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ランチビュッフェ
乗り換えなしで二十分電車に揺られ、予約したばかりの店へ向かう。
まだ気まずい空気が漂う中で、先に話しかけたのは私の方だった。
「あの、あ……私、香月 真衣っていうんですけど」
「え? うん」
「お名前をうかがってもいいですか」
「あっ、ごめん! 展開が急で名乗り忘れてた。その、葉山 理です」
少し大きく響いたその声に、車内にいた数人の視線が葉山さんに集まる。気まずそうに「ごめんね」と溢された声はまだ少し緊張していて、このまま打ち解けて話してもらうことができるのか少しだけ不安になった。
移動中にたくさん話すのは不自然な気がするし、周りの目も気になってしまう。そのため車内で話せたのは、簡単な自己紹介だけになった。
葉山 理という名前。私より四つ年上の三十二歳であること。
短い会話から知れたのは、たったそれだけである。
交友関係やどんな仕事をしているのかは、怖くてまだ質問できなかった。彼の自殺の原因が分からない以上、何が葉山さんのトラウマに触れてしまうか分からないのだ。
葉山さんの方から話題が振られることもなく、名前を聞いたあとはお互いに無言で電車に揺られた。
駅から数分歩いたところにあるホテルまで歩き、ラウンジで名前を告げて席に案内してもらう。
店員さんから簡単な説明を聞き終えたあと、お互い微妙に距離をとったままで一度席を立った。
好きなものを乗せたプレートとドリンクを持って席に戻り、葉山さんと向かい合う形で椅子に座る。
ここでようやく、葉山さんとしっかりと目が合った気がした。
「あー……その、話したいって僕から言ったのに、いざこういう形になると、何から話せばいいのか分からなくて困るね」
本当に困ったような笑顔を向けられ、なんだか私にまで緊張が伝わってくる。
こんな場でも無理に笑おうとしてくれるのだから、こういう無理が重なって生きるのがつらくなったのかなと、悲しいことを想像してしまった。
すごく良い人そうなのに、いや、良い人だからこそ、いろんな負担を周りから押し付けられたりしてきたのだろうか。
「……何か、私に聞いて欲しいことがあるのかなって思ったんですけど……。あ! でも言いにくいなら、無理に話さなくても大丈夫ですし、代わりに何か違う楽しい話とか、せっかくこういう場所に来たので好きな食べ物の話から始めてもいいのかなって……思いますけど、どうですか?」
あまりにも会話が下手すぎる。
心の中で自分にツッコミを入れ、チラリと葉山さんの表情を窺った。
きっと聞いてほしいことがあるはずなのに、私からどう聞けばいいのか分からなくてもどかしい。
内心、反省でいっぱいになっている私に向かい、「いっぱい食べましょう!」と言った時と同じように、葉山さんがふわりと笑う。さっきから葉山さんの笑いのツボがおかしい。
「うん。はは、そういう話も聞きたかったんです。教えてくれますか」
「え?」
「好きな食べ物とかよく行く場所とか。香月さんが楽しいと思う話を聞きたい」
「えっと……私の話、ですか?」
「不審な男だと思われても仕方ない声の掛け方になっちゃったから、香月さんの怯えた顔を見て本当に反省して……。さっきは怖がらせてしまって、本当にごめんなさい」
「いえ、そんな……」
「一緒にどこかへ行きませんかって言ってもらえた時は驚いたけど、本当に、すごく嬉しかった」
遺書を受け取ることすらしてもらえず絶望しかけたけれど、自分のことを案じてくれる人がいると分かって嬉しかった、とか。そういう意味の話だろうか。
キラキラした熱のこもった目で見つめられて、申し訳なさにぐっと喉が詰まった。
嬉しそうに微笑む彼の顔は、感謝と憧れを真っ直ぐに伝えてくる。
遺書なんて重たいものを受け取りたくない。でもただ断るのは見捨てるみたいで嫌だ。こんなに怯えた顔をしている人を放って立ち去るなんてできない。だったら何か話してみようと、それだけを考えて咄嗟に口から出た提案だ。
そんな私の思い付きの行動が、なんだかとんでもない美談にされている気がする。
「葉山さんが嬉しく感じてくれたならよかったです。でも私、過去にいろいろあって、ああいうものを受け取るのが怖かっただけなんです。だからと言って断るだけでは心苦しくて、あの場所で声を掛けることも勇気のいることだと思うし、代わりに何か楽しいことができたらいいなって思っただけで……」
