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遺書 【side葉山】
目を丸くし、困惑した顔で真衣がこちらを見つめている。
もう一度、今度はさきほどよりも詳細を多めに添えて、同じセリフを言い直した。
「弱ってる時に優しくしてくれた相手だから好きって思い込んでるだけで、出会い方が違ったら僕のことを好きにならなかったんでしょ。真衣は」
「へ……?」
「言ってたよね?」
意地の悪い聞き方をすると、「え……? あ……」と言いながら、真衣の顔色がどんどん青くなっていく。
泣きそうな顔をしながら、否定するように必死で首を振る姿が可愛い。そんな状況ではないのに、不意に欲を煽られてぞくりとした。
(ここで僕の機嫌を損ねたら何をされるか分からないって、思わせちゃってるのかな)
最後に抱いた場所で僕に押し倒されているのだから、いろいろと思い出すのだろう。
前回ソファで抱いたあと、「嫌いになったわけではない」と真衣は浴室で言ってくれたけれど、あれが本心だったとは思えなかった。
真衣の好意に甘えて及んだ行為を、許されたとも思っていない。
「違っ、あの……出会い方が違ったら好きにならないって言うのは、葉山さんのほうで……」
「へぇ、僕が? どうして? 僕のほうがずっと真衣のことを好きだと思うけど」
付き合ってからずっと、真衣が自分を想ってくれていることはちゃんと感じている。それでも比重は僕のほうがずっと重たくて、同棲も結婚も、望んでいるのは僕だけだった。
それなのに、どういう解釈をしたら「好きにならない」という結論に至るのかまったく分からない。
「……付き合うことになった時、私はまだ葉山さんが何をしている人なのかちゃんと知らなくて……」
「店まで来てくれたのに?」
「その、シェフなのは分かってたけど、ちゃんと葉山さんの凄さを理解できてなかったと思います。だからあの時、葉山さんのことを好きだって気持ちだけで付き合うことを決めちゃったけど……なんか、葉山さんが私のことを好きだって言っていろいろとしてくれる度に、ずっと負い目を感じていて……」
気まずそうに真衣の瞳が泳ぐ。ぽつぽつと話してくれたその内容に、「気を遣わなくていい」「何も返せていないから申し訳ない」と言っていた、前回のやり取りを思い出した。
「その負い目っていうやつ、ただ僕と別れる理由にしたいだけなら、もう言うのやめてくれる?」
驚いたように瞳が揺れて、「そういうわけじゃなくて……」と泣きそうな声で真衣が言う。
このあとに続く言葉を考えると、心臓が捻り潰されそうなほど痛くなった。
(一度好きだと思ってくれたのなら、そのままでいて欲しかったな)
溜息がこぼれそうになるのをぐっと耐え、続きを促すように真衣の名前を呼ぶ。
小さな口が何かを言おうとするが、そのあとすぐに何も発さず閉口した。
彼女の、この不安そうな表情を見ることが増えたのは、一体いつからだっただろうか。
もっと笑っていて欲しいし、安心してもらえる存在でいたい。それなのにどんどん真衣の気持ちが離れていっているように感じて、どうにか引き止めたくて必死になっている。
付き合い始めの頃のほうが、真衣はたくさん笑ってくれていた。もちろん今でも変わらず笑顔を向けてくれるけれど、最近はふと気が付いた時に沈んだ表情をしていることがある。
もっと僕だけを見て欲しい。もっと長い時間そばにいて欲しい。僕がいないと駄目だって思ってくらたらいいのに。
――なんて、そんな浅ましい考えが見透かされているように感じて、引かれているんじゃないかと不安になる。
自分が重たいと自覚しているからこそ、真衣への想いを表に出し過ぎないように気をつけていた。心の内を全部知られたら本気で嫌われてしまいそうで、いつも必死に自分を押さえつけている。
ありのままの自分で挑んだらどんな失態を犯すか、すでに身をもって経験しているのだ。
――初めて声をかけた時の失敗はその筆頭。
仕入れ先に打ち合わせへ行った帰り。普段は使うことのない駅で偶然真衣を見つけて、初めて話しかけるチャンスがきたのではないかと舞い上がった。
その結果、慌てて書いた自分の連絡先をいきなり渡そうとして拒絶され、引き際が分からずに彼女を困らせることになり、最悪の初対面となったのだ。
今思い返すと完全に不審者だ。あの時の自分がどれだけ酷い顔をしていたか、想像すらしたくない。
そんな僕に同情して話す時間を作ってくれ、そのあと無事に連絡先を交換できたから、現在は付き合うまでに関係は進んでいる。
付き合うまでの過程でも失敗ばかりで、正直なところ、真衣がどうして僕と付き合ってくれたのか理解できない。
体調を崩したと連絡をもらい、真衣に許可をもらう前から先走って見舞い用に食事を用意していたことも、思い込みが激しくて気持ち悪い行動だった。
店に来てくれたお兄さんを敵視して、ライバルを牽制するように嫌味を言ってしまったことも恥ずかしい。
真衣が笑って受け流してくれるから、何とか次の機会をもらえているだけ。
暴走している自分は側から見るとかなり危険に映るらしく、マネージャーを任せている黒部には、「相手が可哀想だから、嫌がられたらその時は潔く身を引けよ」と言われている。
そうならないために触れたい衝動は全部抑えて、良い面だけを見せようと振る舞った。そんな僕を、真衣は好意的に受け取ってくれたらしい。
少しの失態くらいなら受け入れてもらえるくらいに、心を許してもらえている。
