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高級フレンチフルコース②
最初に運ばれてきたシャンパンを手に持ち、兄を相手に気恥ずかしくなりながらも軽くグラスを合わせる。
コースの一品目は、シンプルな長方形のプレートに載せられた五種類の前菜だった。
一見小さな焼き菓子のようで、美しくも可愛い見た目に思わず声を漏らしてしまう。
パテと赤玉葱のサンド、枝豆とズッキーニのミニタルト、とうもろこしのメレンゲ、チーズのケークサレ、フォアグラのムース。
左から順に料理の説明をしてもらい、一番味の気になったフォアグラのムースから口に運ぶ。
初めて知る味と触感で、今まで食べたどの料理よりも美味しい。
高級店での食事ということに最初は少しだけ緊張していたけれど、この一口ですべてが塗り替えられる。
前菜もメインもデザートも驚くほどに美味しくて、見舞いの時と同様に、夢中になって食事を楽しんでしまった。
デザートのコンポートのあと、最後に運ばれてきたエスプレッソと焼き菓子のプレートを前に幸せに浸っていると、私より先に食べ終えたらしい慎太郎が、他のテーブルに視線をやりながら小声で囁く。
「なぁ、あの人が真衣の知り合い?」
指されたほうを見てみると、別のテーブルのお客さんと談笑している葉山さんの姿が見えた。
白いシェフコートにロング丈のエプロン。肩につく長さの黒髪は首の後ろでひとつに束ねられ、長い前髪もきっちりと整えられている。
可愛いと思うところなんて一つもない。落ち着いていて、優しくて格好良くて、誰の目から見ても魅力的な男性に映るだろう。
なんだか、私が知っている葉山さんとは別の人みたいだ。
「うん。そうだね、あの人」
「ああやって挨拶しに出てくるってことは、ここのオーナーシェフ? どこで知り合ったの?」
「え、葉山さんそんなこと言ってなかったよ。私が客席にいるの知ってるから、出てきてくれただけなんじゃないかな」
気がつけばもう閉店の時間が近く、店内にいるのは私達を含めて残り三組だけだった。
しばらく観察しているうちに、葉山さんは他のお客さんとの会話を終えたらしい。こちらにちらりと目をやった葉山さんは、営業用の笑顔を携えたまま私達の席にも寄ってくれる。
「本日はお越しいただきましてありがとうございます。お料理はいかがでしたか?」
にこりと笑って言われた言葉は、私ではなく慎太郎に向けられていた。
人のいい葉山さんの笑顔に釣られたのか、慎太郎も嬉しそうに笑いながら「とっても美味しかったです」と元気に答える。
「そう仰っていただけて光栄です。是非、また大切な方とお越しください。……香月さんも、来てくれてありがとう」
兄への挨拶を終えたところで、ようやく葉山さんの視線が私の方に向く。急に砕けた声と表情に、思わずドキッとしてしまった。
「直接会うのはこの前、香月さんの部屋に行った時以来かな? あの時は予定より長居しちゃってごめんね」
「え? あ、いや、そんな……謝るのは私の方で……」
「また会いたいって言ってくれたのに、休みが合わなくて少し空いちゃうから寂しかったんだ。だから店まで会いに来てくれてすごく嬉しい。来てくれてありがとう」
誰かに聞かせるような細かな説明より、嬉しい、ありがとうというストレートな言葉のほうが耳に残る。
この言葉は、私のほうが先に伝えるべきものなのだ。
「あの、お礼を言うのは私のほうです。家に来てくれたことも予約してくれたことも、まだちゃんとお礼を言えてなくて……。その、本当にありがとうございます。今日のお料理、全部、すごく美味しかった」
「楽しんでもらえたみたいでよかった。香月さんのお連れの方にも、そう思ってもらえたみたいで嬉しいな。仲が良さそうに話していたけど、香月さんの弟さん?」
「え?」
今の話し方に、明確な棘のようなものを感じた。
よく知る笑顔のはずなのに、葉山さんの目の奥が笑っていない。
「あ、いや俺は……、弟ではないですね」
言葉を濁した慎太郎が、ちらりと私に視線を向ける。どうやら、私の口から紹介しろと言っているらしい。
昔から変わらない童顔で、社会人らしくない明るい髪色。
大人になってからは特に、私のほうが年上に見られることが何度かあった。
そんな兄に向けられる葉山さんの笑い方は、私に向けられるものと違っていて、どこか冷たい。