「あ、そっか……。いや、ごめん。がっかりした声出しちゃって。一回だけの思い出作りでも、僕はすごく嬉しいから」
沈んだ声でとんでもないことを言われ、思わず顔を上げる。
最後に楽しい思い出を作ってやろうなんて、そんな傲慢な気持ちで「一緒にどこかへ行きましょう」と言ったわけではないのだ。
これが人生最後の娯楽だと思われていては、彼の話を聞く意味がない。
「ち、違います。一回だけの思い出とかそういうつもりで誘ったわけじゃなくて、葉山さんの話を聞きたいからここに来たし、今日が楽しかったらまた次も楽しいことがあるって葉山さんに思ってもらいたくて……」
「それじゃあもし今日が楽しかったら、また僕と会ってくれますか?」
「へ……?」
一度死ぬつもりだったせいだろうか。葉山さんはひどく凪いだ目をしていて、私を試すようなことを言う。
会って話すだけで葉山さんの気が晴れるなら、別に私は構わないけれど。
「あの、別にそんな条件をつけなくても、葉山さんがよければまた会いましょう? 仕事もあるしいつでもは無理かもしれませんけど、あっ! ……や、すいません。でも本当に、そんな条件つけなくても大丈夫ですよ?」
仕事の話を出してしまって、嫌なことを思い出させてはいないだろうか。
一瞬不安になったけれど、「じゃあ連絡先教えて欲しいです」と言われ、仕事の話題がスルーされたことにとりあえず安心した。
「連絡先ですね。えっと、私から送ればいいですか?」
「え? あの、本当にいいの?」
「うん? はい、もちろん」
鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージアプリのアカウントコードを表示する。
戸惑った顔をしつつも私のコードを読み取った葉山さんは、画面を見つめて少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「葉山さん?」と私から話し掛けようとすると、葉山さんは深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、我儘言って。……ありがとう」
「そ……そんな大袈裟にお礼言われることじゃないと思います……」
頭を上げてくださいと伝え、お互いに携帯を握りしめたまま視線を合わせる。
席についてから料理も食べず、カトラリーではなく携帯を握って、いったい何をしているのだろうか。
お互い必死に話そうとして、余裕がなくて、冷静になると今の状況がとてもおかしなものに思えてくる。
私と同じことを葉山さんも思ったのだろう。シリアスになりきれない今の状況に気付いたのか、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
緊張感が薄くなると、自分が空腹だったことを思い出す。いまだに手をつけていない食事にちらりと目をやり、おずおずと私の方から話題を変える。
「あの、とりあえず食べながら話しませんか?」
「はは、そうですね。こんなに待たせたら、料理にも作ってくれた人にも申し訳ないです」
スマートフォンを鞄にしまい、シルバーのスプーンを手に持つ。
ポタージュの一口目がとても美味しくて、思わず頬が緩んだ。
さきほどまでと比べると、葉山さんも少しは肩の力が抜けているように見える。
何に悩んでいたのかは話してくれなかったし、言いにくいなら無理に話さなくてもいいと言った手前、私から詳しく聞き出すこともしなかった。
好きな食べ物の話題から始まり、休日の過ごし方や、よく行く店。どちらかというと葉山さんのほうが聞き役になっている時間が多い気がして戸惑ったけれど、楽しそうに笑いながら聞いてくれるから、こういう形でもいいやと思えた。
店に滞在したのは二時間。
食事のあとは葉山さんの提案で、近くで開催中の金魚の水中アート展を見に行くことになった。
もう元気そうに見えるけれど、このまま解散するのは少しだけ不安だ。帰るにはまだ早い時間で、少し物足りなさも感じていたから、「まだ付き合ってもらえますか?」と葉山さんから言ってもらえてよかった。
(今更かもしれないけど、私まで普通に楽しんでて大丈夫なのかな)
非日常で幻想的な空間を並んで歩いていると、今がどういう時間なのか分からなくなる。
線路への飛び込みを止めたくて、ただ一緒に楽しいことをしたいと思った。
しかし、食事のあとにこの場所に誘われた時、私は嬉しく思ったのだ。葉山さんを心配する気持ちより、この時間がまだ続くことに安心した。
