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昨日まで晴れていた空は、今朝には薄い灰色の雲に覆われ、久しぶりの外出には少し残念な空模様となっていた。ノアは、ベルーラの身支度を手伝いながら浮かない表情を見せ、重い口を開いた。
「お嬢様、本当によろしいのですか。ヴィルス様のお気持ちはわかりますが・・・正直、まだ早いのではと感じております。あまりにも荒療治のようで・・・どうしても不安が拭いきれないのです。キリウ様でさえ、まだお嬢様へのご面会を控えておられるのに・・・」
ノアの言う通り、ベルーラが目覚めてから数日後、キリウ自ら面会を望む申し出があった。だが、婚約者であっても身内以外の異性という観点から凶漢の記憶を呼び起こし、ベルーラの精神が不安定になるかもしれない。そう危惧した父は事情を伝え、当面の接触を控えてもらうよう願い出ていた。
(婚約を解消する決意をしていたとしても、あの状況を見てしまえば、さすがに伝えにくいわよね。キリウ様には、本当に申し訳ないことをしたわ)
仄暗い思いが胸をよぎり、ベルーラは思わず視線を伏せかけた。ただ、自分以上に悶々とした空気を纏うノアにちらりと目を向けて気遣うように、そっと笑みを浮かべた。
「外に出るのは少し怖いけれど、いつまでもこうしているわけにもいかないもの。そういえば、アーシェン先生は武術にも詳しいって聞いたわ。この機会に習って、暴漢を返り討ちにできるくらい強くなろうかしら。・・・なーんてね」
ベルーラは俄かに袖を捲り上げ、両腕にぐっと力を入れて肘を曲げた。上腕に盛り上がる筋肉を期待したが、現れたのはのっぺりとした皮膚だけで、その落差に二人は何とも言えない気分になった。
「・・・お嬢様は、今のままでいてくださればよろしいです」
「・・・はい」
ノアはなんとも言い難い表情を浮かべ、その様子を見たベルーラは捲り上げていた袖を静かに下ろした。
☆☆☆
ガタガタと揺れる馬車には、兄のヴィルスとともにベルーラとノアが乗り込んでいた。行き先は、“領地”としか聞かされておらず、詳しい場所は分からなかった。それを尋ねようにも、マシンガンのように喋り続けるヴィルスの話に割り込む隙はなく、二人はただ相槌を打つしかなかった。
「ベル、領地に行く前にちょっと寄り道してもいいか?」
乗ってからずっと喋り続けていたヴィルスは、ふと口を閉ざしたかと思うと、改まった口調でベルーラに問いかけてきた。
「え、ええ。・・・だ、大丈夫よ」
ベルーラが戸惑いながらも兄の申し出を受け入れると、ヴィルスはほっとしたように微笑み、再び言葉を紡ぎ始めた。
(・・・今日のお兄様、どうしたのかしら。やけにお喋りだなぁ)
外では雄弁に場を盛り上げる兄だが、妹の前では普段そこまで饒舌になることはなかった。それでも今日に限って言葉が途切れないのは、久しぶりの外出で妹が緊張しないよう、兄なりの気遣いなのだろう・・・。
それに気づいたベルーラは、感謝と同時に後ろめたさから胸の奥が少しだけきゅっと締めつけられた。
(お兄様には、今回のことだけじゃなくて、キリウ様の件でも随分と心配をかけてしまっているのよね・・・)
兄から向けられる優しさがありがたい反面、胸の内が重くなり、ベルーラは無意識に視線を逸らした。
窓の外を流れる景色に目を向けると、現実から逃げるようにそっと瞼を閉じた。
・
・
・
・
「・・・お嬢様、起きてください」
モーリス邸を出てから数時間。
心地よい揺れに誘われ、深い眠りについていたベルーラは、隣に座るノアに起こされ、窓の外へと視線を向けた。
そこには花々が咲き乱れ、自然豊かな光景が広がっていた。さらに奥には小ぶりな古城が見え、ここが城庭であることが伺えた。
「さっ、着いた」
