メサイア

渡邉 幻月

文字の大きさ
上 下
19 / 44

彼の者の名

しおりを挟む
「えっ?」
カインは今度こそ、驚いた。
メサイア本部に着いてから色々なことが分かったが、それらは驚きと同時に負の感情も芽生えた。
だが、今度の言葉は。
「待って、だって、アベルが勇者だって…!」
金色の髪の男が言っていた。同時に、自分には存在価値もないとその視線が物語っていた。あの時の恐怖と絶望と言ったら。

「君の弟は私の弟にとっての勇者…」
銀色の髪の男が言った。他にも何か言いたげなのに、彼はそれ以上何も言葉にしない。

「っあ、あの、そう言えば、オレ、あなたの名前も知らない。あなたの弟の名前も… それに結局勇者って言うのは…?」
分からないことばかりで、話がややこしくなってきたようにカインには感じられた。そこで初めて目の前の男の名前も知らないことに気付く。

「…ああ。そうだったね。私の名前はルシフェル。かつて、至高天に住んでいた。」
「ルシフェル?」
「そう。…もうずっと昔、世界がこんな風になる前なら、私の名を知る者が多く居たのだけど。」
懐かしむように、彼は言った。そして続ける。

「そして、私の弟の名前はミカエル。気が遠くなるほど昔に袂を分けたまま。人間が私たちを視ることが出来なくなって久しく、世界が姿を変えて幾年いくとせ。今もなお共に在ることは出来ない私の弟。」
空を見上げる彼の顔は、物悲しく。その顔を見るだけで、カインの心にも悲しみが溢れてくるようだった。

「…やがて、世界は混沌に呑まれる。」
ルシフェルはカインへ視線を移し、言った。
悲しげだった顔は、今は緊迫したものに変わっていた。畏れを抱くほどに。
そして、ルシフェルが続けて言う。
「かつての同胞はらからが、塵芥に塗れて久しい。力のバランスが崩れ、世界が、」
「世界が?」
「等しく闇に堕ちる。だから、そうなる前に… 君は…」
ゆらり、ルシフェルの体がゆらめいた。

ゆらり。
彼の言葉が言葉にならず、カインには聞こえない。
ゆらり。
ひときわ大きく揺れたあと、ルシフェルの姿は弾けて雲散霧消した。

「あっ、待って!」
カインの声だけが虚しく響いた。

 結局。
分かったことと言えば銀色の髪の男の名前だけ。
…そして、自分こそが彼に選ばれた勇者だったということ。

逆に分からないことが増えた。

兄のヨナタンはアンチ・メサイアになった。
今、この状況においてそれが良いことなのか悪いことなのか、分からない。
どこに居るのか分からない。

双子の弟のアベルは、ミカエルという天使が選んだ勇者だと言う。
アベルは大丈夫なのだろうか。あの瞬間は嫉妬で狂いそうだったけれど、今は。
ミカエルは何を目指しているのだろう。アベルに何をさせるつもりなのだろう。

…そして。
「オレが、勇者…」
なんとも複雑な感情に支配された。
憧れていたメサイアを通り越して、ただ一人選ばれた勇者だと言う。
 もう一人の勇者は、今までずっと一緒に居た双子の弟だ。
兄と弟と、全く別の道を歩むのだろうか。同じ道を行けるのだろうか。

ルシフェルは袂を分かつ事になったと言っていた。
…戦わなければならないのだろうか。大好きな、今でも大好きな兄弟たちと。

教えて欲しい。何もかもを。勇者とは何なのか。兄弟たちとはどうなるのか、敵対することになるのか。
どうして消えてしまったのだろうか。
そもそも、彼は何が目的なんだろうか。それも知りたい。

何よりここは何処なのだろう、そう思ってカインは辺りを見渡す。
見たこともない場所、としか言いようがない。
ふと、泉が目に入った。

「異界と繋がる門、って言ってたな。」
カインは泉に近付いた。
とても澄んだ水がこんこんと湧き出ている。泉の底がハッキリと見えるほどに、澄んだ水だ。
底が見えるのに、異界と繋がっているとルシフェルは言っていた。
不思議だ、と、カインは思った。誘われるように、そのまま泉に手を伸ばす。

バチッ
しおりを挟む

処理中です...