万華鏡のように並んだ水槽の中を金魚が泳ぎ、薄暗い空間で光が揺れる。水槽を見上げる葉山さんの横顔が綺麗で、一瞬見惚れそうになった。
年上で、私よりずっと背が高くて身体も大きい。最初は俯いていることが多く、長めの前髪に邪魔されて顔もよく見えなかった。暗い表情をしていたせいで、頼りない印象を持ったこともあるのだろう。男性として意識することになるとは、まったく思ってなかったのだ。
今改めて葉山さんのことを見てみると、すごく綺麗な顔をしていて、笑いかけられるとドキッとする。
こんなことを思うなんて、なんだかまるでデートみたいだ。
じろじろと葉山さんのことを観察しているようで、急に申し訳ない気持ちが湧いてくる。水槽の展示に視線を移し、あまり彼のほうを見つめ過ぎないように努めた。
展示を見て、少しだけ歩いて、最初の駅に戻ってから解散する。
「楽しかったです」と正直な感想を伝えると、幸せを噛み締めるように「僕もです」と返されて、私まで嬉しくなる。
駅のホームで最初に笑顔を向けられた時と同じ。やっぱり可愛い人だな、という印象を持った。
別れ際に、「また誘ってもいいですか」と不安げに聞かれ、それなりに打ち解けたつもりだった私は少しだけ笑ってしまう。
「連絡、してくれないと困ります」
生存報告はちゃんとしてほしい。
今日一日を過ごして、私は葉山さんと友達になってしまったのだ。
ただの他人だった頃より、ずっと彼のことが心配になる。次の約束があった方が、不安にならずに過ごせるだろう。
「それじゃあ、また会いましょうね」
次回もありますよねと念を押すように言って解散し、その日のうちに私からメッセージを送った。
しっかりと返事がきたので、葉山さんも無事に家に帰ったらしい。
不安定な人を一人にするのは怖いし、家まで送り届けた方がいいだろうかと心配していたけれど、杞憂に終わってよかった。
帰宅してから簡単に夕食を食べ、ふわふわした気持ちでお風呂に入る。
葉山さんを救うことができたから、という満足感で浮かれているわけではないだろう。純粋に今日が楽しくて、また次回があることを、私は嬉しく思っているのだ。
「……ふふ、変なの」
そう溢した独り言も、どこか弾んでいるように聞こえる。
奇しくも今回行ったビュッフェが、今後何度も重ねていくデートの記念すべき一回目となった。
まだ気まずい空気が漂う中で、先に話しかけたのは私の方だった。
「あの、あ……私、香月 真衣っていうんですけど」
「え? うん」
「お名前をうかがってもいいですか」
「あっ、ごめん! 展開が急で名乗り忘れてた。その、葉山 理です」
少し大きく響いたその声に、車内にいた数人の視線が葉山さんに集まる。気まずそうに「ごめんね」と溢された声はまだ少し緊張していて、このまま打ち解けて話してもらうことができるのか少しだけ不安になった。
移動中にたくさん話すのは不自然な気がするし、周りの目も気になってしまう。そのため車内で話せたのは、簡単な自己紹介だけになった。
葉山 理という名前。私より四つ年上の三十二歳であること。
短い会話から知れたのは、たったそれだけである。
交友関係やどんな仕事をしているのかは、怖くてまだ質問できなかった。彼の自殺の原因が分からない以上、何が葉山さんのトラウマに触れてしまうか分からないのだ。
葉山さんの方から話題が振られることもなく、名前を聞いたあとはお互いに無言で電車に揺られた。
駅から数分歩いたところにあるホテルまで歩き、ラウンジで名前を告げて席に案内してもらう。
店員さんから簡単な説明を聞き終えたあと、お互い微妙に距離をとったままで一度席を立った。
好きなものを乗せたプレートとドリンクを持って席に戻り、葉山さんと向かい合う形で椅子に座る。
ここでようやく、葉山さんとしっかりと目が合った気がした。
「あー……その、話したいって僕から言ったのに、いざこういう形になると、何から話せばいいのか分からなくて困るね」
本当に困ったような笑顔を向けられ、なんだか私にまで緊張が伝わってくる。
こんな場でも無理に笑おうとしてくれるのだから、こういう無理が重なって生きるのがつらくなったのかなと、悲しいことを想像してしまった。
すごく良い人そうなのに、いや、良い人だからこそ、いろんな負担を周りから押し付けられたりしてきたのだろうか。