「紹介が遅れてすみません。私の兄です。五つ上の」
「え……?」
「真衣の兄、香月慎太郎です。映像関係の仕事をしています」
そう言いながら慎太郎が立ち上がった瞬間、葉山さんの表情が変わる。
あ、やっといつも通りに戻った。
「え……? え? あ、す、すみません」
「私のほうこそ紹介が遅くなってごめんなさい。私といるとたまに間違えられるので、そんなに気にしないでください」
「いや、完全に僕が勘違いしてて……。うわ、あの、失礼な物言いをしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
体の向きを変えて深々と頭を下げた葉山さんに、慎太郎は慌てて「いや、気持ちは分かりましたので……」と申し訳なさそうに話し出す。
「本当に気にしていないので頭を上げてください。こんなに美味しいもの食べさせてもらったのに、作った人に謝られるなんて意味分かんないですよ」
「いえ、しかし……」
「謝る必要のあること、別に葉山さんしてないですって」
慎太郎の言葉に同意するように頷くと、葉山さんの視線がちらりと私に向けられる。大丈夫だと伝えるつもりで笑いかけると、複雑そうな苦笑で返された。
「ありがとうございます。どうぞ、またお越しくださいませ」
葉山さんに改めてそう言われたことで、いったん話は終わりになった。
他のお客さんの姿も見えなくなっており、俺たちもそろそろ帰るかと慎太郎が腰を上げる。
私も頷き、鞄を手に持つ。軽く会釈して帰ろうと一歩を出したその時、葉山さんに手首を掴まれ引き留められた。
「え……?」
「ごめん、ちゃんと話がしたい。今日は早めに上がれるように頼んであるから、店の中で少しだけ待っていてもらえない?」
初めて会った時と同じように、葉山さんの瞳が不安そうに揺れている。
このあと、駅で兄と解散してそのまま帰るつもりだった。少し待つくらいの時間はある。
「はい、大丈夫ですよ。待ってますね」
「……ありがとう。ごめん、すぐに用意してくるから」
最後にまた慎太郎に向けて会釈をし、店の奥に葉山さんが戻っていく。
葉山さんの姿が見えなくなったあと、内緒話をするように慎太郎が私の耳元に顔を近付けた。
「俺はこのまま帰るつもりだけど、真衣はそれで大丈夫?」
「え? うん」
「はは、即答できるなら心配することないか。じゃ、そっちも気をつけて帰れよ」
「うん。今日はありがとう」
言われたことの意味を深く考えることなく頷き、またねと言って小さく手を振る。
慎太郎が店を出てから十数分後、着替えを終えた葉山さんが、慌てた様子で席まで迎えに来てくれた。
束ねていた髪は下ろされ、ベーシックな黒い半袖シャツを着ている。仕事中とは違う雰囲気に、なぜだか少しだけ安心した。
「ごめん。待たせちゃったね」
「全然待ってないです。お仕事おつかれさまでした」
「ありがとう。今日は店のこと任せてあるから、駅まで一緒に歩こうか」
「はい」
店を出て、人が少なくなった夜の通りを葉山さんと並んで歩く。日中の暑さも落ち着く時間帯。風が吹くと涼しくて気持ち良い。
外の空気を味わうように数歩進んだところで、改めて私から今日のお礼を口にする。
「今日は本当にありがとうございました。どのお料理も綺麗で美味しくて、次は何が出てくるんだろうってずっとワクワクしてました。家に持ってきてくれたスープとリゾットもすごく美味しかったし、最初は食欲なかったのに食べ始めたら止まらなくて、すぐに治ったのは葉山さんのお陰です。また、ちゃんとお礼させてくださいね」
「お礼なら、もう十分もらってるから気にしないで。それよりも……最後。変な空気にしてごめんね。せっかく楽しんでくれていたのに」
「え……っと? 何のことですか?」
「香月さんの部屋に行ったとか、香月さんから会いたいって誘ってくれたとか、家族の前でそういう話されるの嫌だったでしょ?」
「あ……」
思い出すと、確かに少し恥ずかしくなる。嫌だったとまでは言わないけれど、葉山さんに甘えている一面を家族に知られてしまったのだ。
恋人でもない異性に甘えている妹を、慎太郎はどう思ったのだろうか。親や妹に、変なことを報告しなければいいけれど。
「んん……その、少し恥ずかしかったけど、別に隠すようなことでもないので大丈夫ですよ。家に来てくれたお礼は言いたいなって私も思ってましたし、私が風邪ひいた時のことを葉山さんが話題にするのも別に普通だと思っ……」
