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合鍵とランチタイム
付き合ってから初めてのデートまでの間に、私は三回、葉山さんの部屋に泊まることがあった。
一回目のお泊りの時点で、私の使うシャンプーやスキンケア用品を葉山さんの部屋に置いてもらうことになり、朝起きた時に二本並んだ歯ブラシを見て、じんわりと嬉しくなった。
二回目のお泊りは私が早番、葉山さんのお店がお休みの日になった。一緒に夕食を用意してデザートまで食べたあと、二人で一緒にお風呂に入って、そのままベッドに向かった。翌朝、名残惜しい気持ちでお互い仕事に向かうことは変わらないけれど、前回よりもゆっくり夜を過ごすことが出来て、満たされた気持ちになった。
三回目のお泊りは五日前。退勤前に理不尽なことで上司に叱られ、気持ちが沈んた状態で葉山さんと会うことになってしまった。何も言っていないのに、私が落ち込んでいることを葉山さんは察してくれたようで、その日はいつも以上に私のことを甘やかしてくれた。
そして、ようやく丸一日一緒に過ごすことのできる日となった今日。
水族館でのデートを楽しみ、買い物をしてから葉山さんの家で過ごしていたら、早いもので時計はもう二十二時を指している。
明日は仕事で早いからと帰ろうとした私を引き留め、葉山さんは真剣な顔で言った。
「同棲したい」
「え……?」
唐突に告げられた内容が、うまく脳内で処理できなかった。
冷静になって考えてみても、やっぱり意味が分からない。私たちは付き合ってから、まだ半月しか経っていないのだ。
「えっ、と……?」
「そろそろ一緒に住みたい。駄目?」
「そろそろって……。あの、まだ付き合ってから一ヵ月も経ってないのに……」
「会えない時間がもったいないし、こうやって夜に真衣が帰ることになるのがすごく嫌だ。今住んでいるところより、こっちのほうが職場まで近いって言ってたよね? それなら引っ越してくれていいのに」
引っ越し、と葉山さんに言われて、私が一番最初にリアルに考えたのは、この部屋の家賃のことだった。
都心近くのきれいで広いマンション。たとえ三分の一だとしても、私に家賃を払っていけるのだろうか。
今はたまに来るだけだから、私がこの部屋で過ごす時はお手伝い程度のことしかしていない。けれど一緒に暮らすとなれば、家事の負担だって気になる。
葉山さんのように手際よく美味しいものを作れるわけではないし、作れるもののレパートリーも多くはないのだ。
それに――と考えて、ちらりと葉山さんの表情を窺う。
私が戸惑っている理由を、葉山さんは分かっていないのだろうか。
「あの……同棲って結構大変なことかなって思うんですけど、葉山さんが同棲したい理由って何ですか?」
「今のままじゃ足りないから、もっと一緒にいたいだけだよ。お互い働いている時間が違うことは分かってるし、その中で無理に会う時間を作るのは大変でしょ。帰る家が同じだったらすれ違わずに済むと思うんだけど、真衣は嫌?」
この半月の間、確かに私は少し無理をして、葉山さんと会う時間を作っていた。
翌日が遅番で、夜更かししても大丈夫な日を選んで泊まっていたけれど、それでも昼前には家を出なくてはいけない。
葉山さんが帰宅するのはお店の営業が終わってからで、いつも夜遅くなる。重ねられるのはほんの数時間だ。
(帰る家が一緒なら、お互いのスケジュールを確認して会う日を決めなくてもいいし、少なくとも毎日一緒に夜は過ごせる)
ただ一緒に過ごせる時間を増やしたいと、それだけの理由ならば、確かに同棲は悪くない選択なのだろう。
しかし私は同棲という言葉を出されて、葉山さんとの結婚が頭によぎった。
葉山さんのほうは、きっとそこまで深く考えていないのに。
(付き合って半月でそこまで考えちゃう私のほうが、おかしいのかもしれないけど)
一緒に住もうと言われてそこまで考えてしまったことを、葉山さんに察されたくはなかった。
重く受け止め過ぎた自分を気付かれないように、慎重に言葉を選ぶ。
「その……なんだか同棲っていう形にするのは、まだ早い気がして」