話すたびに好きになって、彼女の全部が欲しくなる。恋なんて可愛い単語で表せないほどドロドロした感情は、真衣の口から好きだと言われた瞬間に、自分の意思では抑えきれなくなった。
告白して、いい返事をもらえたことに浮かれて、雰囲気を壊さないように言葉を選び、そのまま家に連れ込んだ。一度触れるともう止まらなくて、したかったことを全部した。
行為のあと、ひどく不安そうな顔で僕を見るようになった真衣の姿に、自分の欲をぶつけたことを激しく後悔したけれどもう遅い。
翌朝優しく接することで信頼を取り戻そうとしたけれど、すぐに別れを切り出されるんじゃないかと、内心ずっと不安だった。
しかし真衣は、昨夜の僕の行動を細かく覚えていないらしい。
――落ち着いていて格好いい。
――恋愛慣れしていそうで余裕がある。
そんな感想を告げられて、騙しているようで心苦しくなりながらも、訂正せずに聞き流した。今後はそう思ってもらえるように振る舞おうと心に決めて、本心を隠すように息を吐いて思考を切り替える。
その日の振る舞いでどうにか挽回できたけれど、あんなに情けない自分を、もう二度と真衣には見せたくない。
せっかく付き合えたのだから年上らしく、頼りがいのある恋人だと思ってもらいたかった。
それなのに結局いつまでも自分だけが好きな気がして、焦りが出ると失敗する。
――同棲したいと言ったら断られた。
だけど合鍵は受け取ってくれたし、今ではここが自宅のように僕と同じ家に帰ってきてくれる。
――真衣からセックスに誘われたことはない。
だけど行為自体は嫌がらないし、終わったあともベッドの中で僕に甘えてくれる。
――余裕があってかっこいいと思っていて欲しい。
それなのにどこまで僕を受け入れてくれるのか、試すようなことばかりしてしまう。
彼女の生活に自分の存在を刷り込むように頻繁に家に呼んで、そんなタイミングで聞いてしまった「純粋に楽しいって思えてた頃に戻りたいなぁ……」という彼女の独り言。
強引に囲い込もうとしていることがバレて、僕に嫌気が差したのだと思った。
何か不満があるなら教えて欲しいと伝えたら、好きになったのが間違いだったと告げられて、乾いた笑いが漏れる。
そこからはもう頭が真っ白で、自分が何を口走ってしまったのか、正直よく覚えていない。
「弱っている時に優しくされたからそう思い込んだだけ」と真衣に言われて、看病しに行ったことをきっかけに彼女が自分を好きになってくれたのだと知った。それと同時に、他の奴が見舞いに来ていたらそっちに流される可能性もあったのかと、最悪な想像をして気分が悪くなる。
何よりも大事に想っている子が、震える声で僕を否定する言葉を紡ぐ。
「違う出会い方だったら好きにならなかった」という発言を聞いた瞬間、本気で自分の心臓が止まったかと思った。
決定的な別れの言葉を聞きたくなくて、笑いながら話を流した。それ以上は何も言わせないように口を塞ぎ、まだ僕を受け入れてくれるのか知りたくて、無意識のうちに押し倒していた。
自分の不安を全部ぶつけるような抱き方をして、僕が望む通りの反応をしてくれることに悦びを感じ、受け入れようとしてくれる優しさに縋った。
終わったあとに泣かせたことを謝ったけれど、「僕のこと嫌になってない?」というずるい質問をする自分が情けなかった。
――こんな聞き方をして、真衣が本音を言うわけがないのに。
それでも今すぐに別れを切り出されなかったことに安心し、彼女の良心に甘えている自分に嫌悪感が募る。
真衣の中に僕を好きでいてくれる気持ちが少しでも残っているなら、もうそれだけで十分だ。同じ熱量の気持ちを返してもらえるなんて、最初から思っていない。
まだ付き合ってくれるなら、これ以上は間違えないようにしたい。今まで以上に大事にしないと、近いうちに本当に駄目になる。
そう考えていた矢先、「荷物の回収がしたいので今からお部屋に寄らせてください」と送られていたメッセージ。雑誌の取材で、僕がメッセージを確認できない時間。すぐに返事がこないことを狙って送られたようなその一文に、すでに手遅れだったと知って、真っ黒に心が塗りつぶされた。
ただの出張だとか、予定より仕事が長引いたという言葉を聞くたびに心が死んでいく。もう僕に会う気はないのかと思うと苦しくて、なんでもいいから会って話をしたかった。
真衣がどれだけ言葉を尽くしてくれても、顔を見て話すまで安心できない。とにかく一度どうにか家に呼ぼうとした結果、半ば脅しのようなことを口走っていた。
どうしても別れたくないから、簡単に切れない繋がりが欲しい。
嘘をついて出て行ったわけではないと分かってからも、結婚したいと本心を言ってしまったあとでは、もうなかったことにはできなかった。
僕がどれだけ真衣を必要としているかを知ったら、優しい彼女は簡単に僕を切り捨てられなくなるだろう。
こんなにも重たくてドロドロとした感情は隠したいのに、全部知って欲しいとも思ってしまう。
――長い沈黙のあと、真衣がゆっくりと口を開く。
「ほっ……本当に、葉山さんに申し訳ないって思ってただけで、別れたいなんて考えてないです……」
震えていて、いまにも泣きそうな声だった。
申し訳ないことを強いているのは僕のほうで、真衣が謝ることなんて何もない。
今だって、真衣は僕に押し倒されて、結婚しないなら家から出さないと脅されているような状況だ。
(自分の行動が最悪すぎて、ここからどう挽回すればいいのか分からなくなる……)
優しい恋人らしく振る舞うなら、今すぐに体勢を変え、座った状態でゆっくり話すべきなのだろう。
