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第1章
【対応記録:第15回】
しおりを挟む十七時、五分前。
現代ダンジョン管理ギルド本部、地下三階の執務室。
久我は、一日の業務を締めくくる儀式のように、デスクの上のペン立ての位置を一ミリ単位で修正し、パソコンのシャットダウンボタンを押した。
「……よし。今日も無事に定時を迎えられそうですね」
「……久我さん、その鉄の意志、どこから湧いてくるんですか? 外はまだ、相談に来た魔物たちの行列が残ってますよ?」
佐藤が、抜け殻のような顔で廊下を指差した。
行列は昨日よりは短くなったものの、依然として数体の魔物が、久我が設置した「本日の受付は終了しました」という看板を悲しそうに見つめていた。
「佐藤さん。プロとして最も大切なのは、自己管理です。過剰な残業は判断力を鈍らせ、不適切な対応(不備)の原因となります。彼らには、明朝九時の整理券を配布済みです。……クラ君、コト君。後片付けを手伝ってください」
(……ワンッ! お片付け、お片付け!)
「あいよ。想い出の詰まった書類は、この鍵付きの棚にしまっておくね。泥棒猫のボクが言うのもなんだけど、ここはセキュリティが甘いからさ」
クラがゴミを拾い、コトが重要書類を整理する。その完璧な連携プレーは、もはやギルド内でも「地下三階の奇跡」と呼ばれ始めていた。
久我はジャケットを羽織り、カバンを手に取った。
ピ、というタイムカードの乾いた音が響く。十七時、ちょうど。
「お疲れ様でした。……ああ、佐藤さん。帰り道、あまりコンビニの揚げ物ばかり食べないように。体調を崩せば、明日の窓口業務が滞りますから」
「……へいへい。お疲れ様でした……」
地上へ出るエレベーターの中で、久我は小さく溜息をついた。
地下の澱んだ空気から解放され、新宿の夕暮れ時の喧騒に身を投じる。彼にとって、この瞬間が「人間」に戻れる唯一の時間だった。
スーパーで半額になった惣菜を買い、静かなアパートで一人、録画したニュース番組を見ながら夕食を摂る。それが彼の理想とする、誰にも邪魔されない休息のはずだった。
だが、夜の二十三時。
久我がちょうど、明日の業務に備えて深い眠りにつこうとしていた、その時。
枕元に置いた、ギルド支給の緊急連絡用スマートフォンが、耳を裂くようなアラート音を鳴らした。
「…………」
久我は、無言で端末を手に取った。
表示されているのは、ギルド長直属の緊急ホットライン。
通常のクレーム対応なら、明日の朝まで放置する。だが、このラインが鳴るということは、事態が「物理的な破壊」を超えた、取り返しのつかない領域に達していることを意味していた。
「……はい、久我です。現在、勤務時間外ですが」
『久我か! すまん、寝ていたところを本当にすまん! だが、君にしか頼めないんだ!』
電話の向こうで、いつもは威厳に満ちているはずの早乙女部長が、今にも泣き出しそうな声で叫んでいた。
『有楽町ダンジョン、地下二階。……巨大な「スライム・クイーン」が、地下鉄の全路線に直結する主要魔力管を……飲み込んだ!』
「……飲み込んだ、ですか?」
『そうだ! 物理攻撃をすれば魔力管が爆発し、都内全域が未曾有の魔素汚染に見舞われる。かといって放置すれば、今夜中に有楽町駅周辺が溶け落ちる! Sランクパーティも出動したが、誰も手が出せん! 奴は……奴は、何かを求めて喚いているんだが、誰もその「言葉」が理解できん!』
久我は、ベッドの上に座り直した。
時計の針は二十三時十五分。
「……深夜手当、および休日出勤扱いの申請を、遡って受理していただけますね?」
『当たり前だ! 三倍、いや五倍出す! 頼む、今すぐ来てくれ! ギルドの専用車を君の自宅前に向かわせた!』
十分後。
パトランプを光らせた黒塗りの車両に揺られながら、久我は現場へと向かった。
車内には、久我の気配を察して自力で這い出してきたクラと、どこからともなくカバンに忍び込んでいたコトも同乗していた。
「……おじさん、またお仕事? 深夜の呼び出しなんて、ブラック企業みたいだね」
(……クゥ(眠いけど、おじさんと一緒なら行く)
「不本意ですが、これも『管理責任』の一環です。……スライム・クイーン、ですか。粘性生物が魔力管を飲み込むというのは、食欲以外の動機が考えられますね」
有楽町駅、地下通路。
そこは、過去の大事件をもを彷彿とさせる、絶望的な光景が広がっていた。
通路の奥を完全に塞いでいるのは、透き通ったエメラルドグリーンの巨大な粘性体。その体格の中には、複雑に絡み合った金色の魔導パイプが、飲み込まれた獲物のように取り込まれている。
周囲を包囲している探索者たちは、剣を構えながらも、一歩も近づけずにいた。
「……無茶だ! 少しでも傷をつければ、パイプが割れて大爆発だぞ!」
「でも、あのままじゃ魔力を吸い尽くされて、都内の防衛システムが全停止する!」
久我は、人混みをかき分け、最前線へと歩み出た。
「――状況、確認いたしました」
探索者たちが驚いて振り返る。
「……苦情係の久我!? こんな深夜に、正気か?」
久我は、返事をする代わりにブリーフケースから一本の「工業用中和剤」と、予備の「眼鏡拭き」を取り出した。
「皆様、お疲れ様です。……ここからは、当部署の管轄となります。危険ですので、二十メートル以上、距離を取ってください」
久我は、巨大なスライムの目の前まで歩み寄った。
スライム・クイーンの表面が、ドロリと波打つ。
久我の耳には、物理的な音ではない、大気を震わせるような「絶叫」が届いていた。
(……苦しい! 誰か、これを取って! 痛い、熱い! 体の中に、変な棒が刺さって抜けないんだよおぉぉ!)
「……左様でございましたか」
久我は、スライムの巨大な質量を見上げ、深く一礼した。
「お客様。有楽町ダンジョン管理事務所、苦情係の久我です。……まずは、当ギルドの設置した魔力管が、お客様の通り道に不適切に配置されていたこと、並びにそれによる肉体的苦痛を与えてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
周囲の探索者たちが「……謝ってるぞ、あいつ」「また始まった……」とざわめく。
「現在、お客様が感じておられる痛みは、魔力管からの逆流魔素による急性拒絶反応です。……佐藤さん! いえ、佐藤さんはいませんでしたね。……クラ君、コト君。サポートをお願いします」
(……ワンッ! ここを冷やすんだね!)
「ボクはこのパイプの結合部を緩めるよ。想い出はないけど、古いネジの扱いは得意なんだ」
久我は、スライムの表面に優しく手を触れた。
「お客様。今から、その『棒』を安全に引き抜きます。……少々、くすぐったいかもしれませんが、我慢してください。……終わったら、最高級の、不純物を含まない純水プールをご用意いたします」
久我の言葉に、スライム・クイーンの震えが、微かに収まった。
(……ほんとう? ……信じて、いいの?)
「はい。私は、嘘を吐くのが最も嫌いな事務員ですので」
深夜の地下通路。
巨大な魔獣と、一人のサラリーマン。
力による排除ではなく、苦痛の緩和と合意による調整。
第2章の終わり、久我が挑むのは、世界を救う「深夜残業」の始まりだった。
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