「帰って来たときに真衣が居てくれるだけで嬉しいんだけど、どうしても駄目?」
「でもそれは、まだ私たちが付き合いたてだから……」
今は付き合ったばかりで、浮かれていて楽しい時期。お互いのいいところしか見えなくて、悪いところがあっても気にならない。
居てくれるだけで嬉しいなんて思う期間は、きっと長くは続かないだろう。
「……鍵くらいなら受け取ってもらえる?」
「へ?」
「合鍵、渡しておくからいつでも来て。事前に連絡もいらないから」
「え? あの、でも……」
「ごめん。引っ越して欲しいなんて言われても、少し急すぎたよね。わざわざ引っ越さなくてもいいから、この部屋も真衣が帰るうちのひとつとして使ってくれたら嬉しいな」
葉山さんの家を「帰る場所のひとつ」だなんて、簡単に思えるはずがない。
しかし断ろうと口を開きかけた私に、「受け取って」と言って、葉山さんは少し強引に鍵を握らせた。
突き返すことも出来ず、戸惑いながらもキーケースに鍵を取り付ける。
「本当にいいんですか」と尋ねると、葉山さんは不安げに眉を寄せながらも笑顔を向けてくれた。
「うん。持っていてくれるだけでもいいよ」
「いや……せっかくもらったので、機会があれば使いたいですけど……。勝手に入るのはよくないと思うので、会う約束をした日に、先に入って待っているのはいいですか?」
「はは、そうしてくれたら嬉しいな。ありがとう」
お礼を言われる意味も分からず、「どういたしまして……?」とたどたどしく返事をした。
葉山さんはたまに、よく分からないところで謝ったり喜んだりする。
「あの、鍵を使うのは次の機会で、とりあえず今日は予定通りに帰ろうと思うんですけど……」
「そ……っか。いや、ごめん。送っていくね」
一瞬、葉山さんはあからさまにショックを受けた顔をしていた。すぐに取り繕って笑顔を見せてくれるけれど、こんな状況で帰ってもいいのか少しだけ心配になる。
家まで送ってもらい、別れ際。
今日のお礼に合わせて、同棲したいと言ってくれたことに対する、素直な自分の気持ちを伝える。
「葉山さん、あの……私も足りないので。これからもっといっぱい、葉山さんと会えるようにしますね。毎日は難しいですけど、また葉山さんのお部屋に入って待ってます」
「は……」
葉山さんが一瞬動きを止め、わずかに視線を下に向ける。気持ちを抑えつけるように長い息を吐いたあと、気恥ずかしそうに苦笑しながら、ふたたび私と目を合わせた。
「あー……ごめん。少しだけ上がっていい?」
「……? はい、どうぞ」
珍しいなと思いつつ家の中に招くと、玄関扉が閉まった瞬間に勢いよく口付けられる。
壁と葉山さんに挟まれて身動きが取れないまま、強引で深いキスに懸命に応えた。
貪られるようなキスが続き、息が苦しくなって葉山さんの胸を押す。名残惜しそうな吐息とともに、ゆっくりと葉山さんの顔が離れていく。
「は、葉山さ……」
「今はまだ遊びにきてくれるだけでもいいよ。でも、できるだけ早いうちに僕と生活すること、少しずつでいいから真剣に考えくれる?」
プロポーズのような言葉にぐらりと眩暈する。
咄嗟のことに返事ができずにいると、「ごめんね。おやすみ」と申し訳なさそうな笑顔で言って、葉山さんは帰っていった。
ドッドッと大きな音で衝撃を訴えてくる、自分の心臓の音がうるさい。
(次……いつ会いにいけるかな)
そんなことを考えながら、今日少し重さの増えたキーケースをぎゅっと握る。
どうやら私は葉山さんのあの縋るような声に、驚くほどに弱いらしい。
***
合鍵を受け取ってから三日。
私は今夜、真新しいその鍵を、初めて使うことになっている。
昨日の夜、葉山さんに「明日お家に行ってもいいですか」とメッセージを送った。すぐに返事をもらい、今日はそのまま泊まるつもりで準備を整え仕事に来ている。
至急対応しなければいけない案件が多く、忙しい午前を過ごしたあと、少し遅めのランチタイムとなった現在。万が一の可能性を考え、難しい手順が少ない和食のレシピを、私は必死に検索している。
その最中に流れてきたひとつの記事に、ふと目が留まった。
(都内で話題のフレンチ特集……)
