座って、ほら早く」
「あ、はい」
気付けばマーヴェルはベルーラの背後に回り、両肩に手を添えると、そのまま半ば強引に歩かせてソファへと座らせていた。
(あれ、この香り・・・どこかで・・・)
ふいに鼻先をかすめた微かな香りに、どこか懐かしいような不思議な気持ちを覚えたが、思い出すことはなかった。ベルーラは一先ず、向かいに腰かけるマーヴェルへ視線を向けた。
「急にこんなことして驚いたわよね。でもこうでもしないと貴女とゆっくり話ができないと思って」
マーヴェルは優しく微笑むも、ベルーラにとっては恐ろしく、まるで今から死刑宣告を告げられる気分に襲われた。
(もしかしてこれって・・・・・・)
『キリウと私は互いに心を通わせているわ。けれど、立場がそれを許さないことも分かっているの。だからこそ、せめて私が隣国へ嫁ぐ際、護衛としてでも傍にいて欲しい。あなたが彼を想っているのなら・・・どうか、彼を自由にしてあげて。王にはできなくても、それに匹敵する地位と名誉を、私なら与えられるわ。お願い、私には彼が必要なの』
・
・
・
なんてことを、頭の中で恋物語を思い描いてみたものの、実際にはそんな話など彼女の口から一切出てはこなかった。
マーヴェル王女が語るのは、ベルーラの幼き頃の出来事やご自身の思い出、今都で流行している品々の話など。王族としてではなく、まるで同年代の娘同士が語らうような穏やかなものばかりだった。先ほどまで緊張と恐怖で引き攣っていたベルーラの面差しも、いつの間にか和らいでいた。
「そうだわ! 私が休息に訪れている離宮があって、近々庭園の改装が終わるの。それに合わせて、ささやかなガーデンパーティーを開こうと思っているのだけど、ベルーラ様にもぜひお越しいただきたいわ。以前キリウから、貴女が庭園や農園を自ら手掛けていると伺ったので、ぜひ私の庭もご覧いただきたくて」
「そ、そんな!私のような身分の者が足を運んでいい場所ではッ!?」
畏れ多いとでも言いたげに縮こまるベルーラを見て、マーヴェルは小さく笑みを浮かべた。彼女は、何の前触れもなく立ち上がると、勢いよくベルーラのすぐ隣に腰を下ろした。
「私がベルーラ様に来て欲しいの。私のお願い、聞いて下さらないの?」
マーヴェルの細く長い手がベルーラの両頬を包み込んだ。彼女の顔が近づいた瞬間、ほのかに漂う香りが鼻腔をかすめ、ベルーラの呼吸が乱れた。心が追いつかぬまま、まるで時が止まったかのような瞬間、重厚な観音開きの扉が轟音を立てて開いた。そこには息を荒げたキリウが姿を現し、その眼差しには怒気が宿っていた。
「姫、一曲、お相手願えますか?」
キリウはベルーラの前に進み出て、恭しく一礼し、そっと手を差し出した。
「喜んでお受けします」
ベルーラが右手を差し出すと、キリウはその手を取って、そっと甲に唇を触れさせた。
(ちゃんと踊れるかしら・・・)
ベルーラにとって、キリウと踊るのは初めてではなかった。以前、一度だけ短い時間ながら共に踊ったことがある。その時は今とは違い、張り詰めた空気の中で緊張が募り、二人の呼吸も合わず、散々な結果に終わってしまった。ベルーラはそれ以来、ダンスには消極的になり、できる限り避けてきたのだ。
「ベルはダンスの練習とかしてるの?」
「そうですね・・・私自身こういった才能が乏しいので。だから毎回レッスンの先生には怒られています」
「俺も正直苦手だ。剣の稽古なら何時間だって苦じゃないが・・・でも、こうやってベルと踊れるなら満更でもないのかもしれないな」
そうは言っても、キリウの舞う姿はあまりに美しかった。一つ一つの所作が流れるように優雅で、周囲の男女は思わず息を呑み、彼から目が離せなくなるほどだった。
何度かベルーラが足を踏み違えそうになるたび、キリウはさりげなく動きを導き、まるで最初からそう振り付けられていたかのように見せてしまう。その完璧な手腕に、誰も気づく者はいなかった。
「こんな楽しいダンスは初めてです。私、何度も失敗したのに・・・。キリウ様、ありがとうございました」
「俺も楽しかったよ。この先もベルと踊れるように練習しなくてはいけないな」
「キリウ様のダンスは完璧です。私の方こそもっと練習しなくちゃいけないです」
互いに照れくさそうに微笑み合っていたその時、曲の終わりと同時に、会場に控えていた近衛たちがどこか慌ただしく動き出すのが目に入った。
やがてホールのざわめきが静まると、視線が一斉に吹き抜けの階上へと向く。そこに、煌めくドレスに身を包んだ王女が、ゆるやかに姿を現した。
「ようこそお集まりくださいました。私の主催する晩餐会へお越しいただき、心より感謝申し上げます。本日の宴は、日頃の形式ばった社交の場とは少し趣を変え、令嬢の皆さまにゆったりとお過ごしいただくためのものです。婚約者やご家族と共に、穏やかな時間と交流を楽しんでいただければ幸いです。今宵はぜひ自由に語らい、素敵なご縁を深めてくださいね」
