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王都を包む夜気は、かつての湿った絶望を洗い流し、今や冷徹な知性の香りを帯びていた。
私は、改装された王城の最上階にあるバルコニーで、眼下に広がる街の灯りを見つめていた。
「……お見事ですわ、マクシミリアン様。かつて私たちに石を投げようとした民衆が、今やあなたの名を、救世主のそれよりも熱烈に、そして敬虔に囁いておりますのよ」
私は、手にした銀の杯を月光にかざした。
中にあるのは、かつて辺境で「泥水」と揶揄された、しかし今や王都で最も高価な価値を持つメテオ産の極上ワイン。
「救世主か。笑わせるな、エレオノーラ。私はただ、彼らの『喉の渇き』を利用したに過ぎない。人は腹が満たされれば、かつて自分が何を信じていたかなど、三日で忘れる生き物だ」
マクシミリアン様は、私の隣に立ち、重厚な沈黙を纏ったまま街を見下ろした。
そこへ、重い鎖の音を響かせ、最後の「断罪」を受けるべき二人の男女が引き出されてきた。
リュシアン様と、クロエ様。
かつての王都の輝きであった二人は、今や煤けた麻の服を纏い、その瞳からは希望という名の輝きが完全に失われている。
「……兄上。君の勝ちだ。この国はもう、君の……悪魔の指先一つで動く、巨大な機械になってしまった」
リュシアン様の声は、乾いた砂のように脆かった。
「機械、か。リュシアン、貴様は最後まで自分を『人間らしい温かみ』の側に置いておきたいのだな。だが、貴様の温かみが招いたのは、国全体の冷死であったことを忘れるな」
マクシミリアン様は、一度も彼らの方を振り返らない。
私の内なる文豪が、この残酷な対比を「無能な善と、有能な悪の最終審判」と綴り、冷徹な一筆を走らせている。
「……クロエ様。ついでに申し上げますが、あなたが信じていた『神』は、昨夜の時点でこちらの帳簿に記帳を済ませましたわよ。神の慈悲よりも、私たちの悪意の方が、よほど現実的(リアル)だったというわけですわ」
私は扇を閉じ、クロエ様の、泥に汚れた頬を優雅に指し示した。
「……嫌。こんなの、嘘よ……。私が愛した王都は、もっと優しくて、もっと美しかったはずなのに……!」
「優しい世界? まあ、なんて耳触りの良い、しかし中身のない言葉かしら。クロエ様、その『優しさ』の裏側で、誰が餓死し、誰が口を封じられていたか……あなたは一度でも想像したことがおあり?」
私は、彼女の目の前に一束の「嘆願書」を叩きつけた。
それは、彼女の治世下で苦しみ、声を上げられなかった民たちの、怨嗟の記録。
「これが、あなたの言う『優しい世界』の正体ですわ。ついでに言えば、これらをすべて握りつぶしていたのは、他ならぬあなたの信奉者たちでしたのよ」
「ひっ……! 嘘よ、私は、知らなかったの……!」
「『知らなかった』。それは、王族の側に立つ者にとって、最も重い罪の言葉ですわよ、聖女様」
私は、絶望に震える二人を、もはや憎しみさえなく眺めていた。
「さて、マクシミリアン様。逆転劇の幕引きですわね。……かつて私たちが受けた『ついで』の断罪。今度は私たちが、彼らに『ついで』の慈悲を与えて差し上げましょうか?」
「慈悲、だと? 君らしくないな、エレオノーラ」
「ええ。彼らに与えるのは、一生消えない『後悔』という名の慈悲ですわ。……彼らを、辺境の最も過酷な開拓地へ送るための書類、もう署名は済ませてありますの」
マクシミリアン様は、ようやく振り返り、私に冷たい微笑みを向けた。
「いいだろう。……リュシアン、クロエ。貴様らは今日から、名前を捨てろ。貴様らが愛した『正義』が通用しない場所で、ただの人間として、自らの罪を泥の中で償い続けるがいい」
「兄上……!」
「連れて行け。……二度と、日の当たる場所に出すな」
衛兵たちに引き摺られていく二人の叫びが、夜の帳に溶けていく。
恥の多い生涯の、これが最も華やかなる「終焉」。
私たちは、自分たちを「悪」と呼んだ世界を、自分たちの「悪」で救ってしまった。
それはなんと皮肉で、そしてなんと近代文学的な、救いのない救済なのでしょう。
「……さあ、マクシミリアン様。最後の一幕へ向かいましょうか。……誰も手が届かない高みで、二人だけの『地獄の完成』を誓い合うために」