少し意識が変わるだけで、見えている世界も少しずつ変化していく。
今まで気に留めていなかった情報や、雑誌の記事。知っている名前を見つけると、不思議と立ち止まってしまうようになった。
葉山さんと付き合い始めてからは、とりわけグルメ関係の特集をよく目にするようになり、今まで買わなかった雑誌を手に取ることも増えた。
「大人のデート特集」や「都内の人気店」というタイトルの記事に、葉山さんのお店はよく掲載されている。ネットの記事やSNSでも絶賛している投稿をよく見かけ、見つけるたびに私は、どんなことが書かれているのか最後まで読み込んでしまう。
今まで私が意識していなかっただけで、葉山さんは界隈でそうとう有名な人だった。
――華々しい経歴のオーナーシェフが腕を振るう最高のフレンチ
――予約必須 期待を超える感動的なフレンチディナー
――ミシュラン掲載 実力派シェフの至極のフレンチ
シャルメランジュだけではなく、若くて実力のあるオーナーシェフとして、葉山さん自身も頻繁にメディアに顔を出している。
海外の三つ星の店で修業し、若くして自分の店を出して成功しているフレンチシェフとして、業界では有名な人らしい。
三年目で早くもミシュラン一つ星を獲得したシャルメランジュは、激戦区の青山で予約困難の人気店だ。
素人の私が少し調べるだけでも、その程度の記事はいくらでも見つかる。
「これにも、葉山さんのお店出てるんだ……」
ふと目に入った、ネットニュースに転載されているグルメ特集。
若くして成功した「フレンチ界の若きプリンス」として、葉山さんの写真とインタビューが掲載されている。どの記事を見ても賞賛ばかりで、ミシュランに掲載されてからは特に、予約を取るのも困難らしい。そんな状態であるにもかかわらず、予約サイトでお店を検索すれば、好意的な口コミがずらりと並んでいた。
誇らしい気持ちになるのと同時に、そんな人が自分の恋人であることが、なんだか夢のように感じてしまう。
(本当なら、出会うきっかけすらないような人だったんだろうな)
最初の数回のデートでは、私はただ純粋に葉山さんに惹かれていくだけだった。
恋人になって会う回数が増えたこともあり、この一ヶ月で加速度的に好きな気持ちは大きくなっていく。しかしそれと同時に、最近は葉山さんの存在を遠くに感じることも増えた。
私が葉山さんの仕事について詳しく知ったのは付き合ったあとで、知れば知るほど、葉山さんと自分の人生が交わることが間違いであるかのように感じてしまう。
葉山さんにはもっと釣り合う人がいるんじゃないかと、SNSに葉山さんとの写真を投稿するインフルエンサーを、いじけた気持ちで見てしまうこともあった。
大切に思ってくれて、私の事を好きでいてくれるのだと、葉山さんは言葉でも行動でも過剰なくらいに伝えてくれる。
葉山さんと一緒にいる時はただ幸せで、他の人と比較して卑屈になるような、黒い気持ちが湧くこともない。
それでも、世間からの評価や、華やかな世界にいる写真を通して葉山さんの凄さを知ると、いつも不安になってしまうのだ。
無意識のうちに、また沈んだ溜息が溢れた。それと同時に休憩室の扉が開き、隣のデスクの先輩が顔を出す。
「あ、ごめん香月さん。少し早いんだけど戻ってこれる? 急に時間かかる問い合わせが増えて、今ちょっと対応追いつかないの」
葉山さんの記事を閉じ、慌ててスマホを鞄にしまう。黒い気持ちを押し込めるように、「大丈夫です」と笑いながら答えて席を立った。
(忙しいほうが、余計なこと考えないで済むからありがたいかも)
絶え間なく鳴る電話に出て対応し、すべての対応を終えたところで一息つく。少し時間に余裕ができると、また余計な不安が頭をちらついた。
私が日増しに葉山さんのことを好きになるのは、ちゃんと好きになる理由があるからだ。
でも、それなら――と、不安が募る。葉山さんはいったい、私の何を好きになってくれたんだろう。
大事にされている。好きだと言ってもらえている。だから不安になる必要などないと、頭ではちゃんと理解しているのだ。
(今夜会えばこの不安だって、またすぐに葉山さんが溶かしてくれるはずなんだから)
