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王都アステリアの空気は、春の陽光に解かされた甘ったるい香水の匂いで満ちていた。
一見すれば、それは平和という名の果実が熟れ落ちたような、幸福な情景に見える。
しかし、その果実の芯には、確実に腐敗の種が宿り始めていた。
「ああ、リュシアン様。見てくださいませ。民たちが、あんなにも幸せそうにパンを分け合っておりますわ」
王城の庭園で、クロエは可憐に、あまりに無邪気に微笑んだ。
彼女の指先が示す先では、聖女の「慈悲」という名の施しに群がる人々が、列をなしている。
しかし、そのパンの代価がどこから捻出されているのかを、彼女は決して語らない。
「君の美徳が、この国を救っているのだよ、クロエ。兄上のような冷酷な支配者が去り、ようやくアステリアに真の春が来たのだ」
リュシアンは、心酔しきった瞳で彼女を見つめた。
彼の脳内にある正義は、おそらく絵本のように色彩豊かで、そして驚くほど平面的であった。
「……失礼いたします。リュシアン殿下、緊急のご報告が」
そこへ、一人の騎士が足早に近づき、膝をついた。
その顔には、隠しきれない困惑と、微かな恐怖の色が混じっている。
「騒々しいぞ。クロエとのティータイムを邪魔するとは、どのような不敬か」
「はっ……。メテオの地へ送った監査官、バルトロメ卿が帰還いたしました。……ですが、その」
「バルトロメが? あ奴は、兄上たちの罪状を山ほど抱えて戻ってきたのだろう? 早くこちらへ通せ」
「それが……。卿は現在、精神を病んでおられ、自邸の地下室に閉じこもったまま『銀の悪魔が来る』と震え続けております。所持品も、着ていた服さえもすべて奪われ、残されていたのは一通の『請求書』のみにございます」
リュシアンの顔から、余裕という名の仮面が剥がれ落ちた。
「請求書だと? いったい、何の代金だというのだ」
「はい……。『滞在中の不快指数に対する精神的賠償金』、および『極上酒ケソミ・ヴィンテージの鑑賞料』として、王都の一年分の税収に匹敵する額が記載されておりました。送り主は、エレオノーラ嬢の名で……」
……。
沈黙が、色鮮やかな庭園を氷つかせた。
「……エレオノーラ様。相変わらず、悪戯が過ぎるようですわね」
クロエが、震える声で呟いた。
その瞳の奥には、かつてない焦燥の炎が揺らめいている。
「悪戯だと? これはもはや宣戦布告ではないか! 兄上は、あのような死に体の大地で、いったい何を企んでいるのだ!」
リュシアンは、手にしたティーカップを大理石のテーブルに叩きつけた。
上質な磁器が砕ける音は、彼らの「正義」が綻び始めた合図のようにも聞こえた。
一方、同じ時刻。
メテオの城では、私は窓辺でその不協和音を幻視していた。
「……マクシミリアン様。王都の空気が、少しずつ濁り始めておりますわよ。私が送った『招待状』、あの方は喜んでくださったかしら」
私は、手元の手帳に、新しい一行を書き加えた。
『正義という名の病は、最も残酷な治療を必要とする。』
「ふん。喜ぶも何も、あの愚か者には、請求書の数字の意味すら理解できまい。だが、それでいい」
マクシミリアン様は、私の背後からその冷たい指を私の首筋に這わせた。
「彼らが飢えれば飢えるほど、我々の持つ『毒』は薬となって世界を支配する。エレオノーラ、君の描く筋書きは、実に悪趣味で、そして胸が躍るよ」
「ついでに、私も楽しくなってまいりましたわ。……さあ、次のページを捲りましょうか」
王都の頽廃と、辺境の隆盛。
反転し始めた世界の歯車が、重く、鈍い音を立てて回り出した。
一見すれば、それは平和という名の果実が熟れ落ちたような、幸福な情景に見える。
しかし、その果実の芯には、確実に腐敗の種が宿り始めていた。
「ああ、リュシアン様。見てくださいませ。民たちが、あんなにも幸せそうにパンを分け合っておりますわ」
王城の庭園で、クロエは可憐に、あまりに無邪気に微笑んだ。
彼女の指先が示す先では、聖女の「慈悲」という名の施しに群がる人々が、列をなしている。
しかし、そのパンの代価がどこから捻出されているのかを、彼女は決して語らない。
「君の美徳が、この国を救っているのだよ、クロエ。兄上のような冷酷な支配者が去り、ようやくアステリアに真の春が来たのだ」
リュシアンは、心酔しきった瞳で彼女を見つめた。
彼の脳内にある正義は、おそらく絵本のように色彩豊かで、そして驚くほど平面的であった。
「……失礼いたします。リュシアン殿下、緊急のご報告が」
そこへ、一人の騎士が足早に近づき、膝をついた。
その顔には、隠しきれない困惑と、微かな恐怖の色が混じっている。
「騒々しいぞ。クロエとのティータイムを邪魔するとは、どのような不敬か」
「はっ……。メテオの地へ送った監査官、バルトロメ卿が帰還いたしました。……ですが、その」
「バルトロメが? あ奴は、兄上たちの罪状を山ほど抱えて戻ってきたのだろう? 早くこちらへ通せ」
「それが……。卿は現在、精神を病んでおられ、自邸の地下室に閉じこもったまま『銀の悪魔が来る』と震え続けております。所持品も、着ていた服さえもすべて奪われ、残されていたのは一通の『請求書』のみにございます」
リュシアンの顔から、余裕という名の仮面が剥がれ落ちた。
「請求書だと? いったい、何の代金だというのだ」
「はい……。『滞在中の不快指数に対する精神的賠償金』、および『極上酒ケソミ・ヴィンテージの鑑賞料』として、王都の一年分の税収に匹敵する額が記載されておりました。送り主は、エレオノーラ嬢の名で……」
……。
沈黙が、色鮮やかな庭園を氷つかせた。
「……エレオノーラ様。相変わらず、悪戯が過ぎるようですわね」
クロエが、震える声で呟いた。
その瞳の奥には、かつてない焦燥の炎が揺らめいている。
「悪戯だと? これはもはや宣戦布告ではないか! 兄上は、あのような死に体の大地で、いったい何を企んでいるのだ!」
リュシアンは、手にしたティーカップを大理石のテーブルに叩きつけた。
上質な磁器が砕ける音は、彼らの「正義」が綻び始めた合図のようにも聞こえた。
一方、同じ時刻。
メテオの城では、私は窓辺でその不協和音を幻視していた。
「……マクシミリアン様。王都の空気が、少しずつ濁り始めておりますわよ。私が送った『招待状』、あの方は喜んでくださったかしら」
私は、手元の手帳に、新しい一行を書き加えた。
『正義という名の病は、最も残酷な治療を必要とする。』
「ふん。喜ぶも何も、あの愚か者には、請求書の数字の意味すら理解できまい。だが、それでいい」
マクシミリアン様は、私の背後からその冷たい指を私の首筋に這わせた。
「彼らが飢えれば飢えるほど、我々の持つ『毒』は薬となって世界を支配する。エレオノーラ、君の描く筋書きは、実に悪趣味で、そして胸が躍るよ」
「ついでに、私も楽しくなってまいりましたわ。……さあ、次のページを捲りましょうか」
王都の頽廃と、辺境の隆盛。
反転し始めた世界の歯車が、重く、鈍い音を立てて回り出した。
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