それなのに、もし真衣が逃げ出そうとしたら……と考えると、怖くて動くことができない。かと言ってこのまま無理やり手を出したら、本当に別れる原因になりかねないのだ。
話をして、真衣の本音を聞いて安心しない限り、ここから引くことができない。
「それじゃあ、僕の過去の恋人について聞いてきたのはどういう意図? ヨリを戻しそうな相手がいないか探って、そっちとくっつけて真衣は別れようとしてるのかなって疑ってたんだけど……」
「え? あ、ちっ、違います。もう本当……なんか私、勘違いさせるようなことばっかり言ってるけど、本当にそういうつもりじゃなくて、葉山さんが死にたくなるほど好きになった人が知りたくて、だから……」
「は……?」
真衣に振られそうになってる今が一番死にそうだけど? ――と、そんな重たい宣言をするわけにもいかず、思うだけでぐっと堪える。
そういえば真衣はさっきも、何か気になることを言っていた。
「あのさ、何か勘違いされている気がするんだけど、さっき真衣が言ってた受け取りたくなかったっていう……」
最後まで言い切る前に、机の上のスマートフォンが低い音で震え始めて会話を遮る。
虫の羽音のような音が響き、少しだけ緊張感が薄れた空間で、真衣がおろおろと視線を彷徨わせた。
「あの、葉山さんの電話、鳴ってます……」
「……そうだね」
溜息交じりにそれだけ言って、テーブルの上に伏せてあったスマートフォンを持ち上げる。画面にマネージャーの名前が表示されているのが見え、すぐに拒否のアイコンをタップした。
「えっ……? あの、出ないんですか?」
「うん。あとでかけ直すよ」
「でも、今少しだけ名前見えちゃったんですけど、黒部さんからってことはお仕事の電話ですよね……?」
そんな会話をしていたら、再度テーブルの上で僕の携帯が震え始める。しばらく放置しても止まる気配がなく、ずいぶんと長い時間、応答されるのを待っているようだ。
「あの……何か大事な用事かもしれませんし、私も気になっちゃうので……。私と話をする前に、ちゃんと電話して欲しいです」
気を遣うように言われ、もう一度テーブルの上に視線を向ける。
どうせ大したことではないと思うけれど、真衣に言われると断れない。溜息をひとつ落としてから、スマートフォンを持ち上げて耳に当てた。
隣で真衣がゆっくりと上体を起こしたけれど、戸惑うようにこちらを見ているだけで、逃げようとする素振りはない。
「はい。何か用?」
「はぁぁ……。昨日、この世の終わりみたいな顔して帰ったオーナーシェフの生存確認だよ。電話に出なかったらこのまま家まで行くところだった」
「はは、勘弁してよ。そんなに死にそうな顔してた?」
「してたね。まあ俺は見慣れてるけど。仕事中の顔しか知らないスタッフはビビッたんだろ。相当ヤバい顔してたって自覚しとけば?」
そういう自覚ならちゃんとしている。
笑っていないと怖いとか、無表情だと圧を感じるとか、昔からよく言われていたことだ。
だから意識的に、普段から柔らかい表情を作るようにしているのだ。けれど昨日はそれすらもできていなかったのだろう。一緒に働いてくれているスタッフにも申し訳ない。
電話口で黒部に謝り、大丈夫だからと言って電話を切った。
思えば、その「相当ヤバい顔」を、今日はずっと真衣に向けていたことになる。
かなり怖い思いをさせていただろうに、真衣はただ不安そうに僕の顔を覗き込んだ。
「電話、大丈夫でしたか……?」
「あー……うん。僕の生存確認だって。昨日はずっと真衣のことを考えていて、仕事中かなり暗い顔をしてたから心配させたみたい。だからって大袈裟だよね」
「き、昨日の私のせいですか……? あの、仕事中にまで気にさせていると思ってなくて、本当にごめんなさい……」
「え? あ……いや、違うよ。ごめんね。真衣のことを責めようと思って言ったわけじゃないんだ。嘘をつかれてるんじゃないかって、勝手に勘繰ったのは僕なんだから」
こんなに何度も謝らせてしまうのも、僕がずっと怖がらせるような顔で話していたからなのだろうか。
申し訳ないとかごめんなさいと言わせるばかりで、いつまでも真衣の本心が見えてこない。話しやすいように柔らかい表情を作ろうとすると、真衣がゆっくりと口を開いた。
「生存確認は、大袈裟じゃないと思います。葉山さんがそうなるの二回目だから、本当に心配になったんだと思いますよ」
真衣のことで悩み、黒部の前で弱音を吐いた回数は、正直二回どころではない。
それなのにきっぱりと言い切られた「二回目」という言葉が引っ掛かり、電話の前に話そうとしていた話題をもう一度切り出した。
「二回目っていうのは、僕が過去に一度死にそうな目に遭ってるってこと?」
「死にそうな目っていうか、葉山さんが自分で……」
「それは、さっき真衣が言ってた遺書を受け取りたくないって話と関係がある?」
当たり前ですよね? とでも言いたそうに怪訝な表情を浮かべ、真衣が一度頷く。
そのあとで、「思い出したくないことだったらごめんなさい」と小さな声で付け加えられ、少しだけ状況を理解した。
「あー……うん。鏡で見たわけじゃないから、どんな顔だったのか自分では分からないんだけど、僕はそんな勘違いをされるくらい酷い顔をしてたの?」
「え……?」
「僕が今にも死にそうな顔をしていて、だから遺書だと思われたのかな」
たとえそうだったとしても、遺書だと思い込むのは相当無理があると思うけれど。
手渡された紙を見て、これは遺書だと勘違いする子がいるなんて、考えてもみなかった。
(ああ、でも……過去にそういう経験をしたって言っていたっけ?)