定時まであと三時間。胸の中で渦巻く不安を振り払うように、いつも以上に仕事に励んだ。
一回目のお泊りの時点で、私の使うシャンプーやスキンケア用品を葉山さんの部屋に置いてもらうことになり、朝起きた時に二本並んだ歯ブラシを見て、じんわりと嬉しくなった。
二回目のお泊りは私が早番、葉山さんのお店がお休みの日になった。一緒に夕食を用意してデザートまで食べたあと、二人で一緒にお風呂に入って、そのままベッドに向かった。翌朝、名残惜しい気持ちでお互い仕事に向かうことは変わらないけれど、前回よりもゆっくり夜を過ごすことが出来て、満たされた気持ちになった。
三回目のお泊りは五日前。退勤前に理不尽なことで上司に叱られ、気持ちが沈んた状態で葉山さんと会うことになってしまった。何も言っていないのに、私が落ち込んでいることを葉山さんは察してくれたようで、その日はいつも以上に私のことを甘やかしてくれた。
そして、ようやく丸一日一緒に過ごすことのできる日となった今日。
水族館でのデートを楽しみ、買い物をしてから葉山さんの家で過ごしていたら、早いもので時計はもう二十二時を指している。
明日は仕事で早いからと帰ろうとした私を引き留め、葉山さんは真剣な顔で言った。
「同棲したい」
「え……?」
唐突に告げられた内容が、うまく脳内で処理できなかった。
冷静になって考えてみても、やっぱり意味が分からない。私たちは付き合ってから、まだ半月しか経っていないのだ。
「えっ、と……?」
「そろそろ一緒に住みたい。駄目?」
「そろそろって……。あの、まだ付き合ってから一ヵ月も経ってないのに……」
「会えない時間がもったいないし、こうやって夜に真衣が帰ることになるのがすごく嫌だ。今住んでいるところより、こっちのほうが職場まで近いって言ってたよね? それなら引っ越してくれていいのに」
引っ越し、と葉山さんに言われて、私が一番最初にリアルに考えたのは、この部屋の家賃のことだった。
都心近くのきれいで広いマンション。たとえ三分の一だとしても、私に家賃を払っていけるのだろうか。
今はたまに来るだけだから、私がこの部屋で過ごす時はお手伝い程度のことしかしていない。けれど一緒に暮らすとなれば、家事の負担だって気になる。
葉山さんのように手際よく美味しいものを作れるわけではないし、作れるもののレパートリーも多くはないのだ。
それに――と考えて、ちらりと葉山さんの表情を窺う。
私が戸惑っている理由を、葉山さんは分かっていないのだろうか。
「あの……同棲って結構大変なことかなって思うんですけど、葉山さんが同棲したい理由って何ですか?」
「今のままじゃ足りないから、もっと一緒にいたいだけだよ。お互い働いている時間が違うことは分かってるし、その中で無理に会う時間を作るのは大変でしょ。帰る家が同じだったらすれ違わずに済むと思うんだけど、真衣は嫌?」
この半月の間、確かに私は少し無理をして、葉山さんと会う時間を作っていた。
翌日が遅番で、夜更かししても大丈夫な日を選んで泊まっていたけれど、それでも昼前には家を出なくてはいけない。
葉山さんが帰宅するのはお店の営業が終わってからで、いつも夜遅くなる。重ねられるのはほんの数時間だ。
(帰る家が一緒なら、お互いのスケジュールを確認して会う日を決めなくてもいいし、少なくとも毎日一緒に夜は過ごせる)
ただ一緒に過ごせる時間を増やしたいと、それだけの理由ならば、確かに同棲は悪くない選択なのだろう。
しかし私は同棲という言葉を出されて、葉山さんとの結婚が頭によぎった。
葉山さんのほうは、きっとそこまで深く考えていないのに。
(付き合って半月でそこまで考えちゃう私のほうが、おかしいのかもしれないけど)
一緒に住もうと言われてそこまで考えてしまったことを、葉山さんに察されたくはなかった。
重く受け止め過ぎた自分を気付かれないように、慎重に言葉を選ぶ。
「その……なんだか同棲っていう形にするのは、まだ早い気がして」
「帰って来たときに真衣が居てくれるだけで嬉しいんだけど、どうしても駄目?」
「でもそれは、まだ私たちが付き合いたてだから……」