兄にエスコートされて馬車を降りたベルーラは、手入れの行き届いた城庭に目を向けた。キラキラした表情で辺りを見渡すベルーラを一瞥したヴィルスは、心なしか安堵の表情を浮かべた。
「ここは国の管轄にある自然保護区の公園なんだけど、元は没落した伯爵家の土地だったんだ。現国王がまだ王太子だった頃に国の領地として引き取って、王太子妃の好みに合わせて整えられたらしい。当時は彼女の休息地として使われていたけど、今は国立公園として一般に開放されている場所になってるんだ」
流石、国の管轄だけあってどれも輝くように美しい花や木々が生い茂っていた。気付けば先ほどまで鬱々とした空模様から一転、ライトアップをするかのように空から光が木々に注がれ輝いていた。
「伯爵領地の頃はここら一帯も狩猟が盛んだったみたいで、獰猛な野生動物なんかも生息していたらしい。でも、国の領地になってからは害獣駆除など力を入れたから殆どそういった心配はなくなったんだけどね」
「本当に素晴らしいわ。手入れも行き届いていて、見れば見るほど心が浄化される気分よ。でもお兄様、何故ここへ?少し潮風を感じるってことはうちの領地とは正反対の場所よね。わざわざここへ立ち寄る用って?」
ベルーラが前を歩くヴィルスに声をかけると、彼はふと歩みを止め、ゆっくりと振り向いた。
「ベルーラ・・・正直に言うと、今回のことは父上はもちろん、母上からも反対されたんだ。こんなことをすれば、かえってお前を苦しめるんじゃないかって。
それでも俺は、このままでいいとは思えなかった。お前がキリウに婚約解消を申し出たと聞いた時から・・・」
「お兄様?・・・それって、どうい─」
先程とは一転、何時にもなく真剣で苦しそうな兄の表情に只ならぬ想いを秘めているのを感じた。しかし、何に対して話しているのかがさっぱり掴めず、無意識に眉間を寄せる。ベルーラは困惑した表情でヴィルスに向け問い掛けようとした刹那、兄の視線が自分から背後へと変わったのに気づき徐に振り向いた。
「何故、ここに・・・?」
予想外の人物の登場にさらに困惑したベルーラは、時が止まったかのように思考が停止した。
「遅いぞ、とっくに到着してたかと思ってたのに」
ヴィルスは視線の先の人物に軽く悪態を吐きながら、ベルーラの手を引きそちらへと向かう。
「すまない、溜まっていた業務処理を終わらせるのに手間取ってしまった・・・ベル、久しぶりだな」
「キリウ様・・・」
キリウはベルーラの血色が良いのを確認すると安堵し優しく微笑んだ。ヴィルスは気まずい空気を感じつつも、躊躇いを残しながらベルーラの手をゆっくりと離した。不安げな妹と視線が合い、困ったように笑みを浮かべたヴィルスは、ベルーラの頭に軽くぽんと手を乗せた。その直後、何かを思い出したかのように、わざとらしく急に声を上げた。
「あっ、そうだ! 急ぎの用があったのを思い出した!ベル、悪いが帰りはキリウの馬車で送ってもらってくれ。それとノアもな、侍女長からノア宛に頼まれていた用を今さら思い出したから俺と一緒にモーリス邸に戻るぞ」
「エッ!?ちょっ、お兄さ」
「ヴィ、ヴィルス様っ!?」
ヴィルスはベルーラにそう告げると、一瞬キリウへ視線を向けた。互いに言葉を交わすことはなかったが、ヴィルスは横を通り過ぎる際、キリウの肩に軽くポンと手を置くとそのまま立ち去った。
「ほら、ノア行くよ」
「は、はいっ。で、では・・・私もここで失礼いたします」
状況をまるで飲み込めていないノアは、不安げな表情を浮かべるベルーラへ視線を向けた。何か声をかけようとしたものの、ヴィルスからの促すような呼びかけに遮られ、慌てて二人に頭を下げると、ヴィルスを追うようにその場を後にした。
嵐のように去った兄に言葉を失いながらも、ベルーラはすぐさま現実に引き戻された。目の前に佇むキリウを一瞬だけ見やったが、気まずさから思わず視線を逸らしてしまった。それに気づいたキリウは一瞬、表情を強張らせたものの、困ったような柔らかな笑みを浮かべた。