「ああ。君と共に歩むなら、どんな地獄も、私には最上の劇場に見えるだろう」
私たちは、深い闇の中で、互いの手を強く握り締めた。
私は、改装された王城の最上階にあるバルコニーで、眼下に広がる街の灯りを見つめていた。
「……お見事ですわ、マクシミリアン様。かつて私たちに石を投げようとした民衆が、今やあなたの名を、救世主のそれよりも熱烈に、そして敬虔に囁いておりますのよ」
私は、手にした銀の杯を月光にかざした。
中にあるのは、かつて辺境で「泥水」と揶揄された、しかし今や王都で最も高価な価値を持つメテオ産の極上ワイン。
「救世主か。笑わせるな、エレオノーラ。私はただ、彼らの『喉の渇き』を利用したに過ぎない。人は腹が満たされれば、かつて自分が何を信じていたかなど、三日で忘れる生き物だ」
マクシミリアン様は、私の隣に立ち、重厚な沈黙を纏ったまま街を見下ろした。
そこへ、重い鎖の音を響かせ、最後の「断罪」を受けるべき二人の男女が引き出されてきた。
リュシアン様と、クロエ様。
かつての王都の輝きであった二人は、今や煤けた麻の服を纏い、その瞳からは希望という名の輝きが完全に失われている。
「……兄上。君の勝ちだ。この国はもう、君の……悪魔の指先一つで動く、巨大な機械になってしまった」
リュシアン様の声は、乾いた砂のように脆かった。
「機械、か。リュシアン、貴様は最後まで自分を『人間らしい温かみ』の側に置いておきたいのだな。だが、貴様の温かみが招いたのは、国全体の冷死であったことを忘れるな」
マクシミリアン様は、一度も彼らの方を振り返らない。
私の内なる文豪が、この残酷な対比を「無能な善と、有能な悪の最終審判」と綴り、冷徹な一筆を走らせている。
「……クロエ様。ついでに申し上げますが、あなたが信じていた『神』は、昨夜の時点でこちらの帳簿に記帳を済ませましたわよ。神の慈悲よりも、私たちの悪意の方が、よほど現実的(リアル)だったというわけですわ」
私は扇を閉じ、クロエ様の、泥に汚れた頬を優雅に指し示した。
「……嫌。こんなの、嘘よ……。私が愛した王都は、もっと優しくて、もっと美しかったはずなのに……!」
「優しい世界? まあ、なんて耳触りの良い、しかし中身のない言葉かしら。クロエ様、その『優しさ』の裏側で、誰が餓死し、誰が口を封じられていたか……あなたは一度でも想像したことがおあり?」
私は、彼女の目の前に一束の「嘆願書」を叩きつけた。
それは、彼女の治世下で苦しみ、声を上げられなかった民たちの、怨嗟の記録。
「これが、あなたの言う『優しい世界』の正体ですわ。ついでに言えば、これらをすべて握りつぶしていたのは、他ならぬあなたの信奉者たちでしたのよ」
「ひっ……! 嘘よ、私は、知らなかったの……!」
「『知らなかった』。それは、王族の側に立つ者にとって、最も重い罪の言葉ですわよ、聖女様」
私は、絶望に震える二人を、もはや憎しみさえなく眺めていた。
「さて、マクシミリアン様。逆転劇の幕引きですわね。……かつて私たちが受けた『ついで』の断罪。今度は私たちが、彼らに『ついで』の慈悲を与えて差し上げましょうか?」
「慈悲、だと? 君らしくないな、エレオノーラ」
「ええ。彼らに与えるのは、一生消えない『後悔』という名の慈悲ですわ。……彼らを、辺境の最も過酷な開拓地へ送るための書類、もう署名は済ませてありますの」
マクシミリアン様は、ようやく振り返り、私に冷たい微笑みを向けた。
「いいだろう。……リュシアン、クロエ。貴様らは今日から、名前を捨てろ。貴様らが愛した『正義』が通用しない場所で、ただの人間として、自らの罪を泥の中で償い続けるがいい」
「兄上……!」
「連れて行け。……二度と、日の当たる場所に出すな」
衛兵たちに引き摺られていく二人の叫びが、夜の帳に溶けていく。
恥の多い生涯の、これが最も華やかなる「終焉」。
私たちは、自分たちを「悪」と呼んだ世界を、自分たちの「悪」で救ってしまった。
それはなんと皮肉で、そしてなんと近代文学的な、救いのない救済なのでしょう。
「……さあ、マクシミリアン様。最後の一幕へ向かいましょうか。……誰も手が届かない高みで、二人だけの『地獄の完成』を誓い合うために」
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