黒崎くんと佐藤さん

金魚

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第二章

決意の響き​───真の「黒崎」の誕生

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わがままを言ったあの日から数週間後。

窓から差し込む朝日は柔らかく、食卓に並んだトーストの香りが鼻をくすぐる。

かつて鼻を突いたあの冷徹な消毒液の匂いは、もう黒崎の記憶の隅へと追いやられていた。

​佐藤が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、黒崎はふと、自分を見つめる佐藤の穏やかな眼差しに気づく。

その瞳に映る自分は、天童が愛でた「歪んだ傑作」ではなく、ただ一人の大切な「人間」だった。

​(佐藤さんの隣に、恥ずかしくない姿で立ちたい……)

​そう願った瞬間、自分の身体を飾る銀の環たちが急に耐え難いほど醜い、泥のような汚れに見えてきた。



​佐藤が診察室でカルテを整理していると、背後で微かに、しかし確かな「音」が聞こえた。

​「チリ……、チリ……」

​複数の金属が触れ合う、あの冷たい音。

振り返ると、そこにはシャツの裾をぎゅっと握りしめ顔を赤らめた黒崎が立っていた。

​「……黒崎くん? どうかしたのかい?」

​黒崎は意を決したように、佐藤の目の前まで歩み寄った。
かつてのように跪くためではなく、対等な一人の人間として自分の願いを伝えるために。

​「佐藤さん。

……これ、全部……外して、いただけますか?」

​彼は自らシャツを捲り、さらに後ろに残っていた最後の数個のリングを指先で小さく震わせながら鳴らした。


​「もう、いりません。
……ご主人様の印なんて、どこにも残したくないんです。

私は、あなたの隣に立つ……『黒崎』に戻りたいから」


​佐藤は一瞬、驚きに目を見開いたがすぐに深い慈愛を湛えた笑みを浮かべた。

​「……分かった。全部外そう。
……君が君自身を愛せるように」


​処置台に横たわる黒崎。

かつては恐怖でしかなかったその場所も、今は佐藤の温かな手が触れる「救済の場」に変わっていた。

​佐藤は熟練の手つきで一つずつ、丁寧に銀の枷を切り離していく。

​耳に執拗に開けられた三つの穴から銀が抜かれ、​唇から冷たい証が消え、柔らかな感触が戻る。

​乳首とへその身体の中心を汚していた刻印が、トレイに音を立てて落ちる。

​そして最後は、最も黒崎を苦しめていた、前と、後ろに密集する残りのリング。

​「少し痛むよ。……でも、これで最後だ」

​佐藤の言葉と共に、重なり合っていた銀の鎖がバラバラと音を立ててトレイに沈んだ。

​すべての処置が終わり、黒崎はゆっくりと起き上がる。
身体から「重み」が消え、どこを動かしても、もうあの冷たい金属の音は聞こえない。

​鏡の前に立った黒崎は、自分の身体を抱きしめた。

そこには無数の小さな傷跡───穴が残っている。

けれどそれは、「モノ」であった過去を乗り越えた、戦いの証のようにも見えた。

​「……軽い。
……佐藤さん、身体が、すごく軽いです……っ」

​「ああ。もう君を縛るものは何もない。

……おかえり、『黒崎くん』」

​佐藤は黒崎の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ、その肩に優しく手を置いた。

今、この部屋にいるのは誰かの『コレクション』ではなく、自分の意志で愛を選んだ、一人の『誇り高き青年』だった。



───次の日。

鏡の前に立つ黒崎は、何度も自分の耳たぶや唇を指でなぞる。

かつてそこにあった冷たい金属の感触はなく、首を振っても歩いても、あの忌々しい「チリチリ」という音は二度と聞こえてこない。

​身体を貫いていた銀の枷はすべて、佐藤の手によってトレイへと沈められ今は清潔なガーゼと、少しずつ再生していく皮膚の温もりがあるだけだった。

​「お待たせ、黒崎くん。
……おや、その服、とてもよく似合っている」

​診察室の奥から現れた佐藤は、いつもの下がり眉の穏やかな微笑みを浮かべた。

今日の黒崎が着ているのは、天童に与えられた「展示用」の派手なスーツではなく、佐藤が一緒に選んでくれた柔らかい生成りのニットと紺のチノパンだった。

​「佐藤さん……。
あの、音が……しないんです。どこを動かしても、私が私であることの音が……」

​黒崎は少し戸惑ったように笑った。

自分を「モノ」として定義していた音が消えたことは、喜びであると同時に真っ白な地図を渡されたような不安でもあった。

​「そうだね。これからは、君の足音と君の声だけが世界に響くんだ。

……さあ、行こうか。
今日は風がとても気持ちいいよ」

​診療所の重い扉が開くと、溢れんばかりの陽光が黒崎を包み込んだ。

天童の地下室や、あの密室の展示場にはなかった、本物の太陽の光。

黒崎は思わず目を細め、佐藤の腕にそっと手を添えた。

​「……眩しい。……外の世界は、こんなに色が溢れていたんですね」

​街ゆく人々の笑い声、遠くで聞こえる車の走行音、そして街路樹が風に揺れる音。

すべてが新鮮で、そして何より、誰も黒崎を「値踏みするような目」で見ていないことに、彼は深い安堵を覚えた。

​公園のベンチに座ると佐藤は隣で静かに息をつく黒崎を見つめた。

​「黒崎くん、怖くはないかい?」

​「……少しだけ、怖いです。
でも、隣に佐藤さんがいてくれるから。
……耳元で銀が鳴らないだけで、こんなに心が静かなんだって、初めて知りました」

​黒崎は自分の膝の上にある手を、佐藤の掌の上に重ねた。

それは鎖で繋がれるためでも、無理やり指を割り込ませるためでもない。

ただ、一人の人間として、愛する人の体温を感じるための黒崎自らの意志だった。


​「佐藤さん。

私を『人間』に戻してくれて、本当にありがとうございます」

​「私こそ、ありがとう。
……君がこうして自分の足で歩き出そうとする姿を見られることが、私の何よりの誇りだよ」

​佐藤は黒崎の細い指を優しく包み込んだ。

かつて「男の部分」や「肛門」までをも銀で閉ざされ、尊厳を奪い尽くされた男は、今、そのすべてを解放され愛する人の隣で穏やかな春の光を浴びている。

​「佐藤さん。次は……あそこのアイスクリーム、食べてみたいです。

二人で、同じものを」

​「ふふ、いいね。一番大きなやつを選ぼうか、黒崎くん」

​二人は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。

その足取りにはもう「モノ」としての卑屈さはない。

チリチリと鳴る銀の鎖の代わりに、二人の間には穏やかで温かな会話の花が咲き乱れていた。
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