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王宮の廊下を歩く宰相の足取りは、いつになく重いものでした。
かつては磨き抜かれていた大理石の床は、今や埃を被り、窓際に飾られていた高価な花瓶は空っぽのまま放置されています。
「……宰相! これはいったいどういうことだ! わたくしの部屋の魔導式冷房が動かないのだけれど!」
廊下の向こうから、マリアンヌ様が扇子を振り回しながら走ってきました。
その後ろには、疲れ切った顔のアルフォンス殿下が続いています。
「マリアンヌ様、落ち着いてください。冷房を動かすための魔力石の在庫が尽きたのです。現在は、リディア様がかつて私財で寄付してくださった『余剰分』で城内の最低限の明かりを灯している状態でして」
「私財? リディア様が? そんなの、王室の予算で買えばいいじゃない!」
マリアンヌ様が叫びますが、宰相は深くため息をついて、一通の分厚い請求書を差し出しました。
「それができないから困っているのです。リディア様は、公爵令嬢としてだけではなく、大陸最大の商会の実質的なオーナーでもありました。彼女が手を引いたことで、すべての物資の価格が三倍に跳ね上がり、王室割引も廃止されました」
「三倍!? そんなの横暴だわ!」
「いいえ、適正価格です。今まではリディア様が『婚約者への愛着』という名の赤字決済で、すべてを補填していたに過ぎません」
アルフォンス殿下は、額に青筋を浮かべて割り込みました。
「ふん、愛着だと? あんな可愛げのない女、私への義務感でやっていたに決まっている! おい、その商会に命じろ。王太子である私の命令だ、すぐに物資を納入せよとな!」
「……殿下。その『命令』を届けるための伝書鳥の餌代すら、今の王室にはございません」
「…………は?」
殿下は間抜けな声を漏らしました。
さらに追い打ちをかけるように、城の外から騒がしい怒号が聞こえてきました。
「なんだ、あの騒ぎは!?」
「騎士団の面々です。彼らの装備のメンテナンス費用と、食堂の肉料理が昨日からカットされたことに対する抗議活動かと。リディア様は、騎士たちの福利厚生にも多額の寄付をなさっていましたから」
「あいつも、こいつも、リディア、リディアと……! あの女がいないと、この国は掃除一つ満足にできないというのか!」
「左様でございます。現に、清掃ギルドへの支払いが滞ったため、メイドたちの半分が『リディア様の新しい別邸』に引き抜かれていきました」
その報告を聞いた瞬間、マリアンヌ様が「ひっ」と短い悲鳴を上げました。
「ちょっと待って! じゃあ、私のドレスの洗濯は誰がするの!? 明日の夜会の準備は!?」
「夜会? そんな予算、今の王宮のどこにあるとお思いで?」
宰相の冷ややかな視線に、マリアンヌ様は絶句しました。
一方、その頃。
グランヴェル帝国の「飛び地」となった別邸では、わたくしリディアが、元王宮専属のメイドたちが淹れてくれた最高級のハーブティーを楽しんでおりました。
「……まあ、皆さん。こちらに来てくださったのね。お給料は以前の二倍、休日は三倍用意しておりますわよ」
わたくしが微笑むと、メイドたちは感涙にむせびながら跪きました。
「リディア様! あんな真っ暗で食事も出ない泥船のような王宮、二度と戻りたくありませんわ!」
「うふふ、歓迎いたしますわ。さて、サイラス様。王宮がそろそろ限界のようですけれど、次の一手はどういたします?」
わたくしの隣で、当然のようにわたくしの髪を指で弄んでいる皇帝陛下は、不敵に口角を上げました。
「決まっている。飢えた民衆と騎士たちが、あの王子を城から引きずり出すのを待つだけだ。……リディア、お前を泣かせた代償は、国一つでは足りないと思え」
「……泣いてなどおりませんけれど。むしろ、清々しておりますわ」
断罪されてたからって、国が滅びそうになっているのはわたくしのせいではありませんわよね?