「お客様の前でプライベートな話しないよ。僕は香月さんの部屋に入ったことがあるって彼に聞かせて、牽制してるつもりだった」
「……はい?」
「弟さんですかって聞いたのも、頼りなく見えるねっていう嫌味だよ。まさか本当に兄弟だとは思わなくて……香月さんが男の人を連れてくると思ってなかったから焦って、本当に自分の嫌なところが出た。ごめん」
謝られたことにびっくりして、思わず足を止めてしまった。
そんな説明しなければ私は気付かないままだったのに、葉山さんは全部を素直に言ってしまうのか。
(それに、今の言い方だとなんだか……)
告白されたように感じてしまった。なんて、浮かれすぎだろうか。
たくさんワインを飲んだから、少し酔っているのかもしれない。ただの謝罪を、自分に都合のいいように取りすぎている。
そう言い聞かせて自分を諫めるが、深刻そうな顔でじっと見つめられると、返事を待たれている気分になってくる。
好きだとか、付き合おうだとか、そんな話題は一切出てきていないのに。
でも、もしも、万が一。本当にそういう可能性があるのなら、もっと分かりやすい言葉で言って欲しい。
「……話がしたいって言っていたのは、そのことですか?」
「そう、だね。嫌われてないか心配で、今日のうちに話したかった」
「ふふ、大丈夫ですよ。慎太郎はそういうことあんまり気にしないタイプですし」
「そうじゃなくて、香月さんに嫌われてないか知りたくて……」
「まさか、ならないですよ。私、葉山さんのことすごく好きなので」
自分でも驚くほど、素直にその言葉が出た。
言ったあとになってから、「好き」という言葉を自分が選んだ真意に気づく。
(ああ、そっか。私、葉山さんのこと恋愛的な意味で好きなんだ)
ストレートに伝えられたのは、アルコールが入って気が緩んでいるからだろうか。
きっと今の言い方では、私の気持ちはちゃんと伝わらない。でも、今はまだそれでいいのだ。
焦っているわけではないし、まだ数回しか会っていない。今はお互いのことを少しずつ知っていく段階だろう。
人として好意を持っている、くらいのニュアンスで受け止めてくれればそれでいい。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったな」
「え……?」
声が聞こえた瞬間に、急に空気が変わったことが分かる。
葉山さんがすぅっと息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「香月さんのことが好きです」
「へ、え……?」
「僕と付き合ってもらえますか」
さっきまでの、互いの気持ちを探るような会話とは違う。誤魔化しのない真っ直ぐな告白が、しっかりと私の耳に届いた。
(ここがまだ、人通りの少ない路地で良かった)
こんな顔をしている葉山さんを、私以外の誰にも見て欲しくない。
「……は、い」
まだお互いのことを知っていく段階でいいと思っていたのに、一線を超えられた瞬間に気持ちが止まらなくなる。
もっと時間をかけて……と思う気持ちもあったけれど、好きな人から告白されて断る選択肢なんてないだろう。
「あの……よ、よろしくお願いします」
「うん。えっと、こちらこそ」
安心したように綻んだ顔にぐっと胸が詰まる。
そわそわした空気がくすぐったくて、それすらも不思議と嬉しい。
「あの……香月さんは明日仕事?」
「え?」
「このまま帰したくないんだけど、駄目かな……?」
ここは路上で、この場所で出来る最大限の触れ合いがこれなのだろう。葉山さんの手が、ゆっくりと私の指先に触れる。
ほんの少しなぞられただけなのに、身体の中心に一気に熱が回った気がした。
(これは、そういうお誘いって受け取ったほうがいいの……かな)
明日は仕事がある。帰って早めに寝たほうがいい。
頭ではちゃんと分かっているのに、私もこのまま帰りたくない。
「明日、遅番だから……少しくらいの夜更かしなら大丈夫、です」
嬉しそうに笑った葉山さんが何を言ったのか、必死だった私は、うまく聞き取れていなかった。
繋がれた手を優しく引かれ、通りかかったタクシーに乗り込む。
自分で選んだ行動なのに、なんだか信じられない。
移動中ずっと繋がれたままの左手が熱くて、汗ばんでいないか心配になった。
(私は、今日何杯のワインを飲んだんだっけ?)
