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第16話「腐れ谷へ――誘う歌と偽りの神」
しおりを挟む朝露が地面を濡らし、霧が立ちこめる森の中――。
腐れ谷への道は、既に“それ”の気配に満ちていた。空気が湿り、木々の葉は不自然に黒ずんでいる。小鳥のさえずりも獣の咆哮もない。ただ、時折、風に混じって――
――ふふ、ふふふ……
不気味な“歌声”が聞こえてくる。
「これ……ほんとに歌ってる……?」
リィナが弓を構えながら、ぎゅっと肩をすぼめた。
「音の方向が定まらない……幻惑かしら」
セリアが低く言う。
「風を使った誘導型の魔法だろう。索敵を狂わせる手合いだ」
ライゼンは森の地形を目でなぞる。
地図には記されていない獣道、踏み固められた足跡、そして――足跡の“消えた”場所。
「……この位置だ。敵は谷の窪地を陣にしている」
彼が地図の一点を指差す。
「どうして分かる?」
ルークが問うと、ライゼンは枝を拾い、土に線を引いた。
「森の獣道が“すり鉢状”にここへ集まっている。さらに空気の流れ、湿度、虫の飛び方……全てが“吸い寄せられて”いる。自然ではありえない現象だ」
「す、凄い……!」とリィナが小さく呟いたが、ライゼンは既に背を向けていた。
「移動する。奇襲を仕掛けるぞ」
腐れ谷の奥――そこには“それ”が待っている。
◇ ◇ ◇
数十分後。
腐れ谷、中心部。
地面はぬかるみ、木々は骨のように白く枯れ、腐臭とともに“それ”はいた。
それは人の姿をしていた。
黒衣をまとい、顔をフードで隠した“人間のような何か”。
ただし、その周囲に立ち尽くす数体の“人皮のような抜け殻”が、彼の正体を語っていた。
「……来たか。新しい生贄たちよ」
その声は、男のようで女のようでもあった。
セリアが息を呑む。
「こいつ……生きたまま、魂だけを喰らう“霊喰い”よ……!聞いた事しか無かったけど……っ」
「は? そ、それってヤバいヤツじゃん……!」
リィナが目を見開く。
「無形魔術。攻撃が通りにくい上、術で支配した空間内で自分だけに有利な“式”を構築している……下手すれば全滅するわ」
だが――
ライゼンは微動だにしなかった。
「分析完了。敵は“式”を常に自動で維持している。すなわち、エネルギーを絶えず消費している状態だ。切れ目はある」
「そんなこと、どうやって――」
「聞け。俺が斬り込む。セリア、お前は魔力干渉を。リィナは援護射撃、ルークは背後の残骸に注意しろ。あれは起動する」
全員の顔が一瞬で引き締まる。
ライゼンの言葉は、命令ではなかった。だが“従うしかない”と思わせる確信があった。
「来るぞ!」
霊喰いが腕を広げる。
風が巻き、地面が震え、“抜け殻”が立ち上がる。
その瞬間――
ライゼンの足が、風のように動いた。
「“氷結陣”――」
霊喰いが術式を唱えようとするより早く、ライゼンの刃が踏み込む。
一歩。さらに一歩。
“風”が舞い、無形の壁が張り巡らされていく。だが――
「……“風の流れ”で、空間の歪みは見える」
ライゼンの目は、戦いの中で世界を“視ていた”。
障壁の隙間――そこに刃を滑り込ませる。
「ぐ、ああっ!」
霊喰いの左腕が吹き飛ぶ。
「セリア!」
「よし!行けるわっ!“重力歪曲”!」
空間がひしゃげ、霊喰いの脚が地面に叩きつけられる。
そこに、リィナの矢が一直線に飛ぶ――
「“閃光矢!”」
爆ぜる光に視界を焼かれ、霊喰いが叫ぶ。
その一瞬。
ライゼンは跳んでいた。
刃が弧を描き、敵の胸元へ――
だが――
「……惜しかったな。“仮初の体”に過ぎんよ」
霊喰いの身体が、黒い霧となって崩れる。
「逃げ……た?」
ルークが剣を構えたまま、辺りを警戒する。
ライゼンは、一言だけ呟いた。
「“本体”は別にいる……。これは誘いだ」
◇ ◇ ◇
腐れ谷の異変は収束し、村人たちは少しずつ戻ってきた。
だが、ライゼンは知っていた。
これは、始まりに過ぎない。
“知性を持つ魔”――魔導士の影が、今この世界にも根を張り始めているのだ。
「この世界でも、やはり“滅び”は近いのかもしれない」