目の前で線路に飛び込まれたと、さっき真衣は話していたはずだ。おそらくそいつが、真衣に遺書を託した奴なのだろう。
二人でビュッフェに行った際、「過去にいろいろあって、ああいうものを受け取るのが怖いんです」と真衣は話していたけれど、遺書を渡され目の前で自殺されるなんて、恐ろしい記憶として脳に刻まれて当然だ。
てっきり、過去にしつこいナンパに遭って怖い思いをした、という類の話だと勘違いしていたけれど、もっと根深いものらしい。
「その……死にそうな顔っていうか、何かを怖がってるような目がどこか似ていて……。葉山さんのすごく不安そうな顔が、遺書を渡してきた人と同じだったから、思い出したら怖くなって……」
きっと、真衣の中で強いトラウマになっているのだろう。
俯きがちに出された声が震えている。
無理にこんな話を引き出して、思い出さるような真似はしないほうがよかった。
「真衣。ごめん、もう――」
「でも、勘違いってことは……葉山さんは違ったんですか?」
ゆっくりと顔を上げた真衣が、縋るようにこちらを見つめてくる。
今まで気付いてあげられなかったことに申し訳なさを感じながら、「まあ、そうだね……」と肯定すると、真衣は分かりやすく固まってしまった。
数秒経って動き出したかと思うと、不思議そうな顔で首を傾げる。
「えっと、それじゃあ何の紙……?」
「えっ……」
引き攣った声が出てしまい、言ったあとで自分の口を押さえる。
(今頃になって、それを掘り返されるのか……)
忘れて欲しいと思っていた過去の失敗を、また引っ張り出されている気分だ。細かく話すことは避けたいけれど、ちゃんと説明しなければ真衣には伝わらないだろう。
こんな形で恥の上塗りをすることになるなんて、思ってもいなかった。
「……ただの、自分の連絡先を書いた紙だったよ。あの時は名刺を持ち歩いてなかったから、それしかなくて」
「連絡先……?」
本気で意味が分からないとでも言いたげに、さらに真衣が表情を曇らせる。
自分でも、失敗して情けない結果になった行動だと反省しているのだ。そろそろ察してくれないだろうか。
「連絡先なら、その場でスマホを出して交換すればいいだけじゃないですか……?」
「あー……うん。今思うと本当に恥ずかしいけど、真衣のことを怖がらせないように、僕なりに気を遣ったつもりだったんだよ。その場で無理やり聞き出す形になるのは不審がられると思って、とりあえず自分の連絡先を渡すだけなら、安全だと思ってもらえるかなって考えてそうしたんだけど……」
怖がらせないためと言いつつ、受け取ってすらもらえなかったことが予想外で、結局は強引に手渡そうとしていたのだ。
本当に格好がつかない。説明したばかりだけれど、今すぐに真衣の記憶から消して欲しい。
「え? あの……でも、それはおかしくないですか?」
「おかしい? 何が?」
「葉山さんが初対面の私に連絡先を渡そうとする意味がよく分からなくて……。その、今は付き合ってますけど、あの時は会話すらまだでしたよね? 駅で見かけただけの一瞬で、私の何を気に入ってくれたんだろうって思うと……」
不安そうな顔で覗かれ、内心で頭を抱える。
これ以上を話すと、本当にすべてを打ち明けることにりそうだ。
もうこの辺りで話を終えたいのに、真衣にじっと見つめられると誤魔化すこともできない。
溜息をひとつ落とし、重たい口を開く。
「駅で会う前から、僕が一方的に知ってただけだよ。仕入れに使ってる市場で、何度か真衣を見かけたことがあるから」
「……え?」
「仕事でよく行ってない?」
「市場の中の事務所とか管理棟、何回か行ったことありますけど……」
「作業着で働く人が多い中でスーツ姿の女の子がいたら、やっぱり目立つし目を引くよ。だから最初は、僕もそれだけが理由で見てたはずだったんだけど……」
本当に余計なことまで言ってしまいそうになり、一旦話をするのを止めた。
(どこまでの話なら、重たいと思われずに伝えることが出来るんだろう)
悩んだところでもう手遅れかもしれないが、ずっと見ていたことや、名前まで知っていたこと。市場の人に探りを入れて、真衣の職場やメンテナンスの日まで把握していたことを知られたら、さすがに引かれるだろう。まるでストーカーみたいだと、自分でも思っていたくらいだ。
仕事の邪魔になりそうで彼女に話しかけられなかったけれど、ずっと遠目に見ていて話す機会を窺っていた。
――こんな気持ちの悪いことを、本人に言えるわけがない。
「葉山さん……?」
「その……真衣と一緒に来てたメンテナンスの人、かな。その人が鍵を失くしたって泣きそうになってた時に、大丈夫だよって言いながら笑顔で慰めてた真衣がすごく印象的だったから、それでよく覚えてた」
決して嘘は言っていない。
ただ、伏せている内容もたくさんあった。