「顔色・・・良くて安心したよ。あいつ・・・ヴィルスからこの場所の話を聞いたかい?」
たどたどしさはあるものの久々の再会とは思えないほど、キリウから以前と変わらぬ調子で声をかけられた。その様子に少し戸惑いながらも、ベルーラはキリウの問いかけに口を開いた。
「この城庭のことですか?・・・王太子妃だった頃の現王妃の休息所だったとか、昔は凶暴な害獣がウロついていたけど、今は国の管轄区域で大丈夫とか・・・でしょうか」
べルーラの言葉にキリウは一瞬、伏し目がちに視線を落とした。
「んー、まあそうだな・・・やはり自分の口からは言いにくいか・・・」
聞き取れないほど小さく呟いたあと、キリウは言葉を改めるように続けた。
「ところで、ベルはここに来てどう思う?何か感じることとかあったりするか?」
先ほどの問いかけに対して、キリウの思い描いていた答えではなかったのだろう。再び意図の捉えられない質問を重ねられ、ベルーラは戸惑いを滲ませながら眉間を寄せた。
「どう・・・って仰られても・・・素敵なところだな、としか・・・」
ベルーラが戸惑いながら辺りを見回すと、静けさの中に鳥の囀りが溶け込み、揺れる木々の葉音が心地よく耳に届いた。しかしキリウの表情は、先ほど以上に迷いのようなものが浮かんでいた。
「そうか・・・。まあ、立ち話もなんだ、少し歩こうか」
「え、あ、はい」
互いに心中を探るような空気の中、キリウの申し出にベルーラは静かに頷いた。
言葉を交わさぬまま、二人は庭園を歩き出した。その時間は、まるでキリウが記憶を失う前のひとときをなぞっているかのようだった。重苦しい沈黙の中で、ベルーラは意を決し、半歩先を行くキリウに声をかけ足を止めさせた。
「キリウ様、一つお聞きしたいことが・・・いえ確認したいことがございます」
「確認?」
キリウは、ベルーラの顔を凝視しながら眉間を寄せ、怪訝な表情を向けた。
「その前に、あの日助けてくださったことへの感謝を申し上げさせてください。今こうしていられるのは、キリウ様のおかげです。本来であれば、すぐにお目にかかり感謝の意をお伝えすべきところでしたが、それが叶わず今日に至ってしまったこと、どうかお許しください」
ベルーラが深々と頭を下げて感謝を伝えると、キリウは慌てるように頭を上げるよう促した。
「ベルが謝る必要なんてない。あれは、俺の判断が甘かったせいだ。もう少し早く君のもとへ向かっていれば、怖い思いをさせずに済んだはずだし、傷を負わせることもなかった。不審者の報告が出ていたのに・・・それでも警備を強化しなかった。その判断が、結果としてキミを危険に晒した。本当に、すまない」
今度はキリウに頭を下げられ、先ほどとは逆にベルーラが慌ててキリウに頭を上げるよう促した。
「あれは、運が悪かっただけなんです。あの日、忘れ物を取りに戻ったせいで巻き込まれてしまって・・・。けれど、私以外に被害はありませんでしたし、不幸中の幸いだったと思っています」
「それでも俺は・・・でも本当に無事で良かった。もしベルに何かあったら・・・俺は、後悔してもしきれなかった」
にこりと微笑むベルーラの言葉に、キリウは哀しげな目を伏せ、そっと抱き寄せた。
久しぶりの温もりと懐かしい香りに、ベルーラは一瞬身を委ねそうになった。しかしすぐに我に返り、拒むようにそっと両手で彼の胸元を押し返した。
「キリウ様、ありがとうございます。どうか、ご自分を責めないでください。私は本当に大丈夫ですし、キリウ様のお気持ちは、ちゃんと伝わっていますから。だからもう・・・義務感に縛られる必要はないんです」
「ベル・・・?何を言って」
「キリウ様、記憶・・・戻ってますよね?」
ベルーラは唇をぎゅっと噛み締め、真っ直ぐキリウを見上げて、落ち着いた声色で想いをぶつけた。だが、キリウの表情に動揺はほとんど見られず、むしろベルーラの方がわずかに狼狽えてしまった。
