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7.僕の大切な人
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僕には大切な人がいた。一流企業に勤めている若いキャリアウーマンで、書類のチェックから部下の管理まですべてを怠らない完璧な人だった。ただ、人付き合いは苦手だなと本人は言っていた。
僕はといえば普通のタクシー運転手で、彼女と出会ったのも、客として僕のタクシーに乗って来たからだ。仕事柄、いろいろな人と話す機会が多く―そうじゃないと気まずくなってしまう―あの日もそのつもりで彼女と雑談を交わしていた。
「お仕事って何やってらっしゃるんですか。」
「横田自動車だけど。」
「ええっ。一流企業じゃないですか。」
「まあね。」
彼女は曖昧な肯定を返した。エリートというのは、自分ではすごさがわからないものなのだろうか。
「でも、そういうの別に興味ないし。」
「そうですか。」
赤信号で車両を止め、窓の外から景色を眺める。さっきまで降っていた雨がやんで、フロントガラスに付いた水滴が赤く照らされていた。
不意に、後部座席の方で携帯が鳴った。彼女は鞄から携帯を取り出し、付いていた何かのストラップがしゃらんと揺れた。
「村井課長! 私の出した書類にミスがあったらしくて。製作側からクレームが!」
電話の相手は相当動揺しているようで、前置きも忘れてまくし立て始めた。
「落ち着きなさい。確かあなたの出したのは新しい自動車の広告冊子だったわよね。」
驚いた。部下の仕事まで記憶しているらしい。
「はい。もう、二百枚ほど製作しているらしいんです。」
「わかったわ。すぐに代わりのものを用意して、差し替えなさい。提供会社には遅れますとの謝罪を。」
「わかりました。ありがとうございます!」
部下も彼女の冷静な対応に理性を取り戻したらしく、はきはきとしている。
「ええ。また何か問題があったら、随時私に伝えるように。」
その後何回かやりとりを交わし、彼女は電話を切った。はあっと長いため息をつく。濃密な疲労感が車内に広がった。
青信号に変わり、車を走らせる。それにあわせて、水滴も緑色に変化した。
「部下に信頼されてるんですね…。」
あまりそういう経験のない自分にとって、羨ましいことだったのでついそう漏らした。
「仕事ができるから頼られているってだけよ。どうせ失敗したら、また私から離れていく。」
「またって、前にもそういうことがあったんですか?」
「……ええ。私、大学受験に失敗したの。」
そう言って彼女は、静かな声で語り始めた。
自分は成績が良くて、難関大学への合格が親や教師から期待されていたこと。でも受験当日、熱を出してしまい無理矢理受験したが、受からなかったこと。その後、周りの人達から気持ち悪いほどに優しくされたこと。いろいろ話してくれた。
「みんな、期待してたくせにね、『大学なんて関係ない』とか言っちゃってね。で、二週間ぐらいしたら、涼しい顔で離れてくのよ。馬鹿みたい。まあ、その後就職がんばって一流企業入ったんだけど。ほんと、ざまあみろって感じ。」
気にしていない風に装っていたが、街灯に照らされた顔はわずかに昔の記憶から癒えきっていないような。
結局のところ、彼女に居場所はないらしい。自宅に戻っても独りパソコンに向かうだけだと独り言のようにぼやいている。
「言いたいことがあったら、いつでも僕に愚痴っちゃってください。人間、行き場のない言葉ばかり吐いていると、おかしくなっちゃいますよ。」
思い切ってそう口にしてみた。何もわかってないくせに偉そうな、と思われるかもしれないが、第三者だからこそできることってあるような気がする。―それに、彼女の儚げで今にも泣き出しそうなのをこらえている表情に、守ってあげたくなるような庇護欲というものを感じてしまった。
―少し、間があった。都会の雑踏が絶え間なく流れている。
「……ありがとう。誰にも言えなかったから。」
今度はちゃんと、僕に向けられた言葉だった。
僕はといえば普通のタクシー運転手で、彼女と出会ったのも、客として僕のタクシーに乗って来たからだ。仕事柄、いろいろな人と話す機会が多く―そうじゃないと気まずくなってしまう―あの日もそのつもりで彼女と雑談を交わしていた。
「お仕事って何やってらっしゃるんですか。」
「横田自動車だけど。」
「ええっ。一流企業じゃないですか。」
「まあね。」
彼女は曖昧な肯定を返した。エリートというのは、自分ではすごさがわからないものなのだろうか。
「でも、そういうの別に興味ないし。」
「そうですか。」
赤信号で車両を止め、窓の外から景色を眺める。さっきまで降っていた雨がやんで、フロントガラスに付いた水滴が赤く照らされていた。
不意に、後部座席の方で携帯が鳴った。彼女は鞄から携帯を取り出し、付いていた何かのストラップがしゃらんと揺れた。
「村井課長! 私の出した書類にミスがあったらしくて。製作側からクレームが!」
電話の相手は相当動揺しているようで、前置きも忘れてまくし立て始めた。
「落ち着きなさい。確かあなたの出したのは新しい自動車の広告冊子だったわよね。」
驚いた。部下の仕事まで記憶しているらしい。
「はい。もう、二百枚ほど製作しているらしいんです。」
「わかったわ。すぐに代わりのものを用意して、差し替えなさい。提供会社には遅れますとの謝罪を。」
「わかりました。ありがとうございます!」
部下も彼女の冷静な対応に理性を取り戻したらしく、はきはきとしている。
「ええ。また何か問題があったら、随時私に伝えるように。」
その後何回かやりとりを交わし、彼女は電話を切った。はあっと長いため息をつく。濃密な疲労感が車内に広がった。
青信号に変わり、車を走らせる。それにあわせて、水滴も緑色に変化した。
「部下に信頼されてるんですね…。」
あまりそういう経験のない自分にとって、羨ましいことだったのでついそう漏らした。
「仕事ができるから頼られているってだけよ。どうせ失敗したら、また私から離れていく。」
「またって、前にもそういうことがあったんですか?」
「……ええ。私、大学受験に失敗したの。」
そう言って彼女は、静かな声で語り始めた。
自分は成績が良くて、難関大学への合格が親や教師から期待されていたこと。でも受験当日、熱を出してしまい無理矢理受験したが、受からなかったこと。その後、周りの人達から気持ち悪いほどに優しくされたこと。いろいろ話してくれた。
「みんな、期待してたくせにね、『大学なんて関係ない』とか言っちゃってね。で、二週間ぐらいしたら、涼しい顔で離れてくのよ。馬鹿みたい。まあ、その後就職がんばって一流企業入ったんだけど。ほんと、ざまあみろって感じ。」
気にしていない風に装っていたが、街灯に照らされた顔はわずかに昔の記憶から癒えきっていないような。
結局のところ、彼女に居場所はないらしい。自宅に戻っても独りパソコンに向かうだけだと独り言のようにぼやいている。
「言いたいことがあったら、いつでも僕に愚痴っちゃってください。人間、行き場のない言葉ばかり吐いていると、おかしくなっちゃいますよ。」
思い切ってそう口にしてみた。何もわかってないくせに偉そうな、と思われるかもしれないが、第三者だからこそできることってあるような気がする。―それに、彼女の儚げで今にも泣き出しそうなのをこらえている表情に、守ってあげたくなるような庇護欲というものを感じてしまった。
―少し、間があった。都会の雑踏が絶え間なく流れている。
「……ありがとう。誰にも言えなかったから。」
今度はちゃんと、僕に向けられた言葉だった。
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