階上に立つ王女は、ヒールの高い靴を履いていながらも、その長身がさらに映え、遠くからでも目を奪われるほどの存在感を放っていた。その輝きはまるで光そのもののようで、見る者を圧倒し、言葉を失わせる。
あの時よりもさらに妖艶さが増し、ひとまわり大人の女性へと変わったマーヴェルの姿に、ベルーラは思わず心を乱された。
(こんな素敵な方の傍にいたら、たとえ記憶を失っていても・・・)
来賓たちが上階に現れた“唯一無二の国花”に目を奪われ、歓声を上げる中、ベルーラはそっと隣のキリウへ視線を向けた。周囲の男性たちが見惚れるような眼差しを送る中、彼の表情には一切の動揺もない。もっとも、彼はもとより人前で感情を表に出すタイプではないため、その無表情が本心なのかは分からず、ベルーラの胸に小さなもやが残った。
(考えてみれば、普段からずっとお傍に仕えているのに、ここでそんな表情を見せるはずがないわよね。最近は色んな表情を見せてくれるようになっていたから、以前のキリウ様を忘れていたわ)
「どうした?気分でも悪いのか?」
落胆したように表情を曇らせていたその瞬間、いきなりキリウの顔が視界いっぱいに飛び込んできて、思わず声を上げそうになった。
「キ、キリウ様っ!?急に覗き込まれたらビックリするじゃないですか!咄嗟に声を抑えたから良かったものの、もし王女のご挨拶中だったら不敬罪ですよっ!!」
「はは、すまなかった。少し元気がなさそうに見えたから、先ほどのダンスで疲れたのかと思ってな」
ベルーラは小声で抗議したものの、キリウはおかしそうに笑みを浮かべるばかりで、反省の色はまるでなかった。ベルーラの頬がわずかに赤らんでいるのに気づいたのか、キリウは口元を緩めベルーラの耳元に顔を寄せた。
「それとも・・・さっきの続きがしたくてそわそわしてた、とか?」
「なッッ!?」
耳元で甘く囁かれたせいで、くすぐったさと予想外の言葉に思わず声を上げてしまった。すぐに両手で口元を押さえたものの、時すでに遅く、周囲の視線が一斉にベルーラへと集まってしまった。ただでさえキリウを連れ立っての出席に、先ほどのダンスの印象も重なり、注目を浴びるには十分すぎた。
そんなベルーラとキリウのやりとりを遠くから見つめていたマーヴェルは、目を細め、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。
☆☆☆
会場に入ってから幾ばくかの時が経ち、王女に挨拶を申し上げる列は途切れることなく続いていた。どの令嬢も、王女と話せることに胸を躍らせているのか、頬を赤く染め、笑みを弾ませていた。
(今度こそ動かない)
そんな中、壁際で飲み物を手にしたまま、今度こそベルーラはひっそり佇んでいた。先ほどまで一緒にいたキリウは、王女の護衛を務める騎士からの急な呼び出しで、一時的に席を外してしまっていた。
(なんか、トラブルっぽい感じだったけど・・・大丈夫かな)
キリウより階級が下の騎士が申し訳なさそうにひたすらベルーラに頭を下げるものだから、彼らを笑顔で送るしかできなかった。
「失礼致します、モーリス子爵家のご令嬢、ベルーラ・モーリス様でお間違いないでしょうか?」
そんな考えを巡らせていると、一人の女性がベルーラの前に立ち、頭を下げ確認するように尋ねてきた。
「え、あ、は──「私、マーヴェル王女殿下の侍女、オーリと申します。王女がベルーラ様にお話がございます。別館へご一緒くださいますようお願いいたします」
ベルーラが返事をする間もなく、彼女はこちらの意見など関係ないかのような、無機質な口調で淡々と告げてきた。
「マーヴェル王女様が・・・私にですか?」
ふと辺りを見回すと、先ほどまでの人だかりはすっかり消え、王女の姿もなくなっていた。王族からのお声掛けなら断る者はほとんどいないが、今はキリウを待っている身。ベルーラは、一瞬困った表情を浮かべ、目の前の侍女に伝えてみることにした。
「実は今、私の婚約者で王女の護衛を務めるキリウ・スクヴェルクが席を外しております。ですので、彼が戻られてからお伺いしてもよろしいでしょうか」
「キリウ・スクヴェルク様には、こちらからご説明いたしますので、ご心配には及びません。王女がお待ちです。参りましょう」
「・・・わかりました」
最初から決まっていたかのように、無表情の侍女に導かれ、ベルーラは別棟へと向かった。つい先ほどまで賑わっていた会場の声は徐々に遠のき、今では虫の鳴き声だけが夜気に響いた。
静寂が増すほどベルーラの胸の鼓動は速まり、底知れぬ恐怖がじわじわと彼女を包み込んでいく。
長い廊下を抜けた先に一枚の重厚な扉が現れ、その前にはその場所を護るように二人の護衛騎士が控えていた。二人は侍女の姿に気づくと、恭しく扉の前から退いた。侍女は扉の前で一息つくと指を添え、控えめに二度、音を立てた。
