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第8話:娘を思う母の気持ちは、一筋縄ではいかない
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娘のために協力すると言った良子の様子は、自信に満ちていた。だが静香は、まだよく知らない彼女のことを全面的に信じる訳にはいかなかった。
移植をしなければ娘は助からない──なのに研究者だという良子に何ができるというのだろうか。
にもかかわらず、良子からは説明のつかない迫力が漂っていた。まるで「必ずどうにかしてみせる」と確信している者だけが持つ、揺るぎない光。
静香は理屈では否定しながらも、その光に心の奥を揺さぶられていた。
そして同時に、良子には説明のつかない謎めいた気配があった。ただの平凡な女性にしか見えないのに、只者ではないと感じさせる底知れない重みをまとっている。
それが何なのかはわからない。だが、静香は確かにそこに「可能性」と呼ぶしかないものを見ていた。
「……あなた、研究者って言ったわよね? 一体、何ができるというの?」
静香の胸の内は半信半疑だった。藁にも縋る思いではある。だが、確証がなければ娘を助けるどころか、自滅することになるだろう。
良子を信じる為の確証が欲しい。その思いが、問いかける声をわずかに震わせた。
しかし良子は落ち着き払った様子で、ふっと口元を緩めた。その瞳は、何かを確信している者だけが宿す光を放っていた。
「外科の手術くらいなら──私にもできるわ」
良子の言葉に、静香の顔がいっそう険しくなった。
「何を言ってるの!? 移植手術がどれほど難しいかくらい、内科医の私だってわかるわ。研究者なら簡単ではないことくらい、想像がつくでしょう?」
そう言って怪訝な顔をする静香の反応にも、良子の様子は崩れなかった。その自信は、ただ歴史の本から学んだ医学知識によるものではない。
アンブロワーズ・パレの時代から数々の医療を学習し、時に看護師や助手として現場に身を置き、数百年の臨床を見届けてきた経験からくるものだった。
つい最近も、世界的に名を馳せる外科医のもとで助手を務め、最新の移植手術に立ち会ったばかりだった。
しかも、千年間地球で生きてきた良子の強みはそれだけではない。
時に看護師、時に薬剤師、時に技術スタッフ──様々な職を渡り歩き、その都度必要な知識と技術を吸収してきた。
正式な資格がなくても現場に紛れ込む術も知っており、人間社会の制度の隙間さえ使いこなしてきた。
「ああ……だが、私には簡単だ」
淡々と口にする良子の表情には、揺らぎが一つもなかった。その姿を目にした瞬間、静香の背筋に冷たいものが走った。
──これは傲慢ではない。根拠のない虚勢でもない。まるで幾度もの修羅場を越えてきた名医だけが纏う、圧倒的な威厳。
牛島にさえ感じたことのない迫力が、良子にはあった。その言葉に唖然とする静香は、立ち尽くしたまま冷や汗を流し続ける。
そんな時、白装束を纏った信者が慌てふためき、二人のもとへ駆け込んできた。
「伊藤先生、大変です! 402号室の原さんが──意識を失いました!」
その報告を聞いた瞬間、静香の顔は一気に青ざめた。
原は静香の担当患者だった。胸の痛みを訴えて入院させたが、検査では心電図も血液データも異常なし。昨日の診察でも特に問題は見られなかった。
──何故、こんな急変を?
「……わかった、すぐに──」
そう言って患者の元に向かおうとする静香を、良子は落ち着いた様子で引き留めた。
「私も行くわ」
肩に乗った手と低く響くその声に、静香は思わず足を止める。
(この人……本当に何を考えているの?)
突然の申し出に驚きはしたが、同時にこれは好機だとも思った。──彼女が何者なのか、そしてその自信の理由を知るチャンスだ。
良子の横顔を盗み見た瞬間、静香の胸をざわつかせたのは、その表情に一片の迷いもなかったからだ。まるで、これから起こることをすべて予見しているかのように。
「わかったわ。あなたも一緒に来て」
そう言って足早に病室へ向かう静香の後を、良子は静かに続いた。良子には原という患者が、どうして危篤になったかの想像は付いていた。
長年の症例の情報を組み合わせれば、患者の身体に何が起こってるのか、想像するのは容易い。
しかし、直ぐに切開しなければ患者は助からないだろう。
廊下の突き当たりにある402号室。その前には、すでに数人の信者が集まり、口々に不安げな声を上げていた。
扉を開けた瞬間、血の気を失った男の顔が目に飛び込む。酸素マスクをつけられた原の呼吸は浅く、胸の上下も不規則だ。モニターのアラームが甲高く鳴り響き、血圧は急降下していた。
「嘘……昨日まで安定してたのに!」
静香の声が震える。だが、その横で良子は一歩、二歩と患者に近づき、冷静に患者の全身を隈なく観察した。
その眼差しは、まるで生体を透かして見ているかのように鋭かった。
「……胸部大動脈解離ね。このままじゃ数分もたないわ」
良子の落ち着き払った声が室内に重く行き渡り、周囲の者が顔を見合わせる。
静香は思わず「なっ……!?」と声を荒げた。そんな診断を、触診と一瞥だけで──?
