Blindness

餡玉(あんたま)

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第1章 ー結糸ー

5、予兆

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 蓮と須能が行ってしまったあと、葵は「一人にしてくれ」と言い、結糸と勢田を下がらせた。

 そしてその日は珍しく、諸々の予定を全てキャンセルし、ずっと一人きりで部屋に引きこもっているのである。

 蓮は結局、須能と朝食を食べた後、すぐに本邸を出て仕事へ向かった。そして須能も、「今日はもう会ってもらわれへんやろうな。また来るわ」と結糸に言い残し、車を呼んで去って行った。

 結糸はその後、葵の部屋の前をうろうろしたり、庭師の仕事を手伝ったり、勢田の言いつける仕事をこなしたり……とそれなりに忙しなくしていたものの、葵のことが気になって仕方がなかった。普段、結糸はいつでも葵のそばにいるのだ。こんなにも長い間離れているのは、初めてかもしれない。

 そして夕方。
 朝も昼も食事を摂っていない葵のことがどうしても気にかかり、結糸はとうとう葵の部屋をノックした。

「葵さま、俺です。夕飯、どうされますか?」

 返事はないだろうと内心諦めていたものだから、結糸はぴったりとドアにくっついて中の物音に耳をそばだててみた。すると数秒後、ひょいとあっけなくドアが開く。突然のことで身を引く余裕もなく、結糸はつんのめって葵に抱きついてしまった。

「あっ……!!」
「結糸……? 何してるんだ」
「すす、すみません……!!」
「まったく……」

 呆れたようにため息をつきながらも、葵は結糸の身体をしっかりと掴んで支えてくれる。間近に迫る葵の胸元から、ふわりと甘い香りが漂った。その時ふと、葵の手が触れた場所が異様に熱く感じられ、結糸はとっさに身を引いた。

「すみません……。あの、朝から何も食べてないですよね。夕飯食べませんか……?」
「……あぁ、そうだな。けどその前に、ちょっと散歩に付き合ってくれないか」
「あ、はい! もちろんです!」

 差し出された葵の手に、結糸は恭しく触れた。柔らかな熱を孕んだ葵の長い指に触れるだけで、今日は無性に胸が騒ぐ。


 ——なんか変だな……。


 自分自身の体調にわずかな不安を感じつつ、結糸は葵の求めるまま庭へ出た。


 +


 ふたりは、広々とした美しいイングリッシュガーデンを歩いた。

 春になり、日がずいぶんと長くなった。暮れゆく空は燃えるような橙色で、庭を彩る木々から伸びる影は長く、濃い。その影は、四季を彩る庭園の花々の表情を、どこか物憂げに見せていた。

 イングリッシュガーデンは、植物たちの自然な表情を大切にしながら造られるものだ。
 春になり、植物たちの活動がより一層賑やかになりはじめていることもあって、庭園の一画に植えられた常緑樹たちは若干勢いがありすぎるように見えるものの、この庭にはいつでも生命を感じさせる強さがあった。

 国城家の庭園には、四季を通じて様々な花が咲く。日本にはない品種の植物を輸入していることもあり、この庭にいると、どことなく異国の香りを感じることもできるのだ。

 石畳のタイルが並んだ小さな小径を結糸と並んで歩きながら、葵は小さく鼻をひくつかせて、空気の匂いを楽しんでいるようだった。

 アイビーの伝うアーチを抜けると、そこは一面、薔薇の庭だ。
 薔薇の盛期にはまだ早いものの、ここにはいつでも薔薇が花弁を広げている。結糸も時折庭の手入れを手伝うこともあるが、薔薇の庭だけは触らせてもらえない。ここには管理の難しい品種がたくさんあるため、専門知識のある庭師に任されているのだ。

「……ここは薔薇の庭? いい匂いだ」
「ええ、めちゃくちゃいっぱい咲いてますよ。真っ赤なのと、白いのと、ちょっと青っぽいのと……。この庭は一年中薔薇が咲いててすごいですよね」
「うん。……ここは兄さんが、目の見えない俺のために造ってくれた庭なんだ。薔薇は香りが強いから、目が見えなくても楽しめるだろう、って」
「へぇ、そうだったんですか」
「強くて、たくさん花を咲かせる品種をわざわざ輸入して、品種改良までして、この庭に植えてくれた。優しい人なんだろうな、多分」
「多分……?」