「何故そう思ったんだい?」
「・・・朦朧とする中、キリウ様が『またキミを護れなかった』と仰るのが耳に入りました。その“また”という言葉は、記憶を失う前の出来事を指しているのではないかと思ったんです。だって、私の事を忘れているはずなのに、普通そんな言葉出ないですよね?」
「ふー・・・そうか、なるほど・・・あの時は無我夢中だったからな。無意識とはいえ、そんな凡ミスをしていたなんて」
キリウは、自身を嘲笑うかのような笑みを浮かべた。
「まあ、ベルから婚約解消の話が出たあの日から、ある程度は俺の中で決めていたんだがな。しかし、アクシデントのせいで遠回りにはなってしまった」
「・・・キリウ様?」
独り言のように呟かれたキリウの言葉の意図がつかめず、ベルーラは訝しげに彼を見つめた。やがて、キリウもその視線に気づいたのか、静かに視線を返した。
「ベルが言った通り、俺・・・私は記憶障害ではない。いや、言い方を変えよう・・・そもそも最初から記憶など失ってはいなかった」
キリウから淡々とした口調で衝撃的な内容を告げられた瞬間、ベルーラの思考は一気に停止した。脳内で膨大な情報が渦を巻くばかりで、処理が追いつかず、思わずその場にへたり込んだ。
(最初から・・・ってことは、婚約解消の話をした時のキリウ様と、同じ人格ってこと・・・よね?ちょ、ちょっと待って! 何のためにそんな嘘を・・・。それじゃ、今まで接していたキリウ様は・・・全部“演技”だったってことになるんですけど!?)
「驚くのも無理はないな。今まで、騙すようなことをしてすまなかった」
キリウは地面にへたり込むベルーラの手を取り、優しく立ち上がらせた。戸惑いを隠せないその表情を見つめながら、彼はさらに彼女を混迷へと突き落とす言葉を静かに告げる。
「それと記憶を失っていたのは私じゃなくてキミだよ、ベルーラ」
「お嬢様、本当によろしいのですか。ヴィルス様のお気持ちはわかりますが・・・正直、まだ早いのではと感じております。あまりにも荒療治のようで・・・どうしても不安が拭いきれないのです。キリウ様でさえ、まだお嬢様へのご面会を控えておられるのに・・・」
ノアの言う通り、ベルーラが目覚めてから数日後、キリウ自ら面会を望む申し出があった。だが、婚約者であっても身内以外の異性という観点から凶漢の記憶を呼び起こし、ベルーラの精神が不安定になるかもしれない。そう危惧した父は事情を伝え、当面の接触を控えてもらうよう願い出ていた。
(婚約を解消する決意をしていたとしても、あの状況を見てしまえば、さすがに伝えにくいわよね。キリウ様には、本当に申し訳ないことをしたわ)
仄暗い思いが胸をよぎり、ベルーラは思わず視線を伏せかけた。ただ、自分以上に悶々とした空気を纏うノアにちらりと目を向けて気遣うように、そっと笑みを浮かべた。
「外に出るのは少し怖いけれど、いつまでもこうしているわけにもいかないもの。そういえば、アーシェン先生は武術にも詳しいって聞いたわ。この機会に習って、暴漢を返り討ちにできるくらい強くなろうかしら。・・・なーんてね」
ベルーラは俄かに袖を捲り上げ、両腕にぐっと力を入れて肘を曲げた。上腕に盛り上がる筋肉を期待したが、現れたのはのっぺりとした皮膚だけで、その落差に二人は何とも言えない気分になった。
「・・・お嬢様は、今のままでいてくださればよろしいです」
「・・・はい」
ノアはなんとも言い難い表情を浮かべ、その様子を見たベルーラは捲り上げていた袖を静かに下ろした。
☆☆☆
ガタガタと揺れる馬車には、兄のヴィルスとともにベルーラとノアが乗り込んでいた。行き先は、“領地”としか聞かされておらず、詳しい場所は分からなかった。それを尋ねようにも、マシンガンのように喋り続けるヴィルスの話に割り込む隙はなく、二人はただ相槌を打つしかなかった。
「ベル、領地に行く前にちょっと寄り道してもいいか?」