そんな話を鵜呑みに出来ない。だが、患者の様子がそれを裏付けていた。顔面蒼白、唇は紫色に染まり、血圧は下がり続けている。
良子は顔色一つ変えずに、患者に目を向けたまま低い声で言った。
「クランプとメス。それから縫合糸を持ってきて」
「ちょっと待って! ここで開胸するつもり!? 設備も整ってないのよ!」
静香の声は怒りと恐怖で裏返る。良子は振り返りもせず、ただ一言。
「──この患者が他に助かる方法があるのなら、言ってみろ!」
その声を聞いた瞬間、静香の背筋に電流が走った。良子の目には、絶対の自信と覚悟が宿っていたからだ。
「(この女、本気で……?)」
止めなければならない。常識では考えられない。だが、時計の針が進む音がやけに大きく響いて、静香の理性を削り取っていく。
良子はすでに、無駄のない動きでテーブルを片付け始めていた。
その姿は恐ろしいほど落ち着き払っていて、まるで戦場で手術を繰り返してきた老練な軍医のようだ。
「……時間がない。あと数分ともたない」
その冷たい宣告に、室内が一斉に凍りつく。信者の一人が震える声をあげた。
「せ、先生……ほんとうに、ここで……?」
良子は彼を見向きもしなかった。ただ、冷たい声で冷静に命じる。
「持ってこい!」
その気迫に誰もが息を呑み、静香の胸が大きく波打った。
医師としてはこんな事など見過ごせない。ここで開胸など、狂気の沙汰だ。
だが──。ここで止めたら、この患者は死ぬだろう。オペ室に運び、牛島に頼んで手術をさせるほどの余裕もない。
静香は唇を強く噛み、ついに言葉を吐き出した。
「……わかった! 私も手伝う」
その一言で、良子の目にわずかに光が宿ったように見えた。
だが彼女は何も言わない。ただ、淡々と手袋をはめ、器具を受け取っていく。その動きには一切の迷いがなく、むしろ冷酷な美しさすらあった。
「あと三分」
低く落ちる声が、戦場のカウントダウンのように響く。信者たちは息を呑み、誰も動けなかった。
ただ一人、良子だけが異様なまでに冷静で──まるで、ここが手術室であることを疑っていないかのように。
信者の一人が震える手で器具を運び、テーブルに並べる。良子は一瞥もくれず、静かに告げた。
「静香、アンタは血圧を維持して。あと……クランプを渡すタイミング、私が指示する」
その声は穏やかで、まるで長年共に手術をしてきたチームに指示するかのようだった。
静香の胸に、ぞっとするような感覚が走る。研究者と言っていたが、彼女の手慣れた様子は素人とは思えない。1日に何件もの手術を熟すベテラン外科医の領域すら、遥かに超えた落ち着きさえ伺えた。
(どうしてこんな状況で……落ち着いていられるの?)
