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第11話「風哭きの谷にて──現れる黒い影」
しおりを挟む戦いを終えた直後にもかかわらず、ラシェルの街は変わらず賑わっていた。
しかし、その喧噪の奥に、確かに“何か”が潜んでいる。
誰もがそれに気づかず、ただ今日を生きている。
──だが、ライゼンだけは違った。
「……やはり来たか」
ギルドの一室。壁にもたれかかったまま、彼は虚空を見つめていた。
影の刺客。あの動き、手法、そして“自壊”という徹底した機密保持。
間違いない。奴は──ヴァルメルの“上層”とつながっている。
「なに考えてんのー? 難しい顔してる!」
突然ドアが勢いよく開いた。
元気な声とともに飛び込んできたのはリィナ。
その後ろには、少し遅れてセリアとルークが続いていた。
「また悩んでるのか。お前って、ほんとに四六時中そんな感じだよな」
「……悪いが、俺には“気楽”という概念が存在しない」
「それは……うん、らしいね……」
リィナが苦笑しつつ、持ってきたカゴを差し出した。
「ほら、今日のパン屋の新作! ジャム入りのやつ! 食べてみて?」
「……俺に“糖分”は必要ない」
「だーかーらっ、違うってば! これは“気持ち”の問題でしょ?!」
机にドンッと置かれたパン。リィナは満面の笑みを浮かべた。
「たしかに、身体に必要ないかもしれないけど……でも、ちょっとくらいさ? 美味しいもの食べて、笑って、なんか……そういうのって、だいじだよ」
ライゼンは無言でその言葉を受け止めた。
その“当たり前”が、どれほど遠いものだったか。
彼の過ごした大陸では──人が生きる意味は、戦うために存在していた。
「……お前たちは、どうして“他人”にそこまで優しくできる」
思わず零れた本音に、三人の表情が変わる。
「だってさ、私たち、仲間でしょ?」
リィナの言葉は、迷いも飾り気もない。
まっすぐで、真っ白だった。
ライゼンは言葉を返さなかったが、ふと、机の上のパンをひとつ手に取る。
リィナはその様子を見て、小さくガッツポーズを取った。
「──さて、冗談はここまでだ」
ルークが声を整えて口を開く。
「今日、ギルドから新しい依頼が来てる。内容は……“消えた商隊の護衛路の調査”」
「また商隊……」
セリアが腕を組んだ。
「この前の襲撃と、似てるわね」
「ああ。しかも今回消えたのは、“軍の下請け”の輸送部隊だ。単なる山賊の類ではないと判断された」
報告書を広げ、ルークは地図を指差す。
「現場は、ラシェルの東にある“風哭きの谷”。魔物の出現頻度が高く、地形も複雑。だが、それ以上に──」
「……地の“遮蔽性”が高い。風の音と岩の反響で、接近者の察知が困難な地形」
ライゼンが地図を一瞥し、補足する。
「よく知ってるな?」
「……戦場に向いた土地は、覚えている」
その言葉に、ルークは息を飲んだ。
“戦場に向いた土地”──普通の冒険者がそんな尺度で地形を見ない。
だが、彼は“違う”。
「ならば……今回は、お前の知識に頼らせてもらう。いいか、ライゼン」
「ああ。俺にとっては、むしろ“いつも通り”だ」
そう言って、彼は立ち上がる。
その動作に、少しだけ“柔らかさ”が混じっていたのを、三人は見逃さなかった。
「──じゃあ、決まりだね!」
リィナが拳を掲げる。
「今回も、全員で生きて帰るよっ!」
「ええ、もちろんよ」
「無茶はするなよ。……って、お前には言っても意味ないか」
ルークの苦笑に、ライゼンはわずかに口元を動かした。
笑った、のか──は、分からない。
だが確かに、その瞳はわずかに和らいでいた。