呟くように言ったライゼンの背で、仲間たちの声が重なる。
「それでも、私たちは守るわ」
「うん! 一緒にやっていこうよ、ライゼン!」
「お前がいるなら、俺も戦える」
その言葉に、ライゼンはふと――
ヴァルメルでは得られなかった、“何か”を感じていた。
暖かい何かを。
◇ ◇ ◇
霊喰いを退け、帰還した翌日、ラシェルの空は雲一つない晴天だった。ギルドの広間には、昨日の戦いを報告するために集まったリィナたちの声が響いている。
「──それで、例の黒い魔物……依頼したのは俺ではない為詳細まで詳しくは知らないが……結局今回も倒したのはライゼンだったのか」
ギルドのカウンターで報告を受ける受け付けの男・ハイルは、目を細めてリィナたちに問いかけた。
「うん。ライゼンが……ほとんど全部やっちゃった。わたしたち、命令してもらうばっかりで」
リィナはしょんぼりと肩を落としながら答える。横にいたルークとセリアも、無言のまま深く頷いた。
「……とはいえ、ライゼンもお前ら3人が邪魔だと思っているならこうして共に行動はしていないだろう。」
ハイルの声はいつになく柔らかい。だが、その奥にはなにかを測るような視線が宿っていた。
一方、ギルドの片隅――壁際の椅子に腰掛けていたライゼンは、無言のまま外を見つめていた。窓の向こう、まばゆい陽射しの下で子供たちが笑いながら走り回っている。
(……俺には、無縁の光景だ)
思考はどこか遠く、だが決して情緒に沈むことはない。ただ、心のどこかで何かが変わってきていることを、彼自身が薄々感じていた。
「──ライゼン?」
セリアがそっと近づく。リィナとルークもその後ろから歩いてくる。
彼女の手には、一冊の古びた本が握られていた。
「ギルドが回収した、あの霊喰いの遺骸のそばに落ちていたの。あなた、これ……見覚えない?」
ライゼンは黙って本を受け取る。
装丁は黒。背表紙には文字らしきものが刻まれているが、見慣れぬ文体で判読できない。だが――手に取った瞬間、彼の脳裏に閃光が走った。
──闇。燃える城。叫び声。
──断片的な記憶。見たことのない風景。聞いたことのある声。
──そして、赤き瞳を持つ“何か”がこちらを見下ろしている。
「っ……!」
無意識に本を落としそうになり、ライゼンは手を握り直した。
「なにか、見えたの?」
リィナが心配そうに覗き込む。だがライゼンは、ゆっくりと首を横に振った。
「……違う。まだ、断片だ。ただ……これは、俺に関係がある」
その瞳には、いつになく深い闇が宿っていた。
「これ、読める言語じゃない……けど、魔力に反応してるみたい。もしかして、あの魔物が使ってた“魔導”の源……?」
セリアの推測に、ライゼンは目を細めた。
(魔導……やはり、この大陸では“魔法”という概念が支配している。だが、俺のいたヴァルメルには……そんなものはなかったはずだ)
「……この本、預かっていいか?」
「もちろん。でも、気をつけて。中には“触れてはならない知識”もあるって言われてるの」
「ああ。もし……過去の何かに触れるなら、それもまた前に進む手がかりになる」
ライゼンの言葉に、ルークは黙って頷いた。
「お前が言うなら、それでいい。だが、危険を感じたらすぐ言え。お前ひとりが背負う話じゃない」
「……ふっ、そうだな」
薄く笑ったその顔に、リィナたちは驚く。ライゼンが誰かの言葉に笑みを見せたのは、これが初めてだった。
「じゃあ、今日の依頼はどうする? また俺たち三人で受けとこうか?」
ルークの提案に、ライゼンは首を横に振る。
「いや、俺も行く。頭を冷やすには……戦いが一番だ」
「そっか! じゃあ、みんなで行こうよ!」
リィナの笑顔が弾けた。
この日、ライゼンたちは新たな依頼――“失われた聖堂の調査”へと向かうことになる。
だがその聖堂には、彼の記憶の断片に深く関わる“禁じられた魔導”が眠っていた。
そしてそれは、ヴァルメルとエルディアを繋ぐ“もう一つの真実”への扉でもあった。
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