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琥珀に眠る記憶ー新章ー 第二幕
二十八、灰褐色の瞳
しおりを挟むホテルのエレベーターは全て停止し、ひと気もない。凍りつくように冷え切ったロビーを抜け、階段を駆け上る。薫は息を切らしながらぐいと汗をぬぐい、屋上の中央へと真っ直ぐに走った。
だがその瞬間、新たな妖が一体その場に出現する。下にいたものと大きさは変わらないものの、そこから漲る妖力はひときわ大きく、実践経験の少ない薫は気圧されてしまうほどのものだった。
今まさに呪印から生み出されたばかりの巨大な蛇は、陽炎のような妖気をまといながら、薫に向かって鋭い牙を剥いた。
「っ……!!」
弾丸のように鋭く首を突き出し、薫を攻める蛇の唾液が、コンクリートに飛び散った。唾液が触れた場所からは白煙が立ち、コンクリートが溶解していく匂いが鼻を突く。
——強い……! くそっ……早くしないと深春が……!!
身を翻し、攻撃をかわしながら間合いを図るが、気持ちばかりが焦っている。早々にこの蛇を縛り付け、使役しなければいけない。未熟な自分は、式を得なければ戦うすべがないからだ。
忌まわしいやり方だとは分かっているが、祓い人である薫は、そういう戦い方しか知らないのだ。接近戦に持ち込めるほどの体術を持ち合わせてもおらず、陰陽術を使えるわけでもない。
——もっと、もっと力をつけなきゃ……! 僕は楓や拓人とは違う。人の役に立ちたい、深春の力になりたい……!! 過去に、縛られたりしない……!
「うぁあああああ!!!!」
薫を真正面から噛み砕こうと、鋭く裂けた巨大な口が迫っている。薫は全霊力を集中し、腹の底から声を張り上げた。
さっき傷つけた指先からは、今も血が滴っている。その血を拳に握り込み、薫は素早く身を屈め、蛇の懐に滑り込んだ。そして蛇の喉元に、己の手のひらを押し当て、声高に叫ぶ。
「我に隷属せよ!! 拿首刻呪!!」
ひときわまばゆい赤光が薫の手のひらから迸る。それは一瞬にして鎖のような形状を成し、牙を剝く蛇の全身を雁字搦めにした。
これは大幅に術者の霊力を削ぐ技だが、その分支配力は群を抜く。
楓がこだわって使っていた『鎖』の術は、効率的かつ半永久的に妖を従属させることのできる技である。一方拿首刻呪は、自分よりも巨大な相手を、一時的だが強力に戒めることのできる技である。
ズン…………と重い地響きと共にコンクリートの上に倒れた蛇が、びく、びくと痙攣している。元の主人との命令と、薫によって与えられた戒めが、蛇の内部でぶつかり合っているらしい。
「起きろ」
だが、薫のその一言で、蛇の痙攣が止まった。
そして、むくりと頭を起こした蛇の白い目が、まっすぐに薫のほうへ向く。
——重い……どんどん力を吸い取られていく。
だが、手応えはある。この蛇の意識の全てが、薫の支配下にあると感じることができる。薫はこめかみに汗を伝わせながら、怜悧な声でこう命じた。
「呪印を破壊しろ。今すぐにだ」
ずず……と蛇が起き上がり、たった今自らを生み出したばかりの呪印の元へと這っていく。時折、バグを抱えたプログラムのように、軽微なこわばりを見せながらも、蛇は呪印の上に鎌首をもたげ、ほのかな光を放つ円陣の上に唾液を吐いた。
模様を失った呪印から、急速に力が消えていく。
薫は安堵のあまり、思わずその場に膝をつきそうになった。が、なんとか両足を突っ張って、ぐいと拳で汗を拭う。
「はぁっ……ハァ……っ……」
下の様子はどうだろう。深春を襲っていた蛇たちは、姿を消しただろうか。まだ薫の術が優っているのか、手駒にした蛇は形を保ったままだ。だが、そこから流砂のように流れ出してゆく力の動きを感じる。捕縛したこの妖も、もう数分のうちに全て消えてゆくだろう。
薫は目を閉じ、深い深いため息をついた。
すぐに深春の元へ戻り、状況を確認しよう——と思った瞬間、若い男の声が耳に響いた。
「……へぇ~、なかなか強いんですね、君」
「っ……!?」
弾かれたように目を開く。
今まさに消えゆこうとしていた蛇の上に、白髪の若い男が佇んでいた。
年齢は17、8といったところだろうか。薫よりは少し年下に見える。痩身で儚く、今にも消えてしまいそうな容姿をした男だ。
「だ……誰だ!?」
俯いて蛇を見下ろしていた男が、すうと流れるように視線を上げた。色のない瞳が、ひどく不気味だ。あの色は、灰褐色といえば当てはまるだろうか。切れ長の聡明そうな目元をしているけれど、瞳の奥にゆらめく光は獰猛だ。物静かな容姿をしているだけに、そのアンバランスさが際立って見える。
——まさかこいつが、駒形司……? 菊江さんたちを殺した……!?