最初に会った時から得体の知れない違和感は感じていたが、それが何なのかはわからなかった。
しかし、今の良子の姿を見て、それが勘違いや気のせいではないと、納得せざるを得なかった。
「メス」
メスを受け取り、皮膚を切り開く──そのスピードに、静香は息を呑む。
無駄が一切ない。いや、それどころか──世界最高の執刀医でも、ここまで滑らかにはできないだろう。
まるで動きが読めているかのように、血がほとばしる前に、ガーゼが正確に押さえ込まれる。
(……早い。いや、それだけじゃない。美しい)
静香は愕然とした。手術を見て「美しい」なんて思ったのは、生まれて初めてだった。
「クランプ」
良子の声は低く、しかし絶対的な力を帯びていた。その一言で、静香の手が条件反射のように動く。
それは不思議な感覚だった。良子の言葉が、まるで魔法のように自分の手足を操っているかのようだ。
「上行大動脈、ここを押さえて」
良子は短く指示を出し、瞬時に血の流れを制御する。「……すごい……」思わず漏れたその言葉は、静香自身の耳にも届かなかった。
「吸引」
良子が告げると同時に、渡された吸引器で血液が吸い込まれる。周囲に溢れる血など、ほとんどない。
切開は正確無比でメスは一度も迷わない。皮膚、筋層、胸骨──そして大動脈へ。
そのすべての動きが、ひとつの流れる旋律のように繋がっていた。
静香は息を呑んだ。オペというより、ひとつの芸術作品を見ている気分だった。
「クランプ解除」
良子の指先が僅かに動くと、血液の流れが蘇る──だが、出血はない。
その異様さに、静香は背筋を凍らせた。まるで未来が見えている……? そうとしか思えない。
「縫合糸」
その声とともに、縫合糸が光を描く。無駄なループも、もつれもない。針は迷うことなく進み、皮膚が閉じていく。
時計を見れば、まだ十分も経っていない。
だがそこには、完全に修復された大動脈と、呼吸を取り戻した患者がいた。
誰も言葉を発せない。信者たちは口を押さえ、祈るように、ただ見守っていた。
やがて、誰かが小さく呟く。
「……神の御業だ……」
その声は、すぐに別の誰かの口からも漏れた。まるで呪文のように、同じ言葉が広がっていく。
だが、静香にはそれが冗談に聞こえなかった。──いや、冗談で済ませることなどできなかった。
この女の技術は、人間の枠を逸脱している。
医大に入ってから、数々の名医と呼ばれる執刀医のオペに立ち会ってきたが、それらを遥かに凌駕していた。
良子は手袋を外しながら、何事もなかったように静かに言った。
「──終了よ」
その声は、戦場の騒音を切り裂く刃のように冷たく、澄んでいた。彼女の呼吸は乱れていない。指先一つ、微かに震えてすらいなかった。
静香の脳裏に『……私が協力してあげようか?』と言った、良子の姿が蘇る。あの時の自信に満ちた姿は、根拠のないものではなかったのだ。
この女なら娘の命を救ってくれるかも知れない──。あやふやだったそんな思いが今は確信へと変わっていた。
良子を見つめる静香の目は、疑念を失い、信頼と畏怖の色に染まっていく。喉の奥で言葉が絡まり、しばらく声にならなかった。
だが──堰を切ったように、唇が動く。
「……娘も……助けてくれるの?」
わずかな震えを含んだ声。それは医師としてではなく、一人の母親としての問いだった。
良子はわずかに口角を上げ、視線を逸らさずに答えた。
「ああ……」
素っ気なく短い返事。しかし、その響きは鋼よりも重く、静香の胸に深く沈んでいく。
それだけで十分だった。希望は確信へと変わり、静香の脳裏に新たな未来が映し出されていた。
~to be continued~
移植をしなければ娘は助からない──なのに研究者だという良子に何ができるというのだろうか。
にもかかわらず、良子からは説明のつかない迫力が漂っていた。まるで「必ずどうにかしてみせる」と確信している者だけが持つ、揺るぎない光。
静香は理屈では否定しながらも、その光に心の奥を揺さぶられていた。
そして同時に、良子には説明のつかない謎めいた気配があった。ただの平凡な女性にしか見えないのに、只者ではないと感じさせる底知れない重みをまとっている。
それが何なのかはわからない。だが、静香は確かにそこに「可能性」と呼ぶしかないものを見ていた。
「……あなた、研究者って言ったわよね? 一体、何ができるというの?」
静香の胸の内は半信半疑だった。藁にも縋る思いではある。だが、確証がなければ娘を助けるどころか、自滅することになるだろう。
良子を信じる為の確証が欲しい。その思いが、問いかける声をわずかに震わせた。
しかし良子は落ち着き払った様子で、ふっと口元を緩めた。その瞳は、何かを確信している者だけが宿す光を放っていた。
「外科の手術くらいなら──私にもできるわ」
良子の言葉に、静香の顔がいっそう険しくなった。
「何を言ってるの!? 移植手術がどれほど難しいかくらい、内科医の私だってわかるわ。研究者なら簡単ではないことくらい、想像がつくでしょう?」
そう言って怪訝な顔をする静香の反応にも、良子の様子は崩れなかった。その自信は、ただ歴史の本から学んだ医学知識によるものではない。
アンブロワーズ・パレの時代から数々の医療を学習し、時に看護師や助手として現場に身を置き、数百年の臨床を見届けてきた経験からくるものだった。
つい最近も、世界的に名を馳せる外科医のもとで助手を務め、最新の移植手術に立ち会ったばかりだった。
しかも、千年間地球で生きてきた良子の強みはそれだけではない。
時に看護師、時に薬剤師、時に技術スタッフ──様々な職を渡り歩き、その都度必要な知識と技術を吸収してきた。
正式な資格がなくても現場に紛れ込む術も知っており、人間社会の制度の隙間さえ使いこなしてきた。
「ああ……だが、私には簡単だ」
淡々と口にする良子の表情には、揺らぎが一つもなかった。その姿を目にした瞬間、静香の背筋に冷たいものが走った。
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牛島にさえ感じたことのない迫力が、良子にはあった。その言葉に唖然とする静香は、立ち尽くしたまま冷や汗を流し続ける。
そんな時、白装束を纏った信者が慌てふためき、二人のもとへ駆け込んできた。
「伊藤先生、大変です! 402号室の原さんが──意識を失いました!」
その報告を聞いた瞬間、静香の顔は一気に青ざめた。
原は静香の担当患者だった。胸の痛みを訴えて入院させたが、検査では心電図も血液データも異常なし。昨日の診察でも特に問題は見られなかった。
──何故、こんな急変を?