今は付き合ったばかりで、浮かれていて楽しい時期。お互いのいいところしか見えなくて、悪いところがあっても気にならない。
居てくれるだけで嬉しいなんて思う期間は、きっと長くは続かないだろう。
「……鍵くらいなら受け取ってもらえる?」
「へ?」
「合鍵、渡しておくからいつでも来て。事前に連絡もいらないから」
「え? あの、でも……」
「ごめん。引っ越して欲しいなんて言われても、少し急すぎたよね。わざわざ引っ越さなくてもいいから、この部屋も真衣が帰るうちのひとつとして使ってくれたら嬉しいな」
葉山さんの家を「帰る場所のひとつ」だなんて、簡単に思えるはずがない。
しかし断ろうと口を開きかけた私に、「受け取って」と言って、葉山さんは少し強引に鍵を握らせた。
突き返すことも出来ず、戸惑いながらもキーケースに鍵を取り付ける。
「本当にいいんですか」と尋ねると、葉山さんは不安げに眉を寄せながらも笑顔を向けてくれた。
「うん。持っていてくれるだけでもいいよ」
「いや……せっかくもらったので、機会があれば使いたいですけど……。勝手に入るのはよくないと思うので、会う約束をした日に、先に入って待っているのはいいですか?」
「はは、そうしてくれたら嬉しいな。ありがとう」
お礼を言われる意味も分からず、「どういたしまして……?」とたどたどしく返事をした。
葉山さんはたまに、よく分からないところで謝ったり喜んだりする。
「あの、鍵を使うのは次の機会で、とりあえず今日は予定通りに帰ろうと思うんですけど……」
「そ……っか。いや、ごめん。送っていくね」
一瞬、葉山さんはあからさまにショックを受けた顔をしていた。すぐに取り繕って笑顔を見せてくれるけれど、こんな状況で帰ってもいいのか少しだけ心配になる。
家まで送ってもらい、別れ際。
今日のお礼に合わせて、同棲したいと言ってくれたことに対する、素直な自分の気持ちを伝える。
「葉山さん、あの……私も足りないので。これからもっといっぱい、葉山さんと会えるようにしますね。毎日は難しいですけど、また葉山さんのお部屋に入って待ってます」
「は……」
葉山さんが一瞬動きを止め、わずかに視線を下に向ける。気持ちを抑えつけるように長い息を吐いたあと、気恥ずかしそうに苦笑しながら、ふたたび私と目を合わせた。
「あー……ごめん。少しだけ上がっていい?」
「……? はい、どうぞ」
珍しいなと思いつつ家の中に招くと、玄関扉が閉まった瞬間に勢いよく口付けられる。
壁と葉山さんに挟まれて身動きが取れないまま、強引で深いキスに懸命に応えた。
貪られるようなキスが続き、息が苦しくなって葉山さんの胸を押す。名残惜しそうな吐息とともに、ゆっくりと葉山さんの顔が離れていく。
「は、葉山さ……」
「今はまだ遊びにきてくれるだけでもいいよ。でも、できるだけ早いうちに僕と生活すること、少しずつでいいから真剣に考えくれる?」
プロポーズのような言葉にぐらりと眩暈する。
咄嗟のことに返事ができずにいると、「ごめんね。おやすみ」と申し訳なさそうな笑顔で言って、葉山さんは帰っていった。
ドッドッと大きな音で衝撃を訴えてくる、自分の心臓の音がうるさい。
(次……いつ会いにいけるかな)
そんなことを考えながら、今日少し重さの増えたキーケースをぎゅっと握る。
どうやら私は葉山さんのあの縋るような声に、驚くほどに弱いらしい。
***
合鍵を受け取ってから三日。
私は今夜、真新しいその鍵を、初めて使うことになっている。
昨日の夜、葉山さんに「明日お家に行ってもいいですか」とメッセージを送った。すぐに返事をもらい、今日はそのまま泊まるつもりで準備を整え仕事に来ている。
至急対応しなければいけない案件が多く、忙しい午前を過ごしたあと、少し遅めのランチタイムとなった現在。万が一の可能性を考え、難しい手順が少ない和食のレシピを、私は必死に検索している。
その最中に流れてきたひとつの記事に、ふと目が留まった。
(都内で話題のフレンチ特集……)
少し意識が変わるだけで、見えている世界も少しずつ変化していく。
