婚約解消(予定)をするはずだった婚約者からの溺愛がエグいです

なかな悠桃

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キリウに伴われて温室を出たベルーラは、ふと空を仰いだ。雨は先ほどより弱まっていたものの、暗く重い空は、どこか自分の心と重なっているように思えた。
その鬱々とした感情を抱えながら、ベルーラは城内にある小さな神殿へと案内された。

「当時の城主はとても信心深い方で、その信念のもとここを建てたらしい。今は、王宮にあった古書や歴史書を保管する書庫としても使われているんだ」

「左様ですか・・・」

礼拝堂の中は綺麗に改装されており、どちらかといえば小さな図書館のような雰囲気だった。しかし、あまり使われていないのか、かすかに黴臭い匂いが鼻を掠めた。

(それにしても、ここだけ別空間にいるみたいに静かだわ)

雨音もほとんど届かず、室内は静まり返っていた。ベルーラは落ち着かない気持ちを抱えながら、前を歩くキリウの背を見つめた。その背からは、何かを抱え込むような、沈んだ空気が漂っていた。

「キリウ様、先ほどと様子が違いますが、どうかなさったんですか?」

不穏な空気に耐えかねず、ベルーラは思わずキリウに声をかけた。するとキリウは足を止め、ゆっくりとベルーラの方へ振り向いた。

「あぁ、いや・・・途中、王女殿下のご様子がおかしかったから戸惑ったのでは、と思ったら気になって」

微笑みながら話すも不安を滲ませたキリウの表情に、ベルーラもまた静かに微笑みを返した。

「それでしたら全く問題ございません。あのようなお立場の方に自分の話をするなんて、烏滸がましい気持ちと緊張で、正直あまり覚えていないんです。寧ろ失礼な態度をとっていないか、不安の方が大きいくらいです」

「そ、そうか・・・ならいいんだ」

キリウは、何かを隠すように一瞬だけ躊躇いの表情を浮かべたが、すぐにそれを消し去り、穏やかな笑みをつくった。しかしベルーラには、その笑みの奥に微かな揺らぎを感じ取っていた。晩餐会の後から続く違和感・・・そして今回のマーヴェルの言動。

ベルーラは、確信を突きつける恐怖を少しでも逃そうと下唇を噛み締めた。

「お二人のご様子を拝見していて改めて思ったのですが・・・本当に、深い絆がおありだったのですね。そう考えると、マーヴェル様との記憶が消えなかった理由も“納得”いたしました」

嫌味っぽかったかな・・・、そんな思いもベルーラの中で芽生えたが、キリウの表情を見て余計な感情だったと痛感させられた。

「忘れたくても・・・あれだけ日々迷惑をかけられると、忘れたくても頭から離れられなかったのかもしれないな。正直言えば、全部忘れてくれていた方が、俺としてはありがたかったんだが」

苦笑を浮かべるキリウの顔には、嬉しさとも悲しさともつかない複雑な表情がかすかに揺れていた。べルーラは、その表情を胸に刻むと同時に心を引き締め、迷いを振り切るように真っ直ぐキリウを見据えた。

「そういえばキリウ様、あの事故から数カ月が経ちましたが、私のこと何か思い出されましたか?」

ベルーラからの急な問いかけに、キリウは視線を泳がせ、落ち着かない様子を見せた。

「いや、すまない・・・。ただ、何度も言うようだが、今の状況には特に問題もないし、あとは自然に任せるのが一番良いように思っている。だから、最近は無理に考えることはやめたんだ」

「そうですか・・ですが、必ずしもそのお考えが最良とは限らないかと思います」

「それは・・・どういう」

強い視線とは裏腹に震える手を、ベルーラはもう片方の手で抑え、キリウに気づかれないよう言葉を続けた。

「今まで黙っていましたが・・・実は、キリウ様の記憶が失われる数週間前、私はあることをご相談するため、スクヴェルク家へ向かいました。その際、私がキリウ様にお話ししたのは、私たちの婚約解消についてのことでした」