泥酔するような飲み方はしていないし、意識もしっかりしている。
だけど、もしこれが酔って見ている都合のいい夢ならば、最後まで醒めないままでいてほしい。
コースの一品目は、シンプルな長方形のプレートに載せられた五種類の前菜だった。
一見小さな焼き菓子のようで、美しくも可愛い見た目に思わず声を漏らしてしまう。
パテと赤玉葱のサンド、枝豆とズッキーニのミニタルト、とうもろこしのメレンゲ、チーズのケークサレ、フォアグラのムース。
左から順に料理の説明をしてもらい、一番味の気になったフォアグラのムースから口に運ぶ。
初めて知る味と触感で、今まで食べたどの料理よりも美味しい。
高級店での食事ということに最初は少しだけ緊張していたけれど、この一口ですべてが塗り替えられる。
前菜もメインもデザートも驚くほどに美味しくて、見舞いの時と同様に、夢中になって食事を楽しんでしまった。
デザートのコンポートのあと、最後に運ばれてきたエスプレッソと焼き菓子のプレートを前に幸せに浸っていると、私より先に食べ終えたらしい慎太郎が、他のテーブルに視線をやりながら小声で囁く。
「なぁ、あの人が真衣の知り合い?」
指されたほうを見てみると、別のテーブルのお客さんと談笑している葉山さんの姿が見えた。
白いシェフコートにロング丈のエプロン。肩につく長さの黒髪は首の後ろでひとつに束ねられ、長い前髪もきっちりと整えられている。
可愛いと思うところなんて一つもない。落ち着いていて、優しくて格好良くて、誰の目から見ても魅力的な男性に映るだろう。
なんだか、私が知っている葉山さんとは別の人みたいだ。
「うん。そうだね、あの人」
「ああやって挨拶しに出てくるってことは、ここのオーナーシェフ? どこで知り合ったの?」
「え、葉山さんそんなこと言ってなかったよ。私が客席にいるの知ってるから、出てきてくれただけなんじゃないかな」
気がつけばもう閉店の時間が近く、店内にいるのは私達を含めて残り三組だけだった。
しばらく観察しているうちに、葉山さんは他のお客さんとの会話を終えたらしい。こちらにちらりと目をやった葉山さんは、営業用の笑顔を携えたまま私達の席にも寄ってくれる。
「本日はお越しいただきましてありがとうございます。お料理はいかがでしたか?」
にこりと笑って言われた言葉は、私ではなく慎太郎に向けられていた。
人のいい葉山さんの笑顔に釣られたのか、慎太郎も嬉しそうに笑いながら「とっても美味しかったです」と元気に答える。
「そう仰っていただけて光栄です。是非、また大切な方とお越しください。……香月さんも、来てくれてありがとう」
兄への挨拶を終えたところで、ようやく葉山さんの視線が私の方に向く。急に砕けた声と表情に、思わずドキッとしてしまった。
「直接会うのはこの前、香月さんの部屋に行った時以来かな? あの時は予定より長居しちゃってごめんね」
「え? あ、いや、そんな……謝るのは私の方で……」
「また会いたいって言ってくれたのに、休みが合わなくて少し空いちゃうから寂しかったんだ。だから店まで会いに来てくれてすごく嬉しい。来てくれてありがとう」
誰かに聞かせるような細かな説明より、嬉しい、ありがとうというストレートな言葉のほうが耳に残る。
この言葉は、私のほうが先に伝えるべきものなのだ。
「あの、お礼を言うのは私のほうです。家に来てくれたことも予約してくれたことも、まだちゃんとお礼を言えてなくて……。その、本当にありがとうございます。今日のお料理、全部、すごく美味しかった」
「楽しんでもらえたみたいでよかった。香月さんのお連れの方にも、そう思ってもらえたみたいで嬉しいな。仲が良さそうに話していたけど、香月さんの弟さん?」
「え?」
今の話し方に、明確な棘のようなものを感じた。
よく知る笑顔のはずなのに、葉山さんの目の奥が笑っていない。
「あ、いや俺は……、弟ではないですね」
言葉を濁した慎太郎が、ちらりと私に視線を向ける。どうやら、私の口から紹介しろと言っているらしい。
昔から変わらない童顔で、社会人らしくない明るい髪色。
大人になってからは特に、私のほうが年上に見られることが何度かあった。
そんな兄に向けられる葉山さんの笑い方は、私に向けられるものと違っていて、どこか冷たい。
「紹介が遅れてすみません。私の兄です。五つ上の」