乗ってからずっと喋り続けていたヴィルスは、ふと口を閉ざしたかと思うと、改まった口調でベルーラに問いかけてきた。
「え、ええ。・・・だ、大丈夫よ」
ベルーラが戸惑いながらも兄の申し出を受け入れると、ヴィルスはほっとしたように微笑み、再び言葉を紡ぎ始めた。
(・・・今日のお兄様、どうしたのかしら。やけにお喋りだなぁ)
外では雄弁に場を盛り上げる兄だが、妹の前では普段そこまで饒舌になることはなかった。それでも今日に限って言葉が途切れないのは、久しぶりの外出で妹が緊張しないよう、兄なりの気遣いなのだろう・・・。
それに気づいたベルーラは、感謝と同時に後ろめたさから胸の奥が少しだけきゅっと締めつけられた。
(お兄様には、今回のことだけじゃなくて、キリウ様の件でも随分と心配をかけてしまっているのよね・・・)
兄から向けられる優しさがありがたい反面、胸の内が重くなり、ベルーラは無意識に視線を逸らした。
窓の外を流れる景色に目を向けると、現実から逃げるようにそっと瞼を閉じた。
・
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「・・・お嬢様、起きてください」
モーリス邸を出てから数時間。
心地よい揺れに誘われ、深い眠りについていたベルーラは、隣に座るノアに起こされ、窓の外へと視線を向けた。
そこには花々が咲き乱れ、自然豊かな光景が広がっていた。さらに奥には小ぶりな古城が見え、ここが城庭であることが伺えた。
「さっ、着いた」
兄にエスコートされて馬車を降りたベルーラは、手入れの行き届いた城庭に目を向けた。キラキラした表情で辺りを見渡すベルーラを一瞥したヴィルスは、心なしか安堵の表情を浮かべた。
「ここは国の管轄にある自然保護区の公園なんだけど、元は没落した伯爵家の土地だったんだ。現国王がまだ王太子だった頃に国の領地として引き取って、王太子妃の好みに合わせて整えられたらしい。当時は彼女の休息地として使われていたけど、今は国立公園として一般に開放されている場所になってるんだ」
流石、国の管轄だけあってどれも輝くように美しい花や木々が生い茂っていた。気付けば先ほどまで鬱々とした空模様から一転、ライトアップをするかのように空から光が木々に注がれ輝いていた。
「伯爵領地の頃はここら一帯も狩猟が盛んだったみたいで、獰猛な野生動物なんかも生息していたらしい。でも、国の領地になってからは害獣駆除など力を入れたから殆どそういった心配はなくなったんだけどね」
「本当に素晴らしいわ。手入れも行き届いていて、見れば見るほど心が浄化される気分よ。でもお兄様、何故ここへ?少し潮風を感じるってことはうちの領地とは正反対の場所よね。わざわざここへ立ち寄る用って?」
ベルーラが前を歩くヴィルスに声をかけると、彼はふと歩みを止め、ゆっくりと振り向いた。
「ベルーラ・・・正直に言うと、今回のことは父上はもちろん、母上からも反対されたんだ。こんなことをすれば、かえってお前を苦しめるんじゃないかって。
それでも俺は、このままでいいとは思えなかった。お前がキリウに婚約解消を申し出たと聞いた時から・・・」
「お兄様?・・・それって、どうい─」
先程とは一転、何時にもなく真剣で苦しそうな兄の表情に只ならぬ想いを秘めているのを感じた。しかし、何に対して話しているのかがさっぱり掴めず、無意識に眉間を寄せる。ベルーラは困惑した表情でヴィルスに向け問い掛けようとした刹那、兄の視線が自分から背後へと変わったのに気づき徐に振り向いた。
「何故、ここに・・・?」
予想外の人物の登場にさらに困惑したベルーラは、時が止まったかのように思考が停止した。
「遅いぞ、とっくに到着してたかと思ってたのに」
ヴィルスは視線の先の人物に軽く悪態を吐きながら、ベルーラの手を引きそちらへと向かう。
