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20 新たな生き方
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「え? 塾講師?」
上原が目を瞬く。律が人付き合いを苦手としていることも、子どもが苦手ということもよくよく熟知しているからこその驚きだろう。
律は頷き、日本酒を舐めた。
「教育学部だったくせに教員免許を取らなかったお前が? 子ども相手に教えられんの?」
「集団相手じゃないから意外と大丈夫だった。子どもといっても中高生だし、高い受講料に見合うだけの学習意欲を持った子ばかりだからな」
「ああ~、ひとりひとりに合わせて学習プランとか作ってやっていく、あああいう塾か」
「そうだ。学歴がようやく活きるよ」
律も上原も、英誠大学の教育学部を卒業している。英誠大学は国公立の中でもトップクラスの偏差値を誇る大学だ。塾には英誠大を目指す学生が多く、卒業生というだけで一目置いてもらえるのである。
律は物心ついた頃にはもう親がいなかった。聞くところによれば、律の母親はたった一人で律を産んだらしい。
もともとか細い体型だった上に苦労がたたっていたのか産後の肥立ちが悪く、律を産んでからひと月と経たずに亡くなってしまったというのだ。
写真もなく、顔も知らない母親だ。寂しいという気持ちをはっきりと抱いたことはない。
施設で共に過ごしてきた仲間たちの複雑な家庭環境を聞くたび、親子の情というものが、ただ柔らかくあたたかいだけのものとは思えなかったからだろう。
だが律は比奈子と出会い、愛する人と共に過ごす幸せを知った。——そして、愛する人を失う哀しみも。
喪失感など、できれば人生において味わいたくないものではあるけれど、幸せだった頃の記憶さえ忘れてしまうよりはずっといい。三途の川のほとりから戻り、比奈子を失った悲しみと改めて向き合う時間はとても辛い。心が、引き千切れてしまいそうなほどに。
それでも、彼女のことを二度と忘れたくない。愛情も悲哀も全て、記憶にきちんと留めておきたい。
そういう気持ちを知ることができた。なので律は、顔も知らぬ母親に産んでもらえたことに感謝の念を抱いている。
親はなくとも、律は児童養護施設で大人たちや年上の仲間たちに大事に育ててもらってきた。律もまた年下の子どもたちを支え、力を合わせて成長してきた。
施設出身者で立身出世した大人たちからの潤沢な支援もあり、律は大学へ行かせてもらえ、こうしてひとりで生きていくための力をつけてもらうことができたのだ。
受けた恩義は、次の世代を支えることで返していきたい。
「作家の深澄律だってばれねーの?」
「意外とね。気づいて色々質問してくれる子もいるけど、大半の子はあんまり興味ないみたいだ」
「へー、そんなもん?」
「若い子は動画とかのほうが面白いんだろ」
イケメン作家だとチヤホヤされていたのはもうずいぶん前のことだ。ますます流れが速くなる時代の中、律の過去はとっくに大量の情報の中に埋もれている。塾で担当している子どもたちが、過去にちょっと売れた作家のことなど知る由もなく、律は気楽に塾講師として仕事をしている。
これからは塾講師と作家、これからは二足のわらじだ。
「ま、お前が元気なら俺は安心だよ。ずっと比奈子ちゃんのこと忘れたままだったらどうしようって思ってたしさ」
「心配かけた。悪かったな」
「いいってことよ。お前らほんとラブラブだったし、つらい記憶は思い出さないほうがいいのかもって思うこともあったし」
「……そうだな。でも。思い出せて良かったと思ってるよ」
律が微笑むと、上原は急に涙目になってしまった。ぐびぐびとビールを飲み干し、上原はニッと笑った。
「ああ、よかった。ほんとによかった。安心した! 今夜は飲むぞ!」
「ほどほどにしてくれよ。酔って寝られても、僕の細腕じゃお前を家まで運べないんだからな」「わかってるわかってる! あ、店員さーん! すみませーん!」
本当にわかっているのかいないのか、上原はドリンクメニューから強めの酒を選んでオーダーし、つまみもさらに大量に追加しはじめた。
——上原にも心配かけたし、今日はとことん付き合うか。