あの時、真衣に笑いかけてもらっている同僚らしき男が羨ましくて仕方なくて、彼女を探してしまう理由を自覚したのだ。
そこからさらに真衣のことを目で追う回数は増え、声をかける機会がないかと、いつも様子を窺っていたのである。
「あの……多分それ、新入社員の子が社用車の鍵を落としたかもしれないって、報告してきた時だと思うんですけど……」
「ああ、そうなんだ」
「二年くらい前の話ですよね……?」
おそるおそる問われて、ぶわりと背中に汗が吹き出す。
二年という長い期間、ただひたすら目で追っていただけなんて、もう完全に不審者だ。
「葉山さんって、そんなに前から私のこと知っていたんですか?」
「……っ、ごめん。気持ち悪いよね」
「え? な、何がですか?」
「そんなに前から観察するようなことをしていて、会話すらしたことないのに一方的に名前まで知っていて……」
最低限のことしか話したくないと思っていたのに、結局そんなことまで白状する羽目になった。
――余裕があって格好いい。
付き合った翌朝に、真衣はそう言ってくれた。そのイメージを崩したくないのに、素の自分が出てくると何ひとつ上手くいかない。
しかしそんな僕の言葉を聞いて、真衣は安心したように表情を緩ませる。
「それじゃあ本当に、未練がある人とかいないんですよね?」
「これだけ真衣のことが好きって言ってるんだから当たり前でしょ。僕が誰かに未練があるかもしれないって考え、本当にどこから出てきたの?」
「う……その、遺書を書くほど葉山さんが苦しんだ原因が、すごく好きな人に捨てられたからなのかなって想像していて……。そう考えると、私にいろいろしてくれるのも辻褄が合うから」
そう言いながら、真衣の顔がどんどん赤く染まっていく。
「葉山さんが寂しい時に偶然私が近くにいて、ただの代わりとして大事にされてるだけかもしれないとか思ってて……。あ、はは……ほんと、変な勘違いして勝手に苦しくなって……もう本当に恥ずかしいです……」
僕の肩に顔を埋めるように正面から抱きつかれ、今日初めて甘えてくれたことに嬉しくなった。
恥ずかしさに耐えるように、「うぅ……」と真衣が声を漏らす。
僕と同じように恥ずかしがっているだけなのに、どうして真衣がやると、こんなにも可愛く思えるのだろう。
「真衣のことが大好きだってずっと言ってきたつもりだったけど、もしかして全然伝わってなかった?」
「つ……伝わってましたけど、付き合ってから私は全部葉山さんにしてもらうばっかりで、よくないって分かってるのに何もできなかったから……。愛想を尽かされるんじゃないかって不安で、それに、葉山さんのことがすごく好きだから、ただ恩を感じて優しくされているだけなら申し訳ないなって思ってたんです。話してみると本当に全部間違っていて、すごく恥ずかしいんですけど……」
抱きつかれているせいで顔が見れない。
だけど、今の真衣が真っ赤になって俯いているのだろうと、なんとなく想像できてしまう。
絶対に可愛い顔をしているのに、見れないなんてもったいない。
「真衣」
「……っ」
名前を呼んだ時の反応だけで、真衣の戸惑いが伝わってくる。ぴたりとくっついていた上半身をゆっくりと離し、恥ずかしそうにしながらも真衣はちゃんと顔を見せてくれた。
「赤くなってる。可愛い」
「変なことばっかり考えてて、全然可愛くないです……。あの……私は、葉山さんに無理をさせてない……?」
「無理なんて何ひとつしてないよ。ずっと前からやりたいと思ってたこと、今は全部させてもらってる。真衣が一緒にいてくれてすごく嬉しい」
心底安心したと言わんばかりに、真衣の表情が柔らかくほころぶ。
思わず顔を近付けると、嬉しそうに息を吐いてキスを受け入れてくれた。ずっと許してもらうばっかりで、真衣がどうして「何もできていない」と悩むのか理解が出来ない。
(こんなの、僕のほうがよっぽど貰いすぎている)
名残惜しく感じながらもゆっくりと顔を離し、真衣の表情を窺う。
キスをしたあとに見せてくれる、この少しとろんっとした顔が可愛くてたまらない。
「いろいろと誤解は解けたと思うけど、まだ返事をもらってないな」
「返事……?」
「重たいとか面倒臭いって思われたくなくて、同棲だってすごく譲歩して提案したんだよね。付き合って半月で、結婚したいって言っても頷いてもらえないの分かってたから」
言うつもりなんてなかったけれど、それ以上に黙っておきたかった出会う前のことまで、もう真衣には話してしまったのだ。
ずっと結婚したいと思っていたこともどうせバレている。隠していても仕方ないだろう。
「これからもずっと一緒にいて欲しい。僕と結婚してくれますか」
驚いたように一瞬動きを止めた真衣が、数回瞬きしてから口を開く。
