今際の際にしあわせな夢を

餡玉(あんたま)

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〈2〉

 どこかで嗅いだよう匂いがする。
 少し甘くて、どことなくスパイシーな匂い……これは、煙草だ。

 あいつが、侑李ゆうりが好んで吸っていた煙草の香りがする。

 俺はベランダの手すりにもたれて夕空を見上げていた。

 遠く、夕日に照らされた巨大な積乱雲には濃い陰影がくっきりと浮かび、微かに遠雷が聞こえてくる。

 就職してから住んだ部屋よりも格段に狭いベランダだ。物干し竿には安物のTシャツが干してあり、二階から見える景色は道路と田んぼ。そしてその向こうには古びた民家がのんびりと並んでいる。

 草の青い匂いが鼻腔を満たす。なんだかとても懐かしい香りだった。

 遠雷の音とともに、雨に匂いがする。もじきここにも、夕立が来るのだろう。

 見覚えのある風景がどこまでも広がっていて、郷愁をくすぐられる。間違いなく、ここは学生時代に四年間住んだ部屋だ。

「ん? ……あれ?」

 ふと持ち上げた手のひらが、なんとなくみずみずしい。それに、年齢とともに分厚くなったと感じていたはずなのに、今は妙に未完成にほっそりしていて違和感があった。

「ああそうか。なるほど夢か。よくできた夢だな……」

 いよいよ死が近いのだろう。きっと、神様が最後に懐かしい夢を見せてくれているに違いない。

 ひょっとすると、これは走馬灯の一種だろうか?

 こうして少しずつ過去に戻ったり、現実に戻ったりを繰り返しながら、脳内の記憶を整理していくのだろうか。
 整理したところで、あとは灰になるだけの記憶なのに……。

「もー閉めろよ。クーラーついてんだぞ、了悟りょうご

 聞き覚えのある涼しげな声音が、俺の心臓をドクンと大きく跳ね上げる。
 弾かれたように後ろを振り返ると、壁際に置いたベッドの上で、侑李が気だるげに煙草を吸っていた。

「ゆ、侑李……!?」

 センターパートの前髪をかき上げつつ、侑李はどこかうろんげな眼差しで俺を見上げている。
 だぼっとした黒いTシャツは俺のシャツだ。ここへ泊まりにきた時にいつも、侑李がパジャマがわりにしていた。

 どくん、どくん、と心臓がうるさいほどに騒ぎ立てている。

 ふらふらと窓に近づき、段差に躓く。つっかけていたサンダルがベランダに転がるのもそのままに、俺は侑李の前に膝をついた。

「侑李……なのか?」
「……は? なんだよ、俺が別の男にでも見えんのかよ」
「えっ? そ、そんなわけない。でも、だって……」

 潤んだ瞳で、侑李は力なく俺を睨んだ。
 頬には火照りが残り、首筋には赤いキスマークが散っている。
 汗ばんだ肌は白く艶めき、事後の淫らさをありありと残しながら、侑李は俺からぷいと目を逸らした。

「なんだよ、まだ犯し足りないってのか?」
「お、おか……!? いや、そんな……!」

 唐突に思い出した。
 これはおそらく、あの日の記憶だ。

 一晩連絡が取れなかっただけで、侑李が浮気をしたのではないかと疑った。素知らぬ顔でこの部屋に泊まりにきた侑李を問い詰め、喧嘩になり、そのまま強引に侑李を抱いたのだ。

 ……そしてそのあと俺は罪悪感に苛まれ、一方的に別れを切り出した。

 間違いない。これは、俺が二十年近く引きずった過去の記憶だ。

 ——気の利いた走馬灯だな。そうだよ、俺はこの日から動けないまま、もうすぐ四十になろうとしてたんだ……!

 忘れもしない、二十歳の頃の出来事だった。

 侑李は、こんなにも儚げな容姿をしていただろうか。こんなにも、侑李は頼りない体つきをしていただろうか。
 意識が40歳のまま20歳の侑李を目の当たりにして、当時はもっと大人びて見えていた彼がひどく幼い存在に思えた。

 俺を睨む侑李の瞳を、今ならちゃんと見つめることができる。

 ひどく怒っているような顔をしているけれど、瞳に揺らめく感情はそれだけじゃない。黒目がちな大きな瞳には、ありありと悲しみが浮かんでいる。

 俺に疑われ、一方的になじられて悔しかったに違いない。手ひどい扱いを受けて、悲しかったに違いない。

 180近い長身の俺と、170足らずの侑李だ。
 体格差にものを言わせて捩じ伏せ、ひどい行為を押し付けた。

 余裕を失い獣じみていた過去のおこないを思い出し、さぁ……と音を立てて血の気が引いていく。

 俺は侑李を傷つけた。
 謝りたい。夢だとはわかっているけれど、傷つけ悲しませた彼を、このままにしておけるわけがない。

 本当は好きで好きでたまらなかったひとなのだ。

 ひとことも謝らないまま、本当の気持ちを伝えないまま、あの世へ行けるわけがない……!