「すまない、溜まっていた業務処理を終わらせるのに手間取ってしまった・・・ベル、久しぶりだな」
「キリウ様・・・」
キリウはベルーラの血色が良いのを確認すると安堵し優しく微笑んだ。ヴィルスは気まずい空気を感じつつも、躊躇いを残しながらベルーラの手をゆっくりと離した。不安げな妹と視線が合い、困ったように笑みを浮かべたヴィルスは、ベルーラの頭に軽くぽんと手を乗せた。その直後、何かを思い出したかのように、わざとらしく急に声を上げた。
「あっ、そうだ! 急ぎの用があったのを思い出した!ベル、悪いが帰りはキリウの馬車で送ってもらってくれ。それとノアもな、侍女長からノア宛に頼まれていた用を今さら思い出したから俺と一緒にモーリス邸に戻るぞ」
「エッ!?ちょっ、お兄さ」
「ヴィ、ヴィルス様っ!?」
ヴィルスはベルーラにそう告げると、一瞬キリウへ視線を向けた。互いに言葉を交わすことはなかったが、ヴィルスは横を通り過ぎる際、キリウの肩に軽くポンと手を置くとそのまま立ち去った。
「ほら、ノア行くよ」
「は、はいっ。で、では・・・私もここで失礼いたします」
状況をまるで飲み込めていないノアは、不安げな表情を浮かべるベルーラへ視線を向けた。何か声をかけようとしたものの、ヴィルスからの促すような呼びかけに遮られ、慌てて二人に頭を下げると、ヴィルスを追うようにその場を後にした。
嵐のように去った兄に言葉を失いながらも、ベルーラはすぐさま現実に引き戻された。目の前に佇むキリウを一瞬だけ見やったが、気まずさから思わず視線を逸らしてしまった。それに気づいたキリウは一瞬、表情を強張らせたものの、困ったような柔らかな笑みを浮かべた。
「顔色・・・良くて安心したよ。あいつ・・・ヴィルスからこの場所の話を聞いたかい?」
たどたどしさはあるものの久々の再会とは思えないほど、キリウから以前と変わらぬ調子で声をかけられた。その様子に少し戸惑いながらも、ベルーラはキリウの問いかけに口を開いた。
「この城庭のことですか?・・・王太子妃だった頃の現王妃の休息所だったとか、昔は凶暴な害獣がウロついていたけど、今は国の管轄区域で大丈夫とか・・・でしょうか」
べルーラの言葉にキリウは一瞬、伏し目がちに視線を落とした。
「んー、まあそうだな・・・やはり自分の口からは言いにくいか・・・」
聞き取れないほど小さく呟いたあと、キリウは言葉を改めるように続けた。
「ところで、ベルはここに来てどう思う?何か感じることとかあったりするか?」
先ほどの問いかけに対して、キリウの思い描いていた答えではなかったのだろう。再び意図の捉えられない質問を重ねられ、ベルーラは戸惑いを滲ませながら眉間を寄せた。
「どう・・・って仰られても・・・素敵なところだな、としか・・・」
ベルーラが戸惑いながら辺りを見回すと、静けさの中に鳥の囀りが溶け込み、揺れる木々の葉音が心地よく耳に届いた。しかしキリウの表情は、先ほど以上に迷いのようなものが浮かんでいた。
「そうか・・・。まあ、立ち話もなんだ、少し歩こうか」
「え、あ、はい」
互いに心中を探るような空気の中、キリウの申し出にベルーラは静かに頷いた。
言葉を交わさぬまま、二人は庭園を歩き出した。その時間は、まるでキリウが記憶を失う前のひとときをなぞっているかのようだった。重苦しい沈黙の中で、ベルーラは意を決し、半歩先を行くキリウに声をかけ足を止めさせた。
「キリウ様、一つお聞きしたいことが・・・いえ確認したいことがございます」
「確認?」
キリウは、ベルーラの顔を凝視しながら眉間を寄せ、怪訝な表情を向けた。
「その前に、あの日助けてくださったことへの感謝を申し上げさせてください。今こうしていられるのは、キリウ様のおかげです。本来であれば、すぐにお目にかかり感謝の意をお伝えすべきところでしたが、それが叶わず今日に至ってしまったこと、どうかお許しください」