「え……?」
「真衣の兄、香月慎太郎です。映像関係の仕事をしています」
そう言いながら慎太郎が立ち上がった瞬間、葉山さんの表情が変わる。
あ、やっといつも通りに戻った。
「え……? え? あ、す、すみません」
「私のほうこそ紹介が遅くなってごめんなさい。私といるとたまに間違えられるので、そんなに気にしないでください」
「いや、完全に僕が勘違いしてて……。うわ、あの、失礼な物言いをしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
体の向きを変えて深々と頭を下げた葉山さんに、慎太郎は慌てて「いや、気持ちは分かりましたので……」と申し訳なさそうに話し出す。
「本当に気にしていないので頭を上げてください。こんなに美味しいもの食べさせてもらったのに、作った人に謝られるなんて意味分かんないですよ」
「いえ、しかし……」
「謝る必要のあること、別に葉山さんしてないですって」
慎太郎の言葉に同意するように頷くと、葉山さんの視線がちらりと私に向けられる。大丈夫だと伝えるつもりで笑いかけると、複雑そうな苦笑で返された。
「ありがとうございます。どうぞ、またお越しくださいませ」
葉山さんに改めてそう言われたことで、いったん話は終わりになった。
他のお客さんの姿も見えなくなっており、俺たちもそろそろ帰るかと慎太郎が腰を上げる。
私も頷き、鞄を手に持つ。軽く会釈して帰ろうと一歩を出したその時、葉山さんに手首を掴まれ引き留められた。
「え……?」
「ごめん、ちゃんと話がしたい。今日は早めに上がれるように頼んであるから、店の中で少しだけ待っていてもらえない?」
初めて会った時と同じように、葉山さんの瞳が不安そうに揺れている。
このあと、駅で兄と解散してそのまま帰るつもりだった。少し待つくらいの時間はある。
「はい、大丈夫ですよ。待ってますね」
「……ありがとう。ごめん、すぐに用意してくるから」
最後にまた慎太郎に向けて会釈をし、店の奥に葉山さんが戻っていく。
葉山さんの姿が見えなくなったあと、内緒話をするように慎太郎が私の耳元に顔を近付けた。
「俺はこのまま帰るつもりだけど、真衣はそれで大丈夫?」
「え? うん」
「はは、即答できるなら心配することないか。じゃ、そっちも気をつけて帰れよ」
「うん。今日はありがとう」
言われたことの意味を深く考えることなく頷き、またねと言って小さく手を振る。
慎太郎が店を出てから十数分後、着替えを終えた葉山さんが、慌てた様子で席まで迎えに来てくれた。
束ねていた髪は下ろされ、ベーシックな黒い半袖シャツを着ている。仕事中とは違う雰囲気に、なぜだか少しだけ安心した。
「ごめん。待たせちゃったね」
「全然待ってないです。お仕事おつかれさまでした」
「ありがとう。今日は店のこと任せてあるから、駅まで一緒に歩こうか」
「はい」
店を出て、人が少なくなった夜の通りを葉山さんと並んで歩く。日中の暑さも落ち着く時間帯。風が吹くと涼しくて気持ち良い。
外の空気を味わうように数歩進んだところで、改めて私から今日のお礼を口にする。
「今日は本当にありがとうございました。どのお料理も綺麗で美味しくて、次は何が出てくるんだろうってずっとワクワクしてました。家に持ってきてくれたスープとリゾットもすごく美味しかったし、最初は食欲なかったのに食べ始めたら止まらなくて、すぐに治ったのは葉山さんのお陰です。また、ちゃんとお礼させてくださいね」
「お礼なら、もう十分もらってるから気にしないで。それよりも……最後。変な空気にしてごめんね。せっかく楽しんでくれていたのに」
「え……っと? 何のことですか?」
「香月さんの部屋に行ったとか、香月さんから会いたいって誘ってくれたとか、家族の前でそういう話されるの嫌だったでしょ?」
「あ……」
思い出すと、確かに少し恥ずかしくなる。嫌だったとまでは言わないけれど、葉山さんに甘えている一面を家族に知られてしまったのだ。
恋人でもない異性に甘えている妹を、慎太郎はどう思ったのだろうか。親や妹に、変なことを報告しなければいいけれど。
「んん……その、少し恥ずかしかったけど、別に隠すようなことでもないので大丈夫ですよ。家に来てくれたお礼は言いたいなって私も思ってましたし、私が風邪ひいた時のことを葉山さんが話題にするのも別に普通だと思っ……」