「……何か、私に聞いて欲しいことがあるのかなって思ったんですけど……。あ! でも言いにくいなら、無理に話さなくても大丈夫ですし、代わりに何か違う楽しい話とか、せっかくこういう場所に来たので好きな食べ物の話から始めてもいいのかなって……思いますけど、どうですか?」
あまりにも会話が下手すぎる。
心の中で自分にツッコミを入れ、チラリと葉山さんの表情を窺った。
きっと聞いてほしいことがあるはずなのに、私からどう聞けばいいのか分からなくてもどかしい。
内心、反省でいっぱいになっている私に向かい、「いっぱい食べましょう!」と言った時と同じように、葉山さんがふわりと笑う。さっきから葉山さんの笑いのツボがおかしい。
「うん。はは、そういう話も聞きたかったんです。教えてくれますか」
「え?」
「好きな食べ物とかよく行く場所とか。香月さんが楽しいと思う話を聞きたい」
「えっと……私の話、ですか?」
「不審な男だと思われても仕方ない声の掛け方になっちゃったから、香月さんの怯えた顔を見て本当に反省して……。さっきは怖がらせてしまって、本当にごめんなさい」
「いえ、そんな……」
「一緒にどこかへ行きませんかって言ってもらえた時は驚いたけど、本当に、すごく嬉しかった」
遺書を受け取ることすらしてもらえず絶望しかけたけれど、自分のことを案じてくれる人がいると分かって嬉しかった、とか。そういう意味の話だろうか。
キラキラした熱のこもった目で見つめられて、申し訳なさにぐっと喉が詰まった。
嬉しそうに微笑む彼の顔は、感謝と憧れを真っ直ぐに伝えてくる。
遺書なんて重たいものを受け取りたくない。でもただ断るのは見捨てるみたいで嫌だ。こんなに怯えた顔をしている人を放って立ち去るなんてできない。だったら何か話してみようと、それだけを考えて咄嗟に口から出た提案だ。
そんな私の思い付きの行動が、なんだかとんでもない美談にされている気がする。
「葉山さんが嬉しく感じてくれたならよかったです。でも私、過去にいろいろあって、ああいうものを受け取るのが怖かっただけなんです。だからと言って断るだけでは心苦しくて、あの場所で声を掛けることも勇気のいることだと思うし、代わりに何か楽しいことができたらいいなって思っただけで……」
「あ、そっか……。いや、ごめん。がっかりした声出しちゃって。一回だけの思い出作りでも、僕はすごく嬉しいから」
沈んだ声でとんでもないことを言われ、思わず顔を上げる。
最後に楽しい思い出を作ってやろうなんて、そんな傲慢な気持ちで「一緒にどこかへ行きましょう」と言ったわけではないのだ。
これが人生最後の娯楽だと思われていては、彼の話を聞く意味がない。
「ち、違います。一回だけの思い出とかそういうつもりで誘ったわけじゃなくて、葉山さんの話を聞きたいからここに来たし、今日が楽しかったらまた次も楽しいことがあるって葉山さんに思ってもらいたくて……」
「それじゃあもし今日が楽しかったら、また僕と会ってくれますか?」
「へ……?」
一度死ぬつもりだったせいだろうか。葉山さんはひどく凪いだ目をしていて、私を試すようなことを言う。
会って話すだけで葉山さんの気が晴れるなら、別に私は構わないけれど。
「あの、別にそんな条件をつけなくても、葉山さんがよければまた会いましょう? 仕事もあるしいつでもは無理かもしれませんけど、あっ! ……や、すいません。でも本当に、そんな条件つけなくても大丈夫ですよ?」
仕事の話を出してしまって、嫌なことを思い出させてはいないだろうか。
一瞬不安になったけれど、「じゃあ連絡先教えて欲しいです」と言われ、仕事の話題がスルーされたことにとりあえず安心した。
「連絡先ですね。えっと、私から送ればいいですか?」
「え? あの、本当にいいの?」
「うん? はい、もちろん」
鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージアプリのアカウントコードを表示する。
戸惑った顔をしつつも私のコードを読み取った葉山さんは、画面を見つめて少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「葉山さん?」と私から話し掛けようとすると、葉山さんは深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、我儘言って。……ありがとう」
「そ……そんな大袈裟にお礼言われることじゃないと思います……」
頭を上げてくださいと伝え、お互いに携帯を握りしめたまま視線を合わせる。