ベルーラが深々と頭を下げて感謝を伝えると、キリウは慌てるように頭を上げるよう促した。
「ベルが謝る必要なんてない。あれは、俺の判断が甘かったせいだ。もう少し早く君のもとへ向かっていれば、怖い思いをさせずに済んだはずだし、傷を負わせることもなかった。不審者の報告が出ていたのに・・・それでも警備を強化しなかった。その判断が、結果としてキミを危険に晒した。本当に、すまない」
今度はキリウに頭を下げられ、先ほどとは逆にベルーラが慌ててキリウに頭を上げるよう促した。
「あれは、運が悪かっただけなんです。あの日、忘れ物を取りに戻ったせいで巻き込まれてしまって・・・。けれど、私以外に被害はありませんでしたし、不幸中の幸いだったと思っています」
「それでも俺は・・・でも本当に無事で良かった。もしベルに何かあったら・・・俺は、後悔してもしきれなかった」
にこりと微笑むベルーラの言葉に、キリウは哀しげな目を伏せ、そっと抱き寄せた。
久しぶりの温もりと懐かしい香りに、ベルーラは一瞬身を委ねそうになった。しかしすぐに我に返り、拒むようにそっと両手で彼の胸元を押し返した。
「キリウ様、ありがとうございます。どうか、ご自分を責めないでください。私は本当に大丈夫ですし、キリウ様のお気持ちは、ちゃんと伝わっていますから。だからもう・・・義務感に縛られる必要はないんです」
「ベル・・・?何を言って」
「キリウ様、記憶・・・戻ってますよね?」
ベルーラは唇をぎゅっと噛み締め、真っ直ぐキリウを見上げて、落ち着いた声色で想いをぶつけた。だが、キリウの表情に動揺はほとんど見られず、むしろベルーラの方がわずかに狼狽えてしまった。
「何故そう思ったんだい?」
「・・・朦朧とする中、キリウ様が『またキミを護れなかった』と仰るのが耳に入りました。その“また”という言葉は、記憶を失う前の出来事を指しているのではないかと思ったんです。だって、私の事を忘れているはずなのに、普通そんな言葉出ないですよね?」
「ふー・・・そうか、なるほど・・・あの時は無我夢中だったからな。無意識とはいえ、そんな凡ミスをしていたなんて」
キリウは、自身を嘲笑うかのような笑みを浮かべた。
「まあ、ベルから婚約解消の話が出たあの日から、ある程度は俺の中で決めていたんだがな。しかし、アクシデントのせいで遠回りにはなってしまった」
「・・・キリウ様?」
独り言のように呟かれたキリウの言葉の意図がつかめず、ベルーラは訝しげに彼を見つめた。やがて、キリウもその視線に気づいたのか、静かに視線を返した。
「ベルが言った通り、俺・・・私は記憶障害ではない。いや、言い方を変えよう・・・そもそも最初から記憶など失ってはいなかった」
キリウから淡々とした口調で衝撃的な内容を告げられた瞬間、ベルーラの思考は一気に停止した。脳内で膨大な情報が渦を巻くばかりで、処理が追いつかず、思わずその場にへたり込んだ。
(最初から・・・ってことは、婚約解消の話をした時のキリウ様と、同じ人格ってこと・・・よね?ちょ、ちょっと待って! 何のためにそんな嘘を・・・。それじゃ、今まで接していたキリウ様は・・・全部“演技”だったってことになるんですけど!?)
「驚くのも無理はないな。今まで、騙すようなことをしてすまなかった」
キリウは地面にへたり込むベルーラの手を取り、優しく立ち上がらせた。戸惑いを隠せないその表情を見つめながら、彼はさらに彼女を混迷へと突き落とす言葉を静かに告げる。
「それと記憶を失っていたのは私じゃなくてキミだよ、ベルーラ」
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【完結】そんなに嫌いなら婚約破棄して下さい! と口にした後、婚約者が記憶喪失になりまして
Rohdea
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