「……わかった、すぐに──」
そう言って患者の元に向かおうとする静香を、良子は落ち着いた様子で引き留めた。
「私も行くわ」
肩に乗った手と低く響くその声に、静香は思わず足を止める。
(この人……本当に何を考えているの?)
突然の申し出に驚きはしたが、同時にこれは好機だとも思った。──彼女が何者なのか、そしてその自信の理由を知るチャンスだ。
良子の横顔を盗み見た瞬間、静香の胸をざわつかせたのは、その表情に一片の迷いもなかったからだ。まるで、これから起こることをすべて予見しているかのように。
「わかったわ。あなたも一緒に来て」
そう言って足早に病室へ向かう静香の後を、良子は静かに続いた。良子には原という患者が、どうして危篤になったかの想像は付いていた。
長年の症例の情報を組み合わせれば、患者の身体に何が起こってるのか、想像するのは容易い。
しかし、直ぐに切開しなければ患者は助からないだろう。
廊下の突き当たりにある402号室。その前には、すでに数人の信者が集まり、口々に不安げな声を上げていた。
扉を開けた瞬間、血の気を失った男の顔が目に飛び込む。酸素マスクをつけられた原の呼吸は浅く、胸の上下も不規則だ。モニターのアラームが甲高く鳴り響き、血圧は急降下していた。
「嘘……昨日まで安定してたのに!」
静香の声が震える。だが、その横で良子は一歩、二歩と患者に近づき、冷静に患者の全身を隈なく観察した。
その眼差しは、まるで生体を透かして見ているかのように鋭かった。
「……胸部大動脈解離ね。このままじゃ数分もたないわ」
良子の落ち着き払った声が室内に重く行き渡り、周囲の者が顔を見合わせる。
静香は思わず「なっ……!?」と声を荒げた。そんな診断を、触診と一瞥だけで──?
そんな話を鵜呑みに出来ない。だが、患者の様子がそれを裏付けていた。顔面蒼白、唇は紫色に染まり、血圧は下がり続けている。
良子は顔色一つ変えずに、患者に目を向けたまま低い声で言った。
「クランプとメス。それから縫合糸を持ってきて」
「ちょっと待って! ここで開胸するつもり!? 設備も整ってないのよ!」
静香の声は怒りと恐怖で裏返る。良子は振り返りもせず、ただ一言。
「──この患者が他に助かる方法があるのなら、言ってみろ!」
その声を聞いた瞬間、静香の背筋に電流が走った。良子の目には、絶対の自信と覚悟が宿っていたからだ。
「(この女、本気で……?)」
止めなければならない。常識では考えられない。だが、時計の針が進む音がやけに大きく響いて、静香の理性を削り取っていく。
良子はすでに、無駄のない動きでテーブルを片付け始めていた。
その姿は恐ろしいほど落ち着き払っていて、まるで戦場で手術を繰り返してきた老練な軍医のようだ。
「……時間がない。あと数分ともたない」
その冷たい宣告に、室内が一斉に凍りつく。信者の一人が震える声をあげた。
「せ、先生……ほんとうに、ここで……?」
良子は彼を見向きもしなかった。ただ、冷たい声で冷静に命じる。
「持ってこい!」
その気迫に誰もが息を呑み、静香の胸が大きく波打った。
医師としてはこんな事など見過ごせない。ここで開胸など、狂気の沙汰だ。
だが──。ここで止めたら、この患者は死ぬだろう。オペ室に運び、牛島に頼んで手術をさせるほどの余裕もない。
静香は唇を強く噛み、ついに言葉を吐き出した。
「……わかった! 私も手伝う」
その一言で、良子の目にわずかに光が宿ったように見えた。
だが彼女は何も言わない。ただ、淡々と手袋をはめ、器具を受け取っていく。その動きには一切の迷いがなく、むしろ冷酷な美しさすらあった。
「あと三分」
低く落ちる声が、戦場のカウントダウンのように響く。信者たちは息を呑み、誰も動けなかった。
ただ一人、良子だけが異様なまでに冷静で──まるで、ここが手術室であることを疑っていないかのように。
信者の一人が震える手で器具を運び、テーブルに並べる。良子は一瞥もくれず、静かに告げた。
「静香、アンタは血圧を維持して。あと……クランプを渡すタイミング、私が指示する」
その声は穏やかで、まるで長年共に手術をしてきたチームに指示するかのようだった。
静香の胸に、ぞっとするような感覚が走る。研究者と言っていたが、彼女の手慣れた様子は素人とは思えない。1日に何件もの手術を熟すベテラン外科医の領域すら、遥かに超えた落ち着きさえ伺えた。
(どうしてこんな状況で……落ち着いていられるの?)