律はグラスの底に残っていた日本酒をくいっと飲み干し。上原と同じ酒を注文した。
上原が目を瞬く。律が人付き合いを苦手としていることも、子どもが苦手ということもよくよく熟知しているからこその驚きだろう。
律は頷き、日本酒を舐めた。
「教育学部だったくせに教員免許を取らなかったお前が? 子ども相手に教えられんの?」
「集団相手じゃないから意外と大丈夫だった。子どもといっても中高生だし、高い受講料に見合うだけの学習意欲を持った子ばかりだからな」
「ああ~、ひとりひとりに合わせて学習プランとか作ってやっていく、あああいう塾か」
「そうだ。学歴がようやく活きるよ」
律も上原も、英誠大学の教育学部を卒業している。英誠大学は国公立の中でもトップクラスの偏差値を誇る大学だ。塾には英誠大を目指す学生が多く、卒業生というだけで一目置いてもらえるのである。
律は物心ついた頃にはもう親がいなかった。聞くところによれば、律の母親はたった一人で律を産んだらしい。
もともとか細い体型だった上に苦労がたたっていたのか産後の肥立ちが悪く、律を産んでからひと月と経たずに亡くなってしまったというのだ。
写真もなく、顔も知らない母親だ。寂しいという気持ちをはっきりと抱いたことはない。
施設で共に過ごしてきた仲間たちの複雑な家庭環境を聞くたび、親子の情というものが、ただ柔らかくあたたかいだけのものとは思えなかったからだろう。
だが律は比奈子と出会い、愛する人と共に過ごす幸せを知った。——そして、愛する人を失う哀しみも。
喪失感など、できれば人生において味わいたくないものではあるけれど、幸せだった頃の記憶さえ忘れてしまうよりはずっといい。三途の川のほとりから戻り、比奈子を失った悲しみと改めて向き合う時間はとても辛い。心が、引き千切れてしまいそうなほどに。
それでも、彼女のことを二度と忘れたくない。愛情も悲哀も全て、記憶にきちんと留めておきたい。
そういう気持ちを知ることができた。なので律は、顔も知らぬ母親に産んでもらえたことに感謝の念を抱いている。
親はなくとも、律は児童養護施設で大人たちや年上の仲間たちに大事に育ててもらってきた。律もまた年下の子どもたちを支え、力を合わせて成長してきた。
施設出身者で立身出世した大人たちからの潤沢な支援もあり、律は大学へ行かせてもらえ、こうしてひとりで生きていくための力をつけてもらうことができたのだ。
受けた恩義は、次の世代を支えることで返していきたい。
「作家の深澄律だってばれねーの?」
「意外とね。気づいて色々質問してくれる子もいるけど、大半の子はあんまり興味ないみたいだ」
「へー、そんなもん?」
「若い子は動画とかのほうが面白いんだろ」
イケメン作家だとチヤホヤされていたのはもうずいぶん前のことだ。ますます流れが速くなる時代の中、律の過去はとっくに大量の情報の中に埋もれている。塾で担当している子どもたちが、過去にちょっと売れた作家のことなど知る由もなく、律は気楽に塾講師として仕事をしている。
これからは塾講師と作家、これからは二足のわらじだ。
「ま、お前が元気なら俺は安心だよ。ずっと比奈子ちゃんのこと忘れたままだったらどうしようって思ってたしさ」
「心配かけた。悪かったな」
「いいってことよ。お前らほんとラブラブだったし、つらい記憶は思い出さないほうがいいのかもって思うこともあったし」
「……そうだな。でも。思い出せて良かったと思ってるよ」
律が微笑むと、上原は急に涙目になってしまった。ぐびぐびとビールを飲み干し、上原はニッと笑った。
「ああ、よかった。ほんとによかった。安心した! 今夜は飲むぞ!」
「ほどほどにしてくれよ。酔って寝られても、僕の細腕じゃお前を家まで運べないんだからな」「わかってるわかってる! あ、店員さーん! すみませーん!」
本当にわかっているのかいないのか、上原はドリンクメニューから強めの酒を選んでオーダーし、つまみもさらに大量に追加しはじめた。
——上原にも心配かけたし、今日はとことん付き合うか。
律はグラスの底に残っていた日本酒をくいっと飲み干し。上原と同じ酒を注文した。
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