◇ ◇ ◇
朝焼けが岩肌を朱に染める頃、ライゼンたちは“風哭きの谷”の入り口に到着していた。
切り立った崖、風に鳴く岩の音。
まるで誰かが泣いているかのような、不気味な音が常に耳を打つ。
「ここが……風哭きの谷……」
リィナが声をひそめた。
「うっすら霧も出てる。視界が悪いわね」
セリアが目を細める。霧は薄く、しかしじわじわと足元から染み上がるように広がっていた。
「ここで何かに襲われても、おかしくない……」
ルークの言葉に、ライゼンはすでに崖壁の構造を確認していた。
「斜面の岩盤は脆く、踏み込めば落石。音も吸われる構造だ。……奇襲には絶好の地形だな」
「さすがライゼン……」
「……“守護者”の仕事は、いつもこういうところで始まる」
言葉は冷たく響いたが、そこにはどこか“慣れ”がにじんでいた。
ここは、ライゼンにとって“居場所”だったのだ。
歩き出す一行。足音さえも、霧と風にかき消される。
沈黙が続いたそのとき――
ギィィッ――
岩の隙間から、鋭く擦れるような音が響いた。
「何か来る……!」
ルークが剣に手をかけた瞬間、地面が割れた。
飛び出したのは、黒い鱗をまとった獣。
蛇のようにしなる長い胴、鋭い爪を持つ四肢。目は赤く、灼けたように輝いている。
「“牙喰い”ッ……!?」
セリアが叫んだ。
それはこの地方でも極めて危険とされる魔獣。通常、複数で群れをなして動く。
だが現れたのは一体のみ。……ということは──
「囮か……!」
ライゼンが即座に剣を抜いた。
カンッ!
一閃。
黒い血が宙に舞う。まるでその動作が、もともと空間に仕込まれていたかのように自然だった。
リィナが矢をつがえ、ルークが飛び込む。
「背後に気配ッ!」
セリアが叫ぶ。霧の奥から、さらに二体の牙喰いが現れた。
「リィナ、後退!」
「うんっ!」
リィナが距離を取りつつ、矢を放つ。
ピシィッ!
矢は一体の脚部を貫き、バランスを崩させる。
「ルーク、右!」
「了解ッ!」
ルークの剣が一閃。続けてセリアの詠唱が走る。
「──“雷鎖の檻《ライグラトル》”!」
紫電が奔り、牙喰いの動きを封じる。
ライゼンは前方の牙喰いに向き直り、地面の起伏を確認した。
「……裂け目を利用する」
彼は霧の中を駆け、岩を蹴り、崖の端へ誘導する。
獣が吠えた。
だが、その瞬間にはすでに“罠”は完成していた。
ズガァッッ!
足場の崩落。牙喰いは重みに負けて崖下へ転落した。
「……一体排除。残りは任せた」
「こっちは、もうすぐ!」
セリアとルークの連携で、残る二体も無事撃破された。
静寂が戻る。だが、風の鳴き声はやまない。
「強かったね……この間の奴らよりも」
「ええ。でも何より……」
セリアが足元の死骸を見て眉をひそめた。
「……おかしいわ。この牙喰い、飼われてた痕跡がある」
首の裏、うっすらと鉄の輪の跡。
「……誰かが意図的に、ここへ放った?」
ルークが呟いた。
「ありえる」
ライゼンが即答する。
「“戦場を選ばない”連中は、こうして環境そのものを変えてくる。……この先も同じだろう」
その視線の先。
霧の中、崖上の影がわずかに揺れた。
それは人影のようで、しかしすぐに風にまぎれて消える。
「見られていた?」
「可能性は高い。戻るぞ……ギルドに報告を」
ライゼンは歩き出す。
彼の背には、確かに“緊張”と“警戒”が残っていた。
それを見て、リィナがぽつりと漏らす。
「……ねえ、ライゼン」
「なんだ」
「やっぱり、あんたって――怖いくらい頼りになるよ」
ライゼンが言葉を返す事は無かった。
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