黒崎くんと佐藤さん

金魚

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第二章

暁までの守護

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深夜の診療所を突如として切り裂いたのは、喉を掻き毟るような黒崎の悲鳴だった。

​「おやめください……! 
離してください、ご主人様、痛いです、そこは……っ!!」

​ベッドの上で黒崎は目を見開いたまま、見えない敵から逃れるように激しく身悶えていた。
全身に脂汗が浮き、包帯の巻かれた鎖骨やまだピアスが残る唇が激しく震えている。

​物音に気づいた佐藤が部屋に飛び込んできたとき、黒崎は自分の喉を爪で掻き毟り、せっかく塞ぎかけていた傷口を自ら抉ろうとしていた。

​「黒崎くん! 落ち着け、黒崎くん!!」

​佐藤は反射的に黒崎の両手首を掴み、その自傷行為を止めた。
しかし悪夢の淵にいる黒崎には、佐藤のその「拘束」さえも天童の凄惨な蹂躙の続きにしか感じられなかった。

​「離して、ください、殺して…ください…!
 お願いですから、もう……っ! どこにでも何本でも、打ち込んでいいから……っ!!」

​狂乱する黒崎。

その瞳には、目の前にいる佐藤の姿は映っていない。
見えているのは冷笑を浮かべて銀の針を構える、天童の影だけだった。

​「黒崎くん、私だ! 佐藤だ! ここには天童はいない! 
君を傷つけるものは何一つないんだ!!」

​佐藤は叫ぶように黒崎の名を呼び続け、暴れるその細い身体を無理やり自分の胸の中へと引き寄せた。

​力任せの制圧ではない。
黒崎の震えをすべて受け止め、逃げ場を作るための、深く静かな抱擁だった。

​「はっ、はぁ……っ、……さ……とう、……さん……?」

​佐藤の体温と使い込まれた白衣から漂う微かな薬の匂い。
それが天童の冷え切った消毒液の匂いを、黒崎の記憶から少しずつ追い出していく。

​黒崎の身体から、急激に力が抜けた。

彼は佐藤の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

​「……怖かった……っ。また、あそこに引き戻される気がして……っ。銀の鎖が、身体中に絡みついて……っ」

​「大丈夫だ。私がついている。
一歩も君のそばを離れない」

​佐藤はベッドの端に腰掛け黒崎を膝の上に乗せるような形で、一晩中彼を抱きしめ続けた。

​黒崎が少しでも震えれば、背中をゆっくりとなぞり、残された耳や唇のピアスが枕に擦れないよう、細心の注意を払ってその頭を支えた。

​「……佐藤さんの……心臓の音、……聞こえます……」

​「ああ。生きている音だよ。君も、私もね」

​窓の外が白み始めるまで、佐藤は黒崎の耳元でとりとめのない日常の話を囁き続けた。
明日の献立のこと、近所の公園に咲く花のこと、次に読むべき本のこと……。

​天童が「痛み」で支配した時間を、佐藤は「安らぎ」という名の穏やかな言葉で上書きしていった。

​朝の光が差し込む頃、黒崎は佐藤の腕の中でこの数週間で最も深い、穏やかな眠りに落ちていた。

​その寝顔からはかつての「愛玩物」としての不自然な微笑は消え、ただ一人の青年としての無防備な安らぎだけが宿っていた。


───暁が訪れる。

深い眠りから覚めた黒崎は、ゆっくりと目を開いた。

視界に映ったのは静かに眠る佐藤の横顔だ。

昨夜の悪夢の残滓はまだ胸の奥に燻っていたが、佐藤の腕の中という確かな温もりと、規則正しい心臓の音が彼の心を落ち着かせていた。

​朝食を終え、佐藤がソファで医学書を読み始めた頃、黒崎はそっと佐藤のそばに立った。

診療所の中は朝の光がやわらかく差し込み、穏やかな時間が流れている。

しかし黒崎の心の中には、小さな、それでいて切実な願いが芽生え始めていた。

​「……あの、佐藤さん。
……わがままを、言っても、いいですか…?」

​佐藤は黒崎が自分から「わがまま」という言葉を使ったことに驚き、本を閉じた。

「なんだい黒崎くん? 食べたいものがあるのかい? それとも、体調が……」

​「……そうじゃなくて」

​黒崎は佐藤の目を真っ直ぐに見つめる。
その瞳にはかつての虚無はなく、確かな「欲求」の光が宿っていた。

​「……佐藤さんの家にある本が、読みたいんです。
もちろん、難しい医学書などではなくて……その、簡単なもので……」

​そしてさらに小さな声で、まるで秘められた願いを打ち明けるかのように付け加える。

「できれば、佐藤さんの隣で…。

……だめ、でしょうか?」

​黒崎の頬は、微かに赤く染まっていた。

それはかつて見せていた『愛玩物』としての不自然な媚びではなく、ただ純粋に、佐藤との穏やかな時間を求める、『一人の人間』の感情だった。

佐藤はそんな黒崎の健気な願いを、慈しむような眼差しで受け止めた。

​「…ああ、もちろんいいとも。
簡単な本ならいくつかある。
君が隣で読んでくれるなら、私にとっても嬉しいことだ」

​佐藤はそう言うと、いつもの穏やかな下がり眉の笑顔を黒崎に向けた。

その笑顔は昨夜の悪夢に囚われた黒崎の心に、確かな光を灯すようだった。

​「ありがとうございます、佐藤さん……」

黒崎が棚から選んだのは、薄い詩集だった。
佐藤の読む医学書のような重みはないが、その一行一行が凍りついていた彼の感性を少しずつ溶かしていく。

​(ああ、温かい……)

​隣から伝わってくる、佐藤の大きな体の熱。
時折、佐藤がページを捲るたびに動く肩の気配。

​それは、ただ一人の青年として大切な誰かと時間を共有しているという、あまりにも贅沢な実感だった。
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