最初に会った時から得体の知れない違和感は感じていたが、それが何なのかはわからなかった。
しかし、今の良子の姿を見て、それが勘違いや気のせいではないと、納得せざるを得なかった。
「メス」
メスを受け取り、皮膚を切り開く──そのスピードに、静香は息を呑む。
無駄が一切ない。いや、それどころか──世界最高の執刀医でも、ここまで滑らかにはできないだろう。
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良子の声は低く、しかし絶対的な力を帯びていた。その一言で、静香の手が条件反射のように動く。
それは不思議な感覚だった。良子の言葉が、まるで魔法のように自分の手足を操っているかのようだ。
「上行大動脈、ここを押さえて」
良子は短く指示を出し、瞬時に血の流れを制御する。「……すごい……」思わず漏れたその言葉は、静香自身の耳にも届かなかった。
「吸引」
良子が告げると同時に、渡された吸引器で血液が吸い込まれる。周囲に溢れる血など、ほとんどない。
切開は正確無比でメスは一度も迷わない。皮膚、筋層、胸骨──そして大動脈へ。
そのすべての動きが、ひとつの流れる旋律のように繋がっていた。
静香は息を呑んだ。オペというより、ひとつの芸術作品を見ている気分だった。
「クランプ解除」
良子の指先が僅かに動くと、血液の流れが蘇る──だが、出血はない。
その異様さに、静香は背筋を凍らせた。まるで未来が見えている……? そうとしか思えない。
「縫合糸」
その声とともに、縫合糸が光を描く。無駄なループも、もつれもない。針は迷うことなく進み、皮膚が閉じていく。
時計を見れば、まだ十分も経っていない。
だがそこには、完全に修復された大動脈と、呼吸を取り戻した患者がいた。
誰も言葉を発せない。信者たちは口を押さえ、祈るように、ただ見守っていた。
やがて、誰かが小さく呟く。
「……神の御業だ……」
その声は、すぐに別の誰かの口からも漏れた。まるで呪文のように、同じ言葉が広がっていく。
だが、静香にはそれが冗談に聞こえなかった。──いや、冗談で済ませることなどできなかった。
この女の技術は、人間の枠を逸脱している。
医大に入ってから、数々の名医と呼ばれる執刀医のオペに立ち会ってきたが、それらを遥かに凌駕していた。
良子は手袋を外しながら、何事もなかったように静かに言った。
「──終了よ」
その声は、戦場の騒音を切り裂く刃のように冷たく、澄んでいた。彼女の呼吸は乱れていない。指先一つ、微かに震えてすらいなかった。
静香の脳裏に『……私が協力してあげようか?』と言った、良子の姿が蘇る。あの時の自信に満ちた姿は、根拠のないものではなかったのだ。
この女なら娘の命を救ってくれるかも知れない──。あやふやだったそんな思いが今は確信へと変わっていた。
良子を見つめる静香の目は、疑念を失い、信頼と畏怖の色に染まっていく。喉の奥で言葉が絡まり、しばらく声にならなかった。
だが──堰を切ったように、唇が動く。
「……娘も……助けてくれるの?」
わずかな震えを含んだ声。それは医師としてではなく、一人の母親としての問いだった。
良子はわずかに口角を上げ、視線を逸らさずに答えた。
「ああ……」
素っ気なく短い返事。しかし、その響きは鋼よりも重く、静香の胸に深く沈んでいく。
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