「お客様の前でプライベートな話しないよ。僕は香月さんの部屋に入ったことがあるって彼に聞かせて、牽制してるつもりだった」
「……はい?」
「弟さんですかって聞いたのも、頼りなく見えるねっていう嫌味だよ。まさか本当に兄弟だとは思わなくて……香月さんが男の人を連れてくると思ってなかったから焦って、本当に自分の嫌なところが出た。ごめん」
謝られたことにびっくりして、思わず足を止めてしまった。
そんな説明しなければ私は気付かないままだったのに、葉山さんは全部を素直に言ってしまうのか。
(それに、今の言い方だとなんだか……)
告白されたように感じてしまった。なんて、浮かれすぎだろうか。
たくさんワインを飲んだから、少し酔っているのかもしれない。ただの謝罪を、自分に都合のいいように取りすぎている。
そう言い聞かせて自分を諫めるが、深刻そうな顔でじっと見つめられると、返事を待たれている気分になってくる。
好きだとか、付き合おうだとか、そんな話題は一切出てきていないのに。
でも、もしも、万が一。本当にそういう可能性があるのなら、もっと分かりやすい言葉で言って欲しい。
「……話がしたいって言っていたのは、そのことですか?」
「そう、だね。嫌われてないか心配で、今日のうちに話したかった」
「ふふ、大丈夫ですよ。慎太郎はそういうことあんまり気にしないタイプですし」
「そうじゃなくて、香月さんに嫌われてないか知りたくて……」
「まさか、ならないですよ。私、葉山さんのことすごく好きなので」
自分でも驚くほど、素直にその言葉が出た。
言ったあとになってから、「好き」という言葉を自分が選んだ真意に気づく。
(ああ、そっか。私、葉山さんのこと恋愛的な意味で好きなんだ)
ストレートに伝えられたのは、アルコールが入って気が緩んでいるからだろうか。
きっと今の言い方では、私の気持ちはちゃんと伝わらない。でも、今はまだそれでいいのだ。
焦っているわけではないし、まだ数回しか会っていない。今はお互いのことを少しずつ知っていく段階だろう。
人として好意を持っている、くらいのニュアンスで受け止めてくれればそれでいい。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったな」
「え……?」
声が聞こえた瞬間に、急に空気が変わったことが分かる。
葉山さんがすぅっと息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「香月さんのことが好きです」
「へ、え……?」
「僕と付き合ってもらえますか」
さっきまでの、互いの気持ちを探るような会話とは違う。誤魔化しのない真っ直ぐな告白が、しっかりと私の耳に届いた。
(ここがまだ、人通りの少ない路地で良かった)
こんな顔をしている葉山さんを、私以外の誰にも見て欲しくない。
「……は、い」
まだお互いのことを知っていく段階でいいと思っていたのに、一線を超えられた瞬間に気持ちが止まらなくなる。
もっと時間をかけて……と思う気持ちもあったけれど、好きな人から告白されて断る選択肢なんてないだろう。
「あの……よ、よろしくお願いします」
「うん。えっと、こちらこそ」
安心したように綻んだ顔にぐっと胸が詰まる。
そわそわした空気がくすぐったくて、それすらも不思議と嬉しい。
「あの……香月さんは明日仕事?」
「え?」
「このまま帰したくないんだけど、駄目かな……?」
ここは路上で、この場所で出来る最大限の触れ合いがこれなのだろう。葉山さんの手が、ゆっくりと私の指先に触れる。
ほんの少しなぞられただけなのに、身体の中心に一気に熱が回った気がした。
(これは、そういうお誘いって受け取ったほうがいいの……かな)
明日は仕事がある。帰って早めに寝たほうがいい。
頭ではちゃんと分かっているのに、私もこのまま帰りたくない。
「明日、遅番だから……少しくらいの夜更かしなら大丈夫、です」
嬉しそうに笑った葉山さんが何を言ったのか、必死だった私は、うまく聞き取れていなかった。
繋がれた手を優しく引かれ、通りかかったタクシーに乗り込む。
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