異聞白鬼譚

餡玉(あんたま)

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第一章 都へと呼ばわれ

八、地獄と涙〈前〉

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 千珠はひた走る。

 碁盤の目状に並ぶ都の町並み。そこに連なる屋根の上を、槐の気を探りながら疾走した。

 日が暮れてしまった上、立ちこめる霧がいっそう濃くなるにつれて、段々と匂いや気配すらもかき消されていくようだった。千珠は焦り、苛立っていた。

「くそ、何なんだこの霧は」

 千珠はそこではひときわ高い三重塔を見つけると、そちらに向かって身体の向きを切り返す。ひらりと身軽に三重塔に登ると、そこからは都が一目で見渡せた。

 ぼんやりとした霧の中、千珠があたりに目を凝らしていると、不意に東の方向に嫌な気を感じた。


 ――ひとつ、ふたつ……普通の人間ではない、これは……猿之助に違いない。

 それにもうひとつ……何だ、この異様な妖気は。禍々しいようでいて、ひどく純粋で……危ういような。


 妖しい気配のすぐそばに槐の気配を感じ取り、千珠の背筋を冷たい汗が伝った。

「……くそっ!」

 探し求めていた槐の霊気と、その妖しい気配との距離は遠くはない。


 ……嫌な予感がする。槐、無事でいてくれ……!


 千珠は速度を上げて、霧を切り裂くように走った。



 ✿



 辺りがとっぷりと闇に暮れた頃、猿之助は都に舞い戻ってきた。
 久しぶりに歩く都は、部下たちの仕事のお陰で随分と鬱蒼としている。頻繁に起こる怪異のせいで町人たちは怯え、外を出歩くことも出来ないでいる様子だ。
 この状況を打破することの出来ない朝廷への鬱屈した不満が募り、負の感情が蔓延する市中の雰囲気に満足した猿之助は、にいと唇を歪めるのであった。


 さて、今日は夜顔の力を測るため、一つ寺を破壊することにしていた。

 その標的に選んだのは、浄土真宗総本山東本願寺。
 人々からの信仰の象徴たるこの寺を破壊することで、更なる恐怖と絶望を煽るためだ。

 猿之助一行は堂々と烏丸通を進み、御影堂門の前に立った。
 この門は、実に日本一の高さを誇る。約十丈(二十八メートル)という高さがあり、二層建て入母屋造の重厚感のある佇まい。上層には釈迦如来像、脇侍きょうじに弥勒菩薩像と阿難尊者像を抱いている。
 雅やかでありながら荘厳な設えの御影堂門は、やはり何度見ても美しいと猿之助は思う。そして、その美しくも気高い物を自ら破壊するという罪深き行為に、胸の高鳴りが止まらない。

「さて、夜顔。来い」

 猿之助は夜顔を自分の足元に呼ぶと、その胸元に人差指を立て、目を閉じ何やら唱え始めた。
 すると、夜顔を雁字搦めにするように絡みつく金色の鎖が浮かび上がり、質量を持たぬ大きな錠前が夜顔の心臓の上に浮かび上がった。これは妖気を閉じ込めておくための結界術である。

「解!」

 猿之助が唱えると、がちゃり、と金属の触れ合う音とともに錠が外れた。実体を持たない鎖のはずなのに、じゃらじゃらと音を立てて鎖が夜顔から解けてゆく。

 夜顔は鎖が解けると同時に、深く呼吸した。まるで今までずっと呼吸を我慢していたかのように、深く深く息をする。
 ひとつ息を吐くごとに、禍々しくどろりとした妖気がその身体から流れ始める。藤之助でさえ、咄嗟に口元を押さえて距離を取らなければならぬほど夜顔の妖気は濃く、悲しみに溢れて重々しい。

 猿之助は、目を細めてにやりと笑う。

「さぁて、夜顔。この門が邪魔だな。破壊しろ」

 声高に命じる猿之助の声で操られるように、夜顔は虚ろな目を霧の中に向け、黒く聳える門に右手を伸ばした。

 ぼう……と、その小さな身体に黒い炎が灯る。

 夜顔が固めた拳を繰り出すのと同時に黒い炎が爆ぜ、轟音と共に御影堂門が瓦解した。


 どぉおおおん……!


 後ろに居並んでいた猿之助、藤之助を始めとした陰陽師たちは咄嗟に身を引くして、襲い掛かってくる爆風に耐える。踏ん張り切れなかった陰陽師の一人が、土塊つちくれと瓦礫を含んだ風に吹っ飛ばされて悲鳴を上げた。

 皆が瞠目していた。
 黒い炎に巻かれながら脆くも崩れ去る瓦礫の中、黒炎を全身に纏わせた小さな影が、土煙の中にぽつんと佇んでいる。ちらりとこちらを振り向いた夜顔の闇色の瞳が、ぎらりと光る。