 葵はふと立ち止まり、目を閉じて深く息を吸った。軽く仰いたまま目を開くと、色のない葵の瞳に、緋色に燃え上がる空の色が写り込んで見えた。

「兄さんの言うことは正しい。頭では分かってるんだ。それに、俺だって兄さんの力になりたい」
「……はい、知ってます」
「でも……俺は心のどこかで、目なんて一生見えなくていいって思ってた。もう一生、このままでいいって」
「え? そうなんですか?」

 ストイックな葵の口からそんな台詞が出てきたことに驚いて、結糸は隣に立つ葵の横顔を見上げた。葵はふっと目を伏せて、結糸の方へと顔を向ける。

「俺は目が見えないことに甘えて、直視したくない問題から目を逸らしてきた」
「パートナーのこと、ですか……?」
「うん、まぁ、それもひとつかな。でも、手術の日取りが決まったって言うんなら、俺もそろそろ腹を括らないといけないんだろうな」
「……はい」

 葵の言葉を聞くたびに、結糸の心はじくじくと痛んだ。それはつまり、もうすぐ葵が結糸の手を必要としなくなるということだ。葵は一人で颯爽と街を歩き、今、結糸の肩に置く優しい手で、この先たくさんのオメガを抱くのだろう。


 ——考えるな、そんなこと。もっと嬉しそうにしなきゃおかしいだろ! だって、目が見えるようになるんだ、素晴らしいことじゃないか。


「あ、葵さまは、目が見えるようになったら、まず何を見たいですか!?」

 結糸は泣きたくなる気持ちをぐっとこらえて、明るい声で葵にそう尋ねた。すると葵はぱちぱちと目を瞬き、うーんと小さく唸って空を見た。

「この庭とか、かな。結糸の説明じゃ、いまいち伝わってこないから」
「えっ、伝わってないですか!?」
「そうだなぁ。もう少し語彙力を増やしてほしいもんだな」
「うっ、語彙力……。それは分かってますけど、葵さまのお世話があるから、なかなか暇がなくて」
「……うん、そうだよな。俺の目が見えるようになれば、結糸はまた学校に行けるようになる。好きなだけ学べるようになるな」
「あ……」

 葵はちょっとだけ唇を引き上げて微笑むと、そっと結糸の顔のあたりの高さまで手を上げた。ほんの少し何かを探すように彷徨った白い指が、ふと結糸の鼻先に触れる。すると葵はそのまま手を伸ばし、くしゃっと結糸の頭を撫でた。

 頭に触れられるのは初めてだ。驚きと喜びのあまり、結糸の心臓は、ドクンと激しく高鳴った。かっと全身が熱くなり、視界が潤んで霞んでしまう。

「大変だったろ。まだ若いのに、俺みたいに面倒なやつの世話をさせられて」
「そっ……そんなことあるわけないじゃないですか!! 俺は……葵さまといられて、毎日毎日楽しいんです!! 学校なんて、もういいんです! 俺は……俺はずっと……ずっと……!!」
「ずっと……何?」
「俺……っ……嫌です……。葵さまが俺に世話されないなんて……いやです……っ……ひっぐ……」
「……結糸? 泣いてるのか?」
「な、泣いてなんか……っ……うぅ……」
「まったく」

 葵は結糸の後頭部を手のひらで包み込んで引き寄せると、肩口へと押し付けた。

 抱き寄せられ、身体が密着する。こんなにも生々しく葵の肉体を感じるのは、初めてのことだった。

 夜の帳に包まれつつある庭の風景。服の匂い。薔薇の香り。あたたかな体温。自分のものではない鼓動の音——……それらは結糸の感覚を激しく揺さぶり、結糸の中に潜んでいた何かを確実に刺激した。


 ずっと高鳴り続けている鼓動がさらに速くなり、淡く火照り続けていた肉体に、さらなる熱が燃えあがる。


 この感覚には覚えがある。
 初めてこれを体験した日からずっと、これが怖くて薬で無理やり押さえ込んでいた。

 しかし、あの時体験した性的な衝動を忘れられるはずがない。


 ——やばい、これ……っ……!