しん、と静まり返った室内には、張りつめた空気だけが、じわりと重く漂っていた。キリウの表情を怖くて見ることができなかったベルーラは、息苦しさから目を合わせられず、無意識に視線を下げていた。

「その時、キリウ様は即答はなさらなかったものの、前向きに考えてくださるとお約束してくださいました。そして、そのお返事を頂ける頃合いに、貴方は馬から転倒し、私との記憶だけ失われました」

一瞬、キリウの指先が小さく痙攣するかのようにピクリと動いた。しかし、彼は何も言葉を発することなく、ベルーラの話を黙って聞いていた。

「以前の私たちの関係は、決して良好とは言えませんでした。だからこそ、今のキリウ様がかけてくださる優しい言葉の一つ一つが、本当に嬉しかったんです。でも・・・それは、私に向けられたものではない」

べルーラは、震えそうになる声を必死に耐えながら言葉を続ける。

「貴方は『記憶が戻っても今と変わらない』と優しく言ってくださいました。でも・・・本当に、そうなるでしょうか。キリウ様はきっと、ご自分の心を押し殺して私に寄り添おうとされる。そんな形では、誰も幸せにはなれません」

長い沈黙が続く中、キリウから小さな声で呟くようにべルーラに問いかける。

「・・・教えてくれないか。どうして婚約を解消したいなんて思ったんだ?俺と一緒にいることが、そんなに苦しかったのか?・・・それに俺が記憶を失ってからもキミは、今までずっとその想いを抱えたまま、俺の隣で笑ってくれていたのか?」

ベルーラは、胸の奥に突き刺さるようなその問いから逃げられず、逸らしていた視線をゆっくりとキリウへ向けた。その瞳に映ったキリウの表情は、かつて婚約解消を切り出したあの日の冷たい光景とはまったく違っていた。まるで自身の心臓を握り潰されるのを堪えているかのように、苦しげで・・・痛ましくて・・・見ているだけでべルーラ自身も胸が締めつけられるほどだった。

「キリウ様が私に向けている感情は・・・別の方へのお気持ちなんです。遅かれ早かれそれに気づいた時、貴方はきっと今の選択を後悔する。だから、一日でも早く解消しなくてはいけなかった」

「ベル、それは一体誰のことを───」

キリウの問いかける言葉を遮るように、重厚な扉が勢いよく開き、若い騎士が切羽詰まった表情で二人のもとへ駆け寄ってきた。

「キリウ様!お話の途中、失礼いたします!今しがた、警備騎士団より緊急報が入りました!隣国で内乱が勃発し、クーデター勢力の残党が散り散りになって逃走、その一部が我が領内へ侵入したとのことです!これを受け、本日の公務はすべて打ち切りとなり、直ちに王城へ帰還せよとの命が出ております!」

その報告を聞いた瞬間、キリウの眉間に深い皺が刻まれた。つい先ほどまで彼の表情に漂っていた、どこか脆く揺らいだ気配は跡形もなく消え失せていた。代わりに、厳しく引き締まった“騎士の顔つき”がはっきりと浮かび上がり、その瞬間、周囲の空気までも張り詰めたように感じられ、ベルーラは思わず息を呑んだ。

「わかった、すぐに向かう。帰還中の王女殿下の警護を至急強化すると伝えろ」

「はっ!」

命を受けた騎士が姿勢を正したのを確認すると、キリウはベルーラへと視線を向けた。

「ベル、すまない。俺は至急王都へ戻らねばならない。道中の安全確保のため、護衛に騎士をつける。気をつけて戻ってくれ。・・・それと、先ほどの件は情勢が落ち着いてから改めて話そう。悪いが、お前はベルーラ嬢を送り届けたら、そのまま王城へ向かってくれ」

「御意っ!!」

騎士が力強く返事をすると、キリウは先ほどの柔らかな表情を一切残さず、険しい面持ちでベルーラの元を離れた。

「キリウ様もお気をつけて」

ベルーラの言葉に一瞬だけ歩みを緩めたものの、キリウは振り返らずに再び前へ進み、そのまま礼拝堂を後にした。
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