「ふふ……名乗らずとも、心当たりがあるって顔ですね。初めまして、水無瀬薫くん」
「っ……じゃあ、じゃあやっぱりあんたが、駒形……!」
駒形は青白い唇に笑みを浮かべ、しゃがみこんで蛇の頭を撫でた。そして蛇を呪縛していた薫の血をそっと指で拭い、それを口へと持っていく。
——僕の血を……舐めてる。
薫の血を舐め取った駒形の唇が、そこだけ濃い紅色に染まった。白い肌との対比は美しいようでいて禍々しく、不吉さに背筋がざわつく。
「……面白いですね、君は。こうも濃く祓い人の血を受け継いでおきながら、陰陽師衆に与しようとするなんて」
「そ、そんなの、あんたになんの関係があるんだ……!」
「怒らないんですか? 僕は、君の仲間をたくさん殺したんですよ?」
「っ……」
「じゃあ、喜んでくれますか? 忌まわしい君の過去を、僕が次々に消してあげているんです。どうですか?」
『怒らないのか』『喜ばないのか』と問いかけられ、薫は戸惑った。
君の仲間、という言葉は、正直今の薫には受け入れにくい。彼らは悪事に身を染めていたのだ。過激だった水無瀬衆の一派と、一括りにされたくはない。
そう思えば、駒形のやっていることは『正義』のひとつなのかもしれない。だが、だからといって、駒形のやってきた殺人行為を肯定することなど、できるはずもない。
まだ前世に飲み込まれる前の楓の笑顔がかすかに脳裏にひらめいては、煙のように消えてゆく。
——惑わされるな。
「あなたの身柄を、宮内庁の人々が探しています。今ここで捕縛します」
「へぇ、君が? この僕を」
「大人しくしていてください……!」
体格だけで言えば、薫の方が圧倒的に優位だろう。だが、この男には、迂闊に近づいてはいけないような気がする。
薫はざっと両手を広げ、力の抜けつつある蛇に向かって声高に命じた。
「その男を捕らえろ!!」
薫の声に即座に反応し、蛇はむく、と顔を起こした。だが、そこまでだった。
駒形が蛇の頭部に手を触れた瞬間、バンっ!! と蛇が破裂した。溶解液を伴った血液が四方八方に飛散し、ビチャビチャッ!! と湿った音を響かせる。薫は即座に身を庇い、駒形のそばから飛び退いた。
——さすがに、傀儡の術を仕掛けた本人を相手には、無理か……!!
空中で体勢を整え、別の攻撃方法を考えようとしたその時、耳元で駒形の声がした。
「遅いなぁ」
振り向こうとした瞬間、黒々と渦を巻く蔓草が見えた。とっさに身を捻って攻撃をかわしたものの、肩口に焼けるような痛みを感じ、薫は声を殺して歯をくいしばる。
その次の刹那には、下腹に重い衝撃が加えられる。殴られたのだと気づく頃にはすでに、薫は地面に激突していた。背中を強打し、うまく息が呼吸ができなかった。
コンクリートの上に大の字になった薫の頭を跨ぐように、駒形が立つ。冷ややかな視線とは相反する優しい表情で、駒形は薫の血で色付いた唇を弓なりにしならせた。
「忘れないでください。僕は、君のことも必ず殺す」
「ぐっ……ぅ」
「今日はもう、時間がないみたいだけどね」
そう言って空を仰いだ駒形の視線の先に、一閃の光が見えた。
徐々に大きくなる爆音。サーチライトで闇を照らしながら近づいてくるのは、ヘリコプターだ。それも一機ではない。二機、三機とシルエットが増えてゆくにつれ、薫の周囲は眩いばかりの光に包まれる。
「薫!!」
「……みはる」
駒形が空へ気を取られている隙をついて、深春が勢いよく駒形に体当たりをした。突き飛ばされた駒形が薫から離れるのと同時に、サーチライトの明るささえ塗りつぶすほどの青緑色が、辺り一面を染め上げる。
「陰陽閻矢百万遍!! 急急如律令!!」
唸りを上げて降り注ぐ数百の矢が、駒形の身体を真上から貫いた。
ヘリによる爆風とローター音の轟音が混ざり合い、竜巻のように建物が揺れている。
深春は薫に覆いかぶさり、凄まじい衝撃から薫を庇う。
容赦のない攻撃だ。深春の腕の向こうで繰り広げられている光景から、薫は目が離せなかった。
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