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支度部屋の空気は、まるで凍りついていた。
目の前に掲げられた、ドレスとは名ばかりの悪意の塊。それを前に、イヴはただ立ち尽くすことしかできなかった。侍女たちの同情的な視線が、かえって彼女の心を深く抉る。
「ヴェルディア様……」
年配の侍女が、そっと彼女の肩に手を置いた。その手は慰めるように優しかったが、かすかに震えている。この状況をどうすることもできない無力さが、その震えから伝わってきた。
「こ、こんなもの……お召しになる必要はございません!私が殿下に事情を……!」
若い侍女が憤然として声を上げるが、衣装係の女官は冷たく言い放った。
「ハーデス殿下は、すでに夜会の会場でお待ちです。今からこちらの一件をご報告に上がっても、間に合いはいたしません。ヴェルディア様が遅れれば、それはそれで妃殿下としての面目が立たないのでは?」
正論のようで、どこまでも歪んだ理屈だった。主催者である王太子の婚約者が、理由もなく夜会に遅参するなど許されるはずがない。セリーナが仕組んだこの罠は、イヴがどう転んでも恥をかくように、巧妙に張り巡らされていたのだ。
「……分かりました」
長い沈黙の後、イヴはか細い声でそう答えた。
「これを、着ます」
「ヴェルディア様!?」
侍女たちの悲鳴に近い声が上がる。しかし、イヴの決意は固かった。ここで逃げ出せば、ハーデスに更なる迷惑をかけてしまう。それだけは避けたかった。たとえどれほどの屈辱を味わうことになろうとも、彼から与えられた「婚約者」という立場を、自ら汚すわけにはいかない。
涙をこらえ、心を無にすることで、イヴはかろうじて正気を保っていた。
着付けは、拷問に等しかった。肌を撫でる冷たい革の感触。必要以上に晒される素肌。鏡に映る自分の姿は、まるで高級娼婦のようで、吐き気がした。侍女たちは皆、イヴの支度を手伝っている。その誰もが、この仕打ちを画策したであろう人物に、静かな怒りを燃やしていた。
支度が終わる頃、部屋の扉がノックされた。
「イヴ、私だ。準備はできたか?」
ハーデスの声だった。甘く、弾むようなその声色から、彼が今日の夜会をどれほど楽しみにしているかが伝わってくる。その期待が、今のイヴには何よりも辛かった。こんな醜態を、愛しい人に見せなければならない。その事実が、彼女の心を粉々に打ち砕いた。
「……はい、殿下。今、開けます」
侍女に目配せをし、扉を開けるように促す。ギィ、と重い音を立てて扉が開かれた先に、満面の笑みをたたえたハーデスが立っていた。彼はきっと、自分が選んだ美しいドレスに身を包んだイヴを想像して、迎えに来てくれたのだろう。
「イヴ、待た……」
ハーデスの言葉が、途中で途切れた。
彼の空色の瞳が、イヴの姿を捉えた瞬間、大きく見開かれる。楽しげな光を宿していたその瞳は、瞬く間に驚愕に、そして次の瞬間には燃え盛るような怒りの炎に染まった。部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「……それは、どういうことだ」
地を這うような低い声が、部屋に響き渡った。その場にいた誰もが、王太子の激しい怒気に身を縮ませる。
イヴは俯いたまま、震える体をどうすることもできない。ハーデスの視線が、晒された肌の一つ一つを焼くように感じられた。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、今すぐにでもこの場から消え去ってしまいたい。
ハーデスは数歩で部屋に入ると、すぐさま自分が羽織っていた豪奢なマントを脱ぎ、イヴの体を乱暴なほど優しく包み込んだ。彼の体温と、いつも心を安らげてくれる香りが、イヴの凍りついた心をわずかに溶かす。
「誰だ。誰がこんなものを、お前に着せた」
問いかけに答える者はいない。ハーデスは舌打ちを一つすると、マントの上からイヴを強く抱きしめた。
「……殿下、申し訳、ありません……」
「お前が謝ることではない」
ハーデスはそう言うと、イヴの耳元で囁いた。その声には、怒りとは別の、熱っぽい響きが混じっていた。
「……不覚にも、似合っていると思ってしまった」
「え……?」
「だが、断じて誰にも見せん。この姿は、私だけのものだ」
彼の言葉の意味を、イヴはすぐには理解できなかった。
「いいか、イヴ。今夜の夜会は中止だ。いや、参加者は私たち二人だけだ」
ハーデスはそう宣言すると、イヴの体を軽々と横抱きにした。
「私の部屋へ行く。誰にも邪魔はさせん」