「ごめん!! 本当に、ごめんなさい……!!」
「はっ……?」

 がば! と俺は迷わず土下座した。
 頭上から、侑李の戸惑った声が聞こえてくる。

「酷いことをしてごめん……! 侑李のことが好きで、好きで、好きすぎて、周りが見えなくなってたんだ。俺は馬鹿だった、本当に、救いようのない馬鹿で、クズで、最低の男だ……!」
「え? ……は?」
「嫉妬のあまり、ありもしない妄想をしてしまったんだ。侑李を誰にも取られたくなくて、ちょっとでも連絡が取れないと不安で、不安で……この頃の俺、自分にまったく自信がなかったんだ。だからこんなひどいことを」

 血の涙を流す勢いで顔を上げた俺を、咥え煙草のまま、侑李がポカンとなって見つめている。

 すると、灰がわずかにぽろりと落ち……侑李は「あっつ!!!」と飛び上がった。慌てて灰皿を差し出すと、侑李はじゅっとそこに煙草を押し付け、ベッドの上に座り直した。

「なんだよ急に下手にでやがって……。浮気してないなら証拠を見せろとか、あの男は誰だとかって俺をさんざん疑って責めておいて、今更なんなんだよ」
「それについても、本当に申し訳なかった。侑李には侑李の人間関係もあるし、バイト先の人間関係だってあるのに、つまらない嫉妬をしてしまった」
「……。お前だってあちこちで愛想振りまいてるくせに、俺のことばっか監視して束縛しやがって。うぜーんだよ」
「ごめん……ていうか、愛想なんて振りまいてないよ! たぶん当時の俺は、侑李と付き合えた幸せで舞い上がってただけなんだ!」
「当時の俺ぇ?」
「あ、いや……」

 俺はなおもひれ伏したまま、侑李を見上げて本音を訴えた。

「俺よりも本当はずっと頭良くて、綺麗で、おしゃれでかっこいい侑李が、いつまでも俺と付き合ってくれるわけないって思ってた。侑李と対等な自分を演じたくて、インテリぶったり偉そうにもしたかもしれない。だけど本当は、ずっと怖かったんだ。侑李に捨てられるのが、怖かった」
「え……」
「好きなんだ、侑李のこと。ずっとずっと、好きだった。二十年引きずるくらい、好きで……本当に、好きで」
「二十年? ちょ……ちょっと待てって。お前、さっきから何言ってんの?」

 夢でもいい。伝えられなかった本音の全てを、俺は侑李にまっすぐぶつけた。

 大切だった人を傷つけたまま、死ぬわけにはいかない。
 このまま死んでも死に切れない。

 俺は身体を起こし、そっと両手で侑李の手を握った。

 今までこんなことをしたことがなかったせいか、侑李は咄嗟のように手を引っ込めかけたけど……そのまま、手を握られていてくれた。

「大切にしたかったんだ。こんなに好きだと思えた人は初めてだった」
「っ……」
「傷つけてごめん。俺は侑李のことが、本当に好きなんだ」
「り、了悟……」

 必死の想いで侑李を見つめる。たぶん今の俺はものすごく情けない顔をしているだろうが、構わなかった。

 侑李の目が赤い。手荒いセックスで俺に泣かされたせいだろう。
 綺麗なアーモンド型をした大きな目が、探るように俺を見つめている。

 くりっとした大きな目や細身な体型のせいで幼く見られがちなことを気にして、あえていかつめの煙草を吸っていた。舐められるのがいやだから、もっと強そうな男に見られたいから——……いつか、侑李は事後にぽつりとそうこぼした。

 服装も、髪型も、ちょっと斜に構えたようなクールな態度も、それはとても侑李によく似合っていた。そして俺は、それこそが彼の本当の姿だと信じて疑わなかった。

 冴えない俺の目に映る侑李はあまりにも完璧で美しく、そして格好良かった。だから彼のそういう本音を、俺はただの謙遜と受け止めたのだ。

 だけど、今の俺にはなぜだかわかった。
 侑李は生きづらい世の中を、必死に肩肘を張って生きている。

 二十年前といえば、今ほどマイノリティに対する理解はなかった。現代が生きやすいかというとそういうわけでは決していないけれど、偏見を恐れる気持ちは、当時の方がよほど強かったと思う。俺自身もそうだった。

 だからこそ、ようやく出会えた恋人に執着した。
 身寄りのない俺にとって、唯一縋れるものでもあった。そのせいで、彼をひどく束縛した。

 性的指向のせいで家族との縁が途絶えている侑李だって、俺と同じ気持ちだったかもしれない。
 きちんと向き合えば理解しあえるはずだったのに、俺は独占欲に目が眩んで、侑李の本音を聞こうとはしなかった。

 大切にしたい。ただ、それだけだ。
 俺はそっと、侑李の骨ばった肩に手を添えた。
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