席についてから料理も食べず、カトラリーではなく携帯を握って、いったい何をしているのだろうか。
お互い必死に話そうとして、余裕がなくて、冷静になると今の状況がとてもおかしなものに思えてくる。
私と同じことを葉山さんも思ったのだろう。シリアスになりきれない今の状況に気付いたのか、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
緊張感が薄くなると、自分が空腹だったことを思い出す。いまだに手をつけていない食事にちらりと目をやり、おずおずと私の方から話題を変える。
「あの、とりあえず食べながら話しませんか?」
「はは、そうですね。こんなに待たせたら、料理にも作ってくれた人にも申し訳ないです」
スマートフォンを鞄にしまい、シルバーのスプーンを手に持つ。
ポタージュの一口目がとても美味しくて、思わず頬が緩んだ。
さきほどまでと比べると、葉山さんも少しは肩の力が抜けているように見える。
何に悩んでいたのかは話してくれなかったし、言いにくいなら無理に話さなくてもいいと言った手前、私から詳しく聞き出すこともしなかった。
好きな食べ物の話題から始まり、休日の過ごし方や、よく行く店。どちらかというと葉山さんのほうが聞き役になっている時間が多い気がして戸惑ったけれど、楽しそうに笑いながら聞いてくれるから、こういう形でもいいやと思えた。
店に滞在したのは二時間。
食事のあとは葉山さんの提案で、近くで開催中の金魚の水中アート展を見に行くことになった。
もう元気そうに見えるけれど、このまま解散するのは少しだけ不安だ。帰るにはまだ早い時間で、少し物足りなさも感じていたから、「まだ付き合ってもらえますか?」と葉山さんから言ってもらえてよかった。
(今更かもしれないけど、私まで普通に楽しんでて大丈夫なのかな)
非日常で幻想的な空間を並んで歩いていると、今がどういう時間なのか分からなくなる。
線路への飛び込みを止めたくて、ただ一緒に楽しいことをしたいと思った。
しかし、食事のあとにこの場所に誘われた時、私は嬉しく思ったのだ。葉山さんを心配する気持ちより、この時間がまだ続くことに安心した。
万華鏡のように並んだ水槽の中を金魚が泳ぎ、薄暗い空間で光が揺れる。水槽を見上げる葉山さんの横顔が綺麗で、一瞬見惚れそうになった。
年上で、私よりずっと背が高くて身体も大きい。最初は俯いていることが多く、長めの前髪に邪魔されて顔もよく見えなかった。暗い表情をしていたせいで、頼りない印象を持ったこともあるのだろう。男性として意識することになるとは、まったく思ってなかったのだ。
今改めて葉山さんのことを見てみると、すごく綺麗な顔をしていて、笑いかけられるとドキッとする。
こんなことを思うなんて、なんだかまるでデートみたいだ。
じろじろと葉山さんのことを観察しているようで、急に申し訳ない気持ちが湧いてくる。水槽の展示に視線を移し、あまり彼のほうを見つめ過ぎないように努めた。
展示を見て、少しだけ歩いて、最初の駅に戻ってから解散する。
「楽しかったです」と正直な感想を伝えると、幸せを噛み締めるように「僕もです」と返されて、私まで嬉しくなる。
駅のホームで最初に笑顔を向けられた時と同じ。やっぱり可愛い人だな、という印象を持った。
別れ際に、「また誘ってもいいですか」と不安げに聞かれ、それなりに打ち解けたつもりだった私は少しだけ笑ってしまう。
「連絡、してくれないと困ります」
生存報告はちゃんとしてほしい。
今日一日を過ごして、私は葉山さんと友達になってしまったのだ。
ただの他人だった頃より、ずっと彼のことが心配になる。次の約束があった方が、不安にならずに過ごせるだろう。
「それじゃあ、また会いましょうね」
次回もありますよねと念を押すように言って解散し、その日のうちに私からメッセージを送った。
しっかりと返事がきたので、葉山さんも無事に家に帰ったらしい。
不安定な人を一人にするのは怖いし、家まで送り届けた方がいいだろうかと心配していたけれど、杞憂に終わってよかった。
帰宅してから簡単に夕食を食べ、ふわふわした気持ちでお風呂に入る。
葉山さんを救うことができたから、という満足感で浮かれているわけではないだろう。純粋に今日が楽しくて、また次回があることを、私は嬉しく思っているのだ。
「……ふふ、変なの」
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