 猿之助は高笑いすると、驚愕の表情を浮かべている藤之助と部下たちを一瞥し「どうだ、この力! こいつさえいれば、都は我らの思うままよ!!」と、誇らしげに声を張った。

「夜顔、行くぞ! 次は何を壊そうか! ははははっ」

 夜顔に続いて寺の境内に入ると、猿之助は轟音に驚き外へ出てきた数人の僧侶たちに目をつけた。そして、邪悪な表情でにたりと笑う。

「あいつらを殺せ、夜顔」

 煙と霧で視界の悪い中を、あたふた走り回っている僧侶達に色のない目を向け、夜顔はゆっくりとそちらに歩み寄ってゆく。

「今の音は一体何だ!?」
「ん……!? 門が、御影堂門がないぞ!!」
「地震か!? いや……どこかからの攻撃か!?」

 僧侶たちは破壊された御影堂門を目の当たりにして慌てふためいていたが、ふと、土煙と霧の中からこちらに歩いてくる子どもに気づく。

「おい、子どもがいるぞ! 危ないな」
「この霧と煙で、迷いこんできたのだろう、保護せねば」

 救いの手を差し伸べようとする僧侶が三人、近付いてくる。
 土煙の切れ目から夜顔の闇色の瞳が光を帯び、まるで助けを求めるかのように、小さな手が僧侶たちの身体に伸びた。

 夜顔を保護しようと近づいていた二人の僧侶を黒炎が包み込み、もがき苦しむ声が暗闇の中に響いた。

「うあああああ!!」
「熱い!! 助けてくれ……!!」

 その悲鳴に驚いたように身体をびくんと震わせた夜顔は、後ろで愕然としていたもう一人の僧侶に飛びかかった。

「ぎゃああああ!!! 化け物……!!」

 首筋に喰らいつき、大の男を引き倒し、小さな手で腹を抉る。湿った音と共に生暖かいものが顔中に飛び散り、夜顔は動かなくなった肉の塊を、呆然とした表情で見下ろした。

「あ……う」

 夜顔は自分の顔についた物に、手で触れてみる。ぬるりとした赤い液体。そして自分の足元に転がる、もう二つの骸を見下ろす。  

 ぽっかりと虚ろに落ち窪んだ眼窩の穴。虚しく空に伸ばされた、腕。胸を掻き毟り身を捩ったまま事切れた、炭化した黒い骸。

 どくん、どくん……と胸の中で、何かが音を立てて動き始めた。
 同時に、脳を突き刺すように蘇る幾つもの映像が、夜顔の記憶の中を駆け巡る。

 自分を射殺すような、大人たちの憎しみの顔。
 怯え、恐れ、自分の身を守るために大人たちに喰らいついた。
 あっけなく事切れ、動かなくなった肉体。
 易易と引きちぎれる柔らかな肉。
 生温い赤い液体に、浸される不快さ。

 動かなくなった真っ赤な人間たちの目。瞳。眼。


「あああああ!!!」

 突如、夜顔は悲鳴を上げた。
 頭を抱え胃液を吐き出しながら、ふと目についた猿之助の部下の一人に喰らいつく。

「うぎゃああああ!!!!」

 首に喰らいつかれたその部下は、耳をつんざくような叫び声を上げながら夜顔を引き剥がそうとした。
 しかし夜顔はそんな抵抗などものともせずに、歯牙を更に深く首に食い込ませてゆく。ごり、ぼき、と骨が折れて砕ける音が、痩せ細った身体に響く。

 猿之助たちは息を飲み、血に飢えた獣のように男の首に喰らいつく夜顔の姿を、見ていることしか出来なかった。男は目玉を剥いて絶命していたが、身体はびくんびくんと痙攣していた。

「いかん!」

 藤之助は我に返ると、懐から呪符を取り出して素早く夜顔の額に貼り付けた。呪符に描かれた六芒星から赤い光が生まれて夜顔の身体を雁字搦めにし、糸を切られた操り人形のようにその身体から力が抜ける。

「おい! 何をしているのだ!」

 猿之助は怒鳴り声を上げた。藤之助は厳しい表情で兄を見据えると、負けじと声を張り上げた。

「こうせねば、俺たちは全員夜顔の餌食になるぞ! このまま夜顔を使うのは危険過ぎる!」
「こいつの力を知るための今だ! さっさと術を解かんか!」
「駄目だ!こんなにも人死ひとじにを出すなど、約束が違うではないか!! いい加減にしろ、兄者!」
「我らの義を通すためだ!! いいからとっとと夜顔を動かせ!」

 兄弟が言い合っている間に、夜顔の指先がぴくりと動く。

「うう……うううう……」
「な!」

 夜顔が震える手を伸ばして、自ら呪符を額から引き剥がした。呪符と一緒に、額の皮膚が剥がれ落ちることにも頓着せずに。

「ああああああ!!!!」

 夜顔は空に向かって吼えた。

 そして、騒ぎを聞いて外へ出てきた稚児や僧侶たちを、次々とその手にかける。
 東本願寺前庭の白砂利が、迸る鮮血によって赤く濡れ、境内の中は阿鼻叫喚に包まれた。
 逃げ惑うもの、悲鳴を上げて泣き叫ぶもの、動くもの全てを切り裂き、食い荒らすように夜顔は暴れ狂った。

 ふと、夜顔がぴたりと動きを止めて、崩れ去った御影堂門の向こうに目を向ける。


 そこに、槐が立っていた。

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