燃えるような瞳で見つめられ、イヴはただ、彼の胸に顔をうずめることしかできなかった。
目の前に掲げられた、ドレスとは名ばかりの悪意の塊。それを前に、イヴはただ立ち尽くすことしかできなかった。侍女たちの同情的な視線が、かえって彼女の心を深く抉る。
「ヴェルディア様……」
年配の侍女が、そっと彼女の肩に手を置いた。その手は慰めるように優しかったが、かすかに震えている。この状況をどうすることもできない無力さが、その震えから伝わってきた。
「こ、こんなもの……お召しになる必要はございません!私が殿下に事情を……!」
若い侍女が憤然として声を上げるが、衣装係の女官は冷たく言い放った。
「ハーデス殿下は、すでに夜会の会場でお待ちです。今からこちらの一件をご報告に上がっても、間に合いはいたしません。ヴェルディア様が遅れれば、それはそれで妃殿下としての面目が立たないのでは?」
正論のようで、どこまでも歪んだ理屈だった。主催者である王太子の婚約者が、理由もなく夜会に遅参するなど許されるはずがない。セリーナが仕組んだこの罠は、イヴがどう転んでも恥をかくように、巧妙に張り巡らされていたのだ。
「……分かりました」
長い沈黙の後、イヴはか細い声でそう答えた。
「これを、着ます」
「ヴェルディア様!?」
侍女たちの悲鳴に近い声が上がる。しかし、イヴの決意は固かった。ここで逃げ出せば、ハーデスに更なる迷惑をかけてしまう。それだけは避けたかった。たとえどれほどの屈辱を味わうことになろうとも、彼から与えられた「婚約者」という立場を、自ら汚すわけにはいかない。
涙をこらえ、心を無にすることで、イヴはかろうじて正気を保っていた。
着付けは、拷問に等しかった。肌を撫でる冷たい革の感触。必要以上に晒される素肌。鏡に映る自分の姿は、まるで高級娼婦のようで、吐き気がした。侍女たちは皆、イヴの支度を手伝っている。その誰もが、この仕打ちを画策したであろう人物に、静かな怒りを燃やしていた。
支度が終わる頃、部屋の扉がノックされた。
「イヴ、私だ。準備はできたか?」
ハーデスの声だった。甘く、弾むようなその声色から、彼が今日の夜会をどれほど楽しみにしているかが伝わってくる。その期待が、今のイヴには何よりも辛かった。こんな醜態を、愛しい人に見せなければならない。その事実が、彼女の心を粉々に打ち砕いた。
「……はい、殿下。今、開けます」
侍女に目配せをし、扉を開けるように促す。ギィ、と重い音を立てて扉が開かれた先に、満面の笑みをたたえたハーデスが立っていた。彼はきっと、自分が選んだ美しいドレスに身を包んだイヴを想像して、迎えに来てくれたのだろう。
「イヴ、待た……」
ハーデスの言葉が、途中で途切れた。
彼の空色の瞳が、イヴの姿を捉えた瞬間、大きく見開かれる。楽しげな光を宿していたその瞳は、瞬く間に驚愕に、そして次の瞬間には燃え盛るような怒りの炎に染まった。部屋の温度が、数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
「……それは、どういうことだ」
地を這うような低い声が、部屋に響き渡った。その場にいた誰もが、王太子の激しい怒気に身を縮ませる。
イヴは俯いたまま、震える体をどうすることもできない。ハーデスの視線が、晒された肌の一つ一つを焼くように感じられた。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、今すぐにでもこの場から消え去ってしまいたい。
ハーデスは数歩で部屋に入ると、すぐさま自分が羽織っていた豪奢なマントを脱ぎ、イヴの体を乱暴なほど優しく包み込んだ。彼の体温と、いつも心を安らげてくれる香りが、イヴの凍りついた心をわずかに溶かす。
「誰だ。誰がこんなものを、お前に着せた」
問いかけに答える者はいない。ハーデスは舌打ちを一つすると、マントの上からイヴを強く抱きしめた。
「……殿下、申し訳、ありません……」
「お前が謝ることではない」
ハーデスはそう言うと、イヴの耳元で囁いた。その声には、怒りとは別の、熱っぽい響きが混じっていた。
「……不覚にも、似合っていると思ってしまった」
「え……?」
「だが、断じて誰にも見せん。この姿は、私だけのものだ」
彼の言葉の意味を、イヴはすぐには理解できなかった。
「いいか、イヴ。今夜の夜会は中止だ。いや、参加者は私たち二人だけだ」
ハーデスはそう宣言すると、イヴの体を軽々と横抱きにした。
「私の部屋へ行く。誰にも邪魔はさせん」
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