「マーヴェル王女殿下、ベルーラ・モーリス様をお連れいたしました」
「通してさしあげて」
侍女が言葉どおりに扉を開くと、光沢のある白と金を基調とした室内が現れた。そこには数えきれないほどの花々が飾られ、まるで現実から切り離されたような、美しい空間がベルーラの目に飛び込んできた。
「何かあったら呼ぶから、あなたは下がっていいわ」
「畏まりました」
侍女はマーヴェルの言葉に従い、静かに部屋を後にした。
見るからに高価とわかる大きなソファに腰かけたマーヴェルを前に、ベルーラは思わず身を強張らせた。初対面でいきなり二人きりにさせられたせいなのか、それとも王族としての威圧に呑まれたのか・・・ベルーラは息苦しさを感じ、扉付近から動けずにいた。
「ま、マーヴェル王女殿下・・・モ、モーリス子爵家の・・・長女、ベル、ベルーラ・モー」
それでもベルーラは、挨拶をしなくてはと思いながらも、金縛りにあったように体は硬直し、震えが止まらず言葉が上手く出せずにいた。
「やだ、そんな顔をしないで。まるで、子兎が猛獣にでも出くわしたみたいよ」
マーヴェルは優雅な手つきで紅茶を口にし、静かに寛いでいた。対するベルーラは、何か応えなければと思いながらも、思考が回らず唇は動かせても声が出なかった。
「ふふ。私ね、ずっとあなたに直接お会いしたかったの。なにせ、あのキリウの婚約者なのですもの」
マーヴェルの言葉にハッとしたベルーラは、己の非礼を悔い、キリウに恥をかかせぬよう深くカーテシーを捧げた。
「マーヴェル王女様を前に、気が動転してしまい大変失礼な態度を取ってしまいました。どうかお許しください。改めまして、私はモーリス子爵家の長女、ベルーラ・モーリスと申します。このように王女様自らお声を掛けていただけるなど、身に余る光栄でございます」
何とか挨拶だけは終え、僅かに気持ちを落ち着けたベルーラは、小さく息を吐いた。
「そんな堅苦しい挨拶はやめましょ。それより此方に座って、ほら早く」
「あ、はい」
気付けばマーヴェルはベルーラの背後に回り、両肩に手を添えると、そのまま半ば強引に歩かせてソファへと座らせていた。
(あれ、この香り・・・どこかで・・・)
ふいに鼻先をかすめた微かな香りに、どこか懐かしいような不思議な気持ちを覚えたが、思い出すことはなかった。ベルーラは一先ず、向かいに腰かけるマーヴェルへ視線を向けた。
「急にこんなことして驚いたわよね。でもこうでもしないと貴女とゆっくり話ができないと思って」
マーヴェルは優しく微笑むも、ベルーラにとっては恐ろしく、まるで今から死刑宣告を告げられる気分に襲われた。
(もしかしてこれって・・・・・・)
『キリウと私は互いに心を通わせているわ。けれど、立場がそれを許さないことも分かっているの。だからこそ、せめて私が隣国へ嫁ぐ際、護衛としてでも傍にいて欲しい。あなたが彼を想っているのなら・・・どうか、彼を自由にしてあげて。王にはできなくても、それに匹敵する地位と名誉を、私なら与えられるわ。お願い、私には彼が必要なの』
・
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なんてことを、頭の中で恋物語を思い描いてみたものの、実際にはそんな話など彼女の口から一切出てはこなかった。
マーヴェル王女が語るのは、ベルーラの幼き頃の出来事やご自身の思い出、今都で流行している品々の話など。王族としてではなく、まるで同年代の娘同士が語らうような穏やかなものばかりだった。先ほどまで緊張と恐怖で引き攣っていたベルーラの面差しも、いつの間にか和らいでいた。
「そうだわ! 私が休息に訪れている離宮があって、近々庭園の改装が終わるの。それに合わせて、ささやかなガーデンパーティーを開こうと思っているのだけど、ベルーラ様にもぜひお越しいただきたいわ。以前キリウから、貴女が庭園や農園を自ら手掛けていると伺ったので、ぜひ私の庭もご覧いただきたくて」
「そ、そんな!私のような身分の者が足を運んでいい場所ではッ!?」
畏れ多いとでも言いたげに縮こまるベルーラを見て、マーヴェルは小さく笑みを浮かべた。彼女は、何の前触れもなく立ち上がると、勢いよくベルーラのすぐ隣に腰を下ろした。
「私がベルーラ様に来て欲しいの。私のお願い、聞いて下さらないの?」
マーヴェルの細く長い手がベルーラの両頬を包み込んだ。彼女の顔が近づいた瞬間、ほのかに漂う香りが鼻腔をかすめ、ベルーラの呼吸が乱れた。心が追いつかぬまま、まるで時が止まったかのような瞬間、重厚な観音開きの扉が轟音を立てて開いた。そこには息を荒げたキリウが姿を現し、その眼差しには怒気が宿っていた。
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