だってわたくし、ただ「出て行け」と言われた通りに、自分の持ち物をまとめて出てきただけですもの。
かつては磨き抜かれていた大理石の床は、今や埃を被り、窓際に飾られていた高価な花瓶は空っぽのまま放置されています。
「……宰相! これはいったいどういうことだ! わたくしの部屋の魔導式冷房が動かないのだけれど!」
廊下の向こうから、マリアンヌ様が扇子を振り回しながら走ってきました。
その後ろには、疲れ切った顔のアルフォンス殿下が続いています。
「マリアンヌ様、落ち着いてください。冷房を動かすための魔力石の在庫が尽きたのです。現在は、リディア様がかつて私財で寄付してくださった『余剰分』で城内の最低限の明かりを灯している状態でして」
「私財? リディア様が? そんなの、王室の予算で買えばいいじゃない!」
マリアンヌ様が叫びますが、宰相は深くため息をついて、一通の分厚い請求書を差し出しました。
「それができないから困っているのです。リディア様は、公爵令嬢としてだけではなく、大陸最大の商会の実質的なオーナーでもありました。彼女が手を引いたことで、すべての物資の価格が三倍に跳ね上がり、王室割引も廃止されました」
「三倍!? そんなの横暴だわ!」
「いいえ、適正価格です。今まではリディア様が『婚約者への愛着』という名の赤字決済で、すべてを補填していたに過ぎません」
アルフォンス殿下は、額に青筋を浮かべて割り込みました。
「ふん、愛着だと? あんな可愛げのない女、私への義務感でやっていたに決まっている! おい、その商会に命じろ。王太子である私の命令だ、すぐに物資を納入せよとな!」
「……殿下。その『命令』を届けるための伝書鳥の餌代すら、今の王室にはございません」
「…………は?」
殿下は間抜けな声を漏らしました。
さらに追い打ちをかけるように、城の外から騒がしい怒号が聞こえてきました。
「なんだ、あの騒ぎは!?」
「騎士団の面々です。彼らの装備のメンテナンス費用と、食堂の肉料理が昨日からカットされたことに対する抗議活動かと。リディア様は、騎士たちの福利厚生にも多額の寄付をなさっていましたから」
「あいつも、こいつも、リディア、リディアと……! あの女がいないと、この国は掃除一つ満足にできないというのか!」
「左様でございます。現に、清掃ギルドへの支払いが滞ったため、メイドたちの半分が『リディア様の新しい別邸』に引き抜かれていきました」
その報告を聞いた瞬間、マリアンヌ様が「ひっ」と短い悲鳴を上げました。
「ちょっと待って! じゃあ、私のドレスの洗濯は誰がするの!? 明日の夜会の準備は!?」
「夜会? そんな予算、今の王宮のどこにあるとお思いで?」
宰相の冷ややかな視線に、マリアンヌ様は絶句しました。
一方、その頃。
グランヴェル帝国の「飛び地」となった別邸では、わたくしリディアが、元王宮専属のメイドたちが淹れてくれた最高級のハーブティーを楽しんでおりました。
「……まあ、皆さん。こちらに来てくださったのね。お給料は以前の二倍、休日は三倍用意しておりますわよ」
わたくしが微笑むと、メイドたちは感涙にむせびながら跪きました。
「リディア様! あんな真っ暗で食事も出ない泥船のような王宮、二度と戻りたくありませんわ!」
「うふふ、歓迎いたしますわ。さて、サイラス様。王宮がそろそろ限界のようですけれど、次の一手はどういたします?」
わたくしの隣で、当然のようにわたくしの髪を指で弄んでいる皇帝陛下は、不敵に口角を上げました。
「決まっている。飢えた民衆と騎士たちが、あの王子を城から引きずり出すのを待つだけだ。……リディア、お前を泣かせた代償は、国一つでは足りないと思え」
「……泣いてなどおりませんけれど。むしろ、清々しておりますわ」
断罪されてたからって、国が滅びそうになっているのはわたくしのせいではありませんわよね?
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