勢いに任せて「結婚して」と玄関で口走ってしまった時とは違い、戸惑うことなく受け入れてくれているみたいだ。
「嬉しいけど、私で務まるのかな……?」
「そんなに難しく考えないでよ。真衣以外と結婚したいって考えたことないんだ。嫌じゃないなら約束して」
照れくさそうに頷いた真衣が、可愛らしくふわふわと笑う。
もう一度彼女のほうから抱きついてくれて、その体温に泣きそうなくらいに安心した。
もう一度、今度はさきほどよりも詳細を多めに添えて、同じセリフを言い直した。
「弱ってる時に優しくしてくれた相手だから好きって思い込んでるだけで、出会い方が違ったら僕のことを好きにならなかったんでしょ。真衣は」
「へ……?」
「言ってたよね?」
意地の悪い聞き方をすると、「え……? あ……」と言いながら、真衣の顔色がどんどん青くなっていく。
泣きそうな顔をしながら、否定するように必死で首を振る姿が可愛い。そんな状況ではないのに、不意に欲を煽られてぞくりとした。
(ここで僕の機嫌を損ねたら何をされるか分からないって、思わせちゃってるのかな)
最後に抱いた場所で僕に押し倒されているのだから、いろいろと思い出すのだろう。
前回ソファで抱いたあと、「嫌いになったわけではない」と真衣は浴室で言ってくれたけれど、あれが本心だったとは思えなかった。
真衣の好意に甘えて及んだ行為を、許されたとも思っていない。
「違っ、あの……出会い方が違ったら好きにならないって言うのは、葉山さんのほうで……」
「へぇ、僕が? どうして? 僕のほうがずっと真衣のことを好きだと思うけど」
付き合ってからずっと、真衣が自分を想ってくれていることはちゃんと感じている。それでも比重は僕のほうがずっと重たくて、同棲も結婚も、望んでいるのは僕だけだった。
それなのに、どういう解釈をしたら「好きにならない」という結論に至るのかまったく分からない。
「……付き合うことになった時、私はまだ葉山さんが何をしている人なのかちゃんと知らなくて……」
「店まで来てくれたのに?」
「その、シェフなのは分かってたけど、ちゃんと葉山さんの凄さを理解できてなかったと思います。だからあの時、葉山さんのことを好きだって気持ちだけで付き合うことを決めちゃったけど……なんか、葉山さんが私のことを好きだって言っていろいろとしてくれる度に、ずっと負い目を感じていて……」
気まずそうに真衣の瞳が泳ぐ。ぽつぽつと話してくれたその内容に、「気を遣わなくていい」「何も返せていないから申し訳ない」と言っていた、前回のやり取りを思い出した。
「その負い目っていうやつ、ただ僕と別れる理由にしたいだけなら、もう言うのやめてくれる?」
驚いたように瞳が揺れて、「そういうわけじゃなくて……」と泣きそうな声で真衣が言う。
このあとに続く言葉を考えると、心臓が捻り潰されそうなほど痛くなった。
(一度好きだと思ってくれたのなら、そのままでいて欲しかったな)
溜息がこぼれそうになるのをぐっと耐え、続きを促すように真衣の名前を呼ぶ。
小さな口が何かを言おうとするが、そのあとすぐに何も発さず閉口した。
彼女の、この不安そうな表情を見ることが増えたのは、一体いつからだっただろうか。
もっと笑っていて欲しいし、安心してもらえる存在でいたい。それなのにどんどん真衣の気持ちが離れていっているように感じて、どうにか引き止めたくて必死になっている。
付き合い始めの頃のほうが、真衣はたくさん笑ってくれていた。もちろん今でも変わらず笑顔を向けてくれるけれど、最近はふと気が付いた時に沈んだ表情をしていることがある。
もっと僕だけを見て欲しい。もっと長い時間そばにいて欲しい。僕がいないと駄目だって思ってくらたらいいのに。
――なんて、そんな浅ましい考えが見透かされているように感じて、引かれているんじゃないかと不安になる。
自分が重たいと自覚しているからこそ、真衣への想いを表に出し過ぎないように気をつけていた。心の内を全部知られたら本気で嫌われてしまいそうで、いつも必死に自分を押さえつけている。
ありのままの自分で挑んだらどんな失態を犯すか、すでに身をもって経験しているのだ。
――初めて声をかけた時の失敗はその筆頭。
仕入れ先に打ち合わせへ行った帰り。普段は使うことのない駅で偶然真衣を見つけて、初めて話しかけるチャンスがきたのではないかと舞い上がった。
その結果、慌てて書いた自分の連絡先をいきなり渡そうとして拒絶され、引き際が分からずに彼女を困らせることになり、最悪の初対面となったのだ。
今思い返すと完全に不審者だ。あの時の自分がどれだけ酷い顔をしていたか、想像すらしたくない。
そんな僕に同情して話す時間を作ってくれ、そのあと無事に連絡先を交換できたから、現在は付き合うまでに関係は進んでいる。