今まで気に留めていなかった情報や、雑誌の記事。知っている名前を見つけると、不思議と立ち止まってしまうようになった。
葉山さんと付き合い始めてからは、とりわけグルメ関係の特集をよく目にするようになり、今まで買わなかった雑誌を手に取ることも増えた。
「大人のデート特集」や「都内の人気店」というタイトルの記事に、葉山さんのお店はよく掲載されている。ネットの記事やSNSでも絶賛している投稿をよく見かけ、見つけるたびに私は、どんなことが書かれているのか最後まで読み込んでしまう。
今まで私が意識していなかっただけで、葉山さんは界隈でそうとう有名な人だった。
――華々しい経歴のオーナーシェフが腕を振るう最高のフレンチ
――予約必須 期待を超える感動的なフレンチディナー
――ミシュラン掲載 実力派シェフの至極のフレンチ
シャルメランジュだけではなく、若くて実力のあるオーナーシェフとして、葉山さん自身も頻繁にメディアに顔を出している。
海外の三つ星の店で修業し、若くして自分の店を出して成功しているフレンチシェフとして、業界では有名な人らしい。
三年目で早くもミシュラン一つ星を獲得したシャルメランジュは、激戦区の青山で予約困難の人気店だ。
素人の私が少し調べるだけでも、その程度の記事はいくらでも見つかる。
「これにも、葉山さんのお店出てるんだ……」
ふと目に入った、ネットニュースに転載されているグルメ特集。
若くして成功した「フレンチ界の若きプリンス」として、葉山さんの写真とインタビューが掲載されている。どの記事を見ても賞賛ばかりで、ミシュランに掲載されてからは特に、予約を取るのも困難らしい。そんな状態であるにもかかわらず、予約サイトでお店を検索すれば、好意的な口コミがずらりと並んでいた。
誇らしい気持ちになるのと同時に、そんな人が自分の恋人であることが、なんだか夢のように感じてしまう。
(本当なら、出会うきっかけすらないような人だったんだろうな)
最初の数回のデートでは、私はただ純粋に葉山さんに惹かれていくだけだった。
恋人になって会う回数が増えたこともあり、この一ヶ月で加速度的に好きな気持ちは大きくなっていく。しかしそれと同時に、最近は葉山さんの存在を遠くに感じることも増えた。
私が葉山さんの仕事について詳しく知ったのは付き合ったあとで、知れば知るほど、葉山さんと自分の人生が交わることが間違いであるかのように感じてしまう。
葉山さんにはもっと釣り合う人がいるんじゃないかと、SNSに葉山さんとの写真を投稿するインフルエンサーを、いじけた気持ちで見てしまうこともあった。
大切に思ってくれて、私の事を好きでいてくれるのだと、葉山さんは言葉でも行動でも過剰なくらいに伝えてくれる。
葉山さんと一緒にいる時はただ幸せで、他の人と比較して卑屈になるような、黒い気持ちが湧くこともない。
それでも、世間からの評価や、華やかな世界にいる写真を通して葉山さんの凄さを知ると、いつも不安になってしまうのだ。
無意識のうちに、また沈んだ溜息が溢れた。それと同時に休憩室の扉が開き、隣のデスクの先輩が顔を出す。
「あ、ごめん香月さん。少し早いんだけど戻ってこれる? 急に時間かかる問い合わせが増えて、今ちょっと対応追いつかないの」
葉山さんの記事を閉じ、慌ててスマホを鞄にしまう。黒い気持ちを押し込めるように、「大丈夫です」と笑いながら答えて席を立った。
(忙しいほうが、余計なこと考えないで済むからありがたいかも)
絶え間なく鳴る電話に出て対応し、すべての対応を終えたところで一息つく。少し時間に余裕ができると、また余計な不安が頭をちらついた。
私が日増しに葉山さんのことを好きになるのは、ちゃんと好きになる理由があるからだ。
でも、それなら――と、不安が募る。葉山さんはいったい、私の何を好きになってくれたんだろう。
大事にされている。好きだと言ってもらえている。だから不安になる必要などないと、頭ではちゃんと理解しているのだ。
(今夜会えばこの不安だって、またすぐに葉山さんが溶かしてくれるはずなんだから)
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