 危機を感じて、結糸は荒々しく葵を突き放した。一歩後ろにふらついた葵だったが、尋常ではない様子の結糸のようすを感じてか、訝しげな声を出す。

「結糸? どうしたんだ」
「ぁ……あぁ、触らないでください……っ!!」
「結糸……!? ちょっと待ってろ、今、勢田を呼ぶから」
「呼ばないで!! 誰も呼ばないで!!」

 葵が黒いズボンから取り出そうとしたスマートフォンに、結糸は無我夢中でしがみつこうとした。が、その拍子に激しいめまいに襲われて、結糸はぐらりと地面に両手をついてしまう。

「……はぁっ……はぁっ……は……っ……薬……っ、薬……」

 ポケットを探るが、手が震えて思うようにならない。

 ——抑制剤が切れたのか……!? 

 結糸はいつも、ズボンのポケットに抑制剤入りの小瓶を常備している。身体に異変を感じたら、すぐに飲めるように。

 今こそそれを飲まなければならないのに、ぶるぶると指が震えて、瓶の中に入っていた錠剤の半分ほどを地面にぶちまけてしまった。

 ——っ……でも、ここでもう一度飲めば、大丈夫……。葵さまは何か勘付いているかもしれないけど、俺のこと見えてないんだから、何とかごまかして……!

「結糸……お前」
「す、すみませんっ……俺、朝からちょっと、熱っぽくて……あの、すぐ、すぐに落ち着きますから……!」
「……オメガだったんだな、やっぱり」
「えっ……?」


 地面に散らばった錠剤を掴もうとしていた手が、止まった。


 結糸は顔を上げることもできず、ただただ、葵の靴のつま先を見つめていることしかできなかった。

 黒いレザースニーカーは葵の長い脚によく似合っていて、ものすごく格好がいいと思っていた。そんな些細なことを、こんな時に思い出すのはなぜだろう。


 その時、すっと葵が膝を折った。
 そして四つ這いになっている結糸の背中に、いつものように葵の手が乗せられる。


「……勢田か。薔薇の庭にすぐ来てくれ。結糸が熱を出してふらついてる。一人で来てくれ、いいな」
「あっ……葵さま……っ……」

 通話を切った葵は、どことなく苦しげな表情を浮かべている。白い頬がほんのりと紅潮しているように見えるのは、名残惜しげに空を染め上げる夕陽のせいだけではなさそうだ。

「……だいぶ前から、ひょっとするとそうなのかなって思ってたんだ」
「えっ……う、うそ……」
「……お前の匂いが、いつも……」

 葵は何かを言いかけて、ぐっと眉根を寄せて唇を引き結んだ。結糸の背に置かれた手のひらがかすかに震え、ぎゅっと結糸のシャツを握りしめる。

「……この香りが……俺を……」
「葵さま……?」


 発情ヒート時のオメガのフェロモンは、番を持たないアルファを惑わせる。

 それはどんな媚薬よりも強力な、催淫剤のようなものなのだ。


 ——どうしよう、俺……葵さまを誘ってる……。こんなこと、あってはならないことなのに……!!


 葵は苦しげに胸を押さえ、形のいい唇から荒々しくため息を吐いた。たとえ光を映さなくとも、今の葵の瞳には、はっきりとした雄の高ぶりが見て取れる。

「葵さま、こちらですか!?」

 その時、勢田が駆けつけてきた。結糸は勢田によって抱き上げられながら、熱に浮かされ霞みがかった意識の向こうで、葵が強い口調で勢田に命じている声を聞いた。


「結糸を俺の部屋に運べ。俺が許可するまで、部屋には誰も近づけるな。絶対にだ、いいな」
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