付き合うまでの過程でも失敗ばかりで、正直なところ、真衣がどうして僕と付き合ってくれたのか理解できない。
体調を崩したと連絡をもらい、真衣に許可をもらう前から先走って見舞い用に食事を用意していたことも、思い込みが激しくて気持ち悪い行動だった。
店に来てくれたお兄さんを敵視して、ライバルを牽制するように嫌味を言ってしまったことも恥ずかしい。
真衣が笑って受け流してくれるから、何とか次の機会をもらえているだけ。
暴走している自分は側から見るとかなり危険に映るらしく、マネージャーを任せている黒部には、「相手が可哀想だから、嫌がられたらその時は潔く身を引けよ」と言われている。
そうならないために触れたい衝動は全部抑えて、良い面だけを見せようと振る舞った。そんな僕を、真衣は好意的に受け取ってくれたらしい。
少しの失態くらいなら受け入れてもらえるくらいに、心を許してもらえている。
話すたびに好きになって、彼女の全部が欲しくなる。恋なんて可愛い単語で表せないほどドロドロした感情は、真衣の口から好きだと言われた瞬間に、自分の意思では抑えきれなくなった。
告白して、いい返事をもらえたことに浮かれて、雰囲気を壊さないように言葉を選び、そのまま家に連れ込んだ。一度触れるともう止まらなくて、したかったことを全部した。
行為のあと、ひどく不安そうな顔で僕を見るようになった真衣の姿に、自分の欲をぶつけたことを激しく後悔したけれどもう遅い。
翌朝優しく接することで信頼を取り戻そうとしたけれど、すぐに別れを切り出されるんじゃないかと、内心ずっと不安だった。
しかし真衣は、昨夜の僕の行動を細かく覚えていないらしい。
――落ち着いていて格好いい。
――恋愛慣れしていそうで余裕がある。
そんな感想を告げられて、騙しているようで心苦しくなりながらも、訂正せずに聞き流した。今後はそう思ってもらえるように振る舞おうと心に決めて、本心を隠すように息を吐いて思考を切り替える。
その日の振る舞いでどうにか挽回できたけれど、あんなに情けない自分を、もう二度と真衣には見せたくない。
せっかく付き合えたのだから年上らしく、頼りがいのある恋人だと思ってもらいたかった。
それなのに結局いつまでも自分だけが好きな気がして、焦りが出ると失敗する。
――同棲したいと言ったら断られた。
だけど合鍵は受け取ってくれたし、今ではここが自宅のように僕と同じ家に帰ってきてくれる。
――真衣からセックスに誘われたことはない。
だけど行為自体は嫌がらないし、終わったあともベッドの中で僕に甘えてくれる。
――余裕があってかっこいいと思っていて欲しい。
それなのにどこまで僕を受け入れてくれるのか、試すようなことばかりしてしまう。
彼女の生活に自分の存在を刷り込むように頻繁に家に呼んで、そんなタイミングで聞いてしまった「純粋に楽しいって思えてた頃に戻りたいなぁ……」という彼女の独り言。
強引に囲い込もうとしていることがバレて、僕に嫌気が差したのだと思った。
何か不満があるなら教えて欲しいと伝えたら、好きになったのが間違いだったと告げられて、乾いた笑いが漏れる。
そこからはもう頭が真っ白で、自分が何を口走ってしまったのか、正直よく覚えていない。
「弱っている時に優しくされたからそう思い込んだだけ」と真衣に言われて、看病しに行ったことをきっかけに彼女が自分を好きになってくれたのだと知った。それと同時に、他の奴が見舞いに来ていたらそっちに流される可能性もあったのかと、最悪な想像をして気分が悪くなる。
何よりも大事に想っている子が、震える声で僕を否定する言葉を紡ぐ。
「違う出会い方だったら好きにならなかった」という発言を聞いた瞬間、本気で自分の心臓が止まったかと思った。
決定的な別れの言葉を聞きたくなくて、笑いながら話を流した。それ以上は何も言わせないように口を塞ぎ、まだ僕を受け入れてくれるのか知りたくて、無意識のうちに押し倒していた。
自分の不安を全部ぶつけるような抱き方をして、僕が望む通りの反応をしてくれることに悦びを感じ、受け入れようとしてくれる優しさに縋った。
終わったあとに泣かせたことを謝ったけれど、「僕のこと嫌になってない?」というずるい質問をする自分が情けなかった。
――こんな聞き方をして、真衣が本音を言うわけがないのに。
それでも今すぐに別れを切り出されなかったことに安心し、彼女の良心に甘えている自分に嫌悪感が募る。
真衣の中に僕を好きでいてくれる気持ちが少しでも残っているなら、もうそれだけで十分だ。同じ熱量の気持ちを返してもらえるなんて、最初から思っていない。
まだ付き合ってくれるなら、これ以上は間違えないようにしたい。今まで以上に大事にしないと、近いうちに本当に駄目になる。
