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第1章
【対応記録:第26回】
しおりを挟む十一月。新宿の街路樹が枯れ葉を落とし始め、ギルド本部の空調も暖房へと切り替わった時期のことだ。
地下三階、苦情係のオフィスでは、久我がいつものように寸分の狂いもなく整頓されたデスクで、都内の魔力観測図を眺めていた。
「……久我さん。最近、ちょっとおかしくないですか? この一週間の魔物出現(アウトブレイク)の記録なんですけど」
佐藤が、顔色の悪い顔をさらに青白くして、数枚のプリントを差し出してきた。そこには、都内各地で発生した小規模な魔物騒動の発生地点が赤丸で印されている。
「おかしい、とは。発生件数の増加のことでしょうか。それとも、内容の低質さについてでしょうか」
「両方ですよ! 発生場所がバラバラのようでいて、地図で見ると……ほら、山手線の内側を囲むように、綺麗な円形を描いてるんです。それに、現れる魔物も攻撃性が低い個体ばかり。なのに、通報が入るタイミングが異常に早くて、まるで誰かがそこで魔物が出るのを待っていたみたいなんです」
久我は眼鏡のブリッジを押し上げ、赤丸の並びを注視した。一見すればランダムに見えるトラブルも、統計的なフィルターを通せば、背後にある意図が浮かび上がることがある。
「……なるほど。これは自然発生的な事故ではありませんね。……お客様が、意図的に特定の座標へと誘導されています」
(ワンッ! おじさん、僕も変な匂いを感じるよ。あちこちで、魔物の嫌いな匂いがプンプンしてるんだ)
「ボクの鑑定眼で見ても、この現象には想い出がない。ただ、誰かがプログラムしたような、冷たいノイズの跡だけが残っているね」
クラとコトの言葉が、久我の確信を深める。前職での久我は、競合他社が意図的に自社製品へのネガティブキャンペーンを仕掛け、一斉にカスタマーセンターへ架空の苦情を送り込んできた事案を解決したことがある。今の状況は、その時の手口に酷似していた。
「誘導されている、ですか? 一体誰が、何のために……」
「目的は二つ考えられます。一つは、ギルドの戦力を分散させ、特定の地点の手薄さを狙うこと。もう一つは……我々苦情係の対応能力をテストしている可能性です」
久我がそう言い切った瞬間、デスクの電話がけたたましく鳴り響いた。内線ではない。外部からの、それも緊急秘匿回線を通じた着信だ。
「……はい、久我です。……ええ、事態は把握しております。……魔力観測班のデータにノイズが混じっているのですね? 承知しました。今からそちらへ伺います」
久我は手短に電話を切ると、ジャケットのボタンを留めた。
「佐藤さん。私はこれより地下二階の情報システム課・魔力解析室へ向かいます。ここはコト君に任せて、あなたは窓口に届く苦情の内容を、言葉の端々まで精査してください。特に、通報者が魔物の特徴を詳細に言い当てすぎているケースをピックアップしてください」
「了解です! でも、情報システム課って、あの偏屈なギークたちが集まってる場所ですよね? 事務屋の僕たちをまともに相手してくれますかね……」
「交渉には、それ相応の手土産を用意しています」
久我が向かった先は、サーバーの冷却ファンの唸りが響く、薄暗い解析室だった。そこには、最新の魔導計算機に囲まれ、モニターの青い光に照らされた男――主任解析官の九条がいた。彼は近づいてくる久我を一瞥もせず、不機嫌そうにキーボードを叩いている。
「苦情係が何の用だ。ここは数字と術式の世界だ。菓子折りを持って謝れば済むような現場じゃない」
「九条主任。お忙しいところ恐縮ですが、菓子折りの代わりに、こちらをご覧いただけますか」
久我が差し出したのは、昨日までに彼が独自にまとめた誘導パターンの予測シミュレーションだった。九条の手が止まった。彼はモニター越しに、久我が持ってきた紙の束を凝視し、やがて信じられないものを見るような目で久我を振り返った。
「……これは、君が作ったのか? 専門の解析スキルもない事務員が?」
「数字は嘘を吐きませんが、言葉は時に真実を隠します。私は魔物たちの悲鳴の周波数から、この図を作成しました。九条主任、あなたの観測網に、本来あるはずのない指向性魔力波が混じっていませんか?」
九条は無言でいくつかの術式を走らせた。モニターに、都内全域の魔力マップが立体的に浮かび上がる。そこには、佐藤が指摘した赤丸の地点を繋ぐ、細い銀色の糸のようなノイズが、血管のように張り巡らされていた。
「……ある。極めて微弱で、通常の観測ではホワイトノイズとして処理されるレベルの出力だ。だが、確かに何者かが外部から信号を送り、魔物の本能をハックしている」
「意図的なアウトブレイク。……これは事故ではなく、ギルドの管理体制そのものを揺るがす、巨大なシステムの不備です」
久我の言葉に、部屋の温度が一段下がったような緊張が走った。誰が、どのような権限で、ギルドの魔力観測網を逆手に取っているのか。そこに見えるのは、個別の魔物による苦情ではなく、組織の深部から漏れ出すどす黒い悪意だった。
「九条主任。このノイズの発信源、特定できますか?」
「……時間はかかるが、不可能じゃない。だが、これに触れることはギルドの暗部……つまり、上層部のクローゼットの中の骨を暴くことになるぞ。君の立場が危うくなる」
「私の立場よりも、お客様の安全と、手続きの適正さが優先されます。……不備を見つけて放置するのは、プロの仕事ではありませんから」
久我は、モニターに映し出された銀色の糸を見つめ、冷徹な一歩を踏み出した。聖女編を経て、久我の存在はもはや無視できないものとなっている。姿の見えないクレーマーが仕掛けた罠に対し、事務屋は静かに、そして完璧な修正の準備を始めた。
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