そう考えていた矢先、「荷物の回収がしたいので今からお部屋に寄らせてください」と送られていたメッセージ。雑誌の取材で、僕がメッセージを確認できない時間。すぐに返事がこないことを狙って送られたようなその一文に、すでに手遅れだったと知って、真っ黒に心が塗りつぶされた。
ただの出張だとか、予定より仕事が長引いたという言葉を聞くたびに心が死んでいく。もう僕に会う気はないのかと思うと苦しくて、なんでもいいから会って話をしたかった。
真衣がどれだけ言葉を尽くしてくれても、顔を見て話すまで安心できない。とにかく一度どうにか家に呼ぼうとした結果、半ば脅しのようなことを口走っていた。
どうしても別れたくないから、簡単に切れない繋がりが欲しい。
嘘をついて出て行ったわけではないと分かってからも、結婚したいと本心を言ってしまったあとでは、もうなかったことにはできなかった。
僕がどれだけ真衣を必要としているかを知ったら、優しい彼女は簡単に僕を切り捨てられなくなるだろう。
こんなにも重たくてドロドロとした感情は隠したいのに、全部知って欲しいとも思ってしまう。
――長い沈黙のあと、真衣がゆっくりと口を開く。
「ほっ……本当に、葉山さんに申し訳ないって思ってただけで、別れたいなんて考えてないです……」
震えていて、いまにも泣きそうな声だった。
申し訳ないことを強いているのは僕のほうで、真衣が謝ることなんて何もない。
今だって、真衣は僕に押し倒されて、結婚しないなら家から出さないと脅されているような状況だ。
(自分の行動が最悪すぎて、ここからどう挽回すればいいのか分からなくなる……)
優しい恋人らしく振る舞うなら、今すぐに体勢を変え、座った状態でゆっくり話すべきなのだろう。
それなのに、もし真衣が逃げ出そうとしたら……と考えると、怖くて動くことができない。かと言ってこのまま無理やり手を出したら、本当に別れる原因になりかねないのだ。
話をして、真衣の本音を聞いて安心しない限り、ここから引くことができない。
「それじゃあ、僕の過去の恋人について聞いてきたのはどういう意図? ヨリを戻しそうな相手がいないか探って、そっちとくっつけて真衣は別れようとしてるのかなって疑ってたんだけど……」
「え? あ、ちっ、違います。もう本当……なんか私、勘違いさせるようなことばっかり言ってるけど、本当にそういうつもりじゃなくて、葉山さんが死にたくなるほど好きになった人が知りたくて、だから……」
「は……?」
真衣に振られそうになってる今が一番死にそうだけど? ――と、そんな重たい宣言をするわけにもいかず、思うだけでぐっと堪える。
そういえば真衣はさっきも、何か気になることを言っていた。
「あのさ、何か勘違いされている気がするんだけど、さっき真衣が言ってた受け取りたくなかったっていう……」
最後まで言い切る前に、机の上のスマートフォンが低い音で震え始めて会話を遮る。
虫の羽音のような音が響き、少しだけ緊張感が薄れた空間で、真衣がおろおろと視線を彷徨わせた。
「あの、葉山さんの電話、鳴ってます……」
「……そうだね」
溜息交じりにそれだけ言って、テーブルの上に伏せてあったスマートフォンを持ち上げる。画面にマネージャーの名前が表示されているのが見え、すぐに拒否のアイコンをタップした。
「えっ……? あの、出ないんですか?」
「うん。あとでかけ直すよ」
「でも、今少しだけ名前見えちゃったんですけど、黒部さんからってことはお仕事の電話ですよね……?」
そんな会話をしていたら、再度テーブルの上で僕の携帯が震え始める。しばらく放置しても止まる気配がなく、ずいぶんと長い時間、応答されるのを待っているようだ。
「あの……何か大事な用事かもしれませんし、私も気になっちゃうので……。私と話をする前に、ちゃんと電話して欲しいです」
気を遣うように言われ、もう一度テーブルの上に視線を向ける。
どうせ大したことではないと思うけれど、真衣に言われると断れない。溜息をひとつ落としてから、スマートフォンを持ち上げて耳に当てた。
隣で真衣がゆっくりと上体を起こしたけれど、戸惑うようにこちらを見ているだけで、逃げようとする素振りはない。
「はい。何か用?」
「はぁぁ……。昨日、この世の終わりみたいな顔して帰ったオーナーシェフの生存確認だよ。電話に出なかったらこのまま家まで行くところだった」
「はは、勘弁してよ。そんなに死にそうな顔してた?」
「してたね。まあ俺は見慣れてるけど。仕事中の顔しか知らないスタッフはビビッたんだろ。相当ヤバい顔してたって自覚しとけば?」
そういう自覚ならちゃんとしている。
笑っていないと怖いとか、無表情だと圧を感じるとか、昔からよく言われていたことだ。
だから意識的に、普段から柔らかい表情を作るようにしているのだ。けれど昨日はそれすらもできていなかったのだろう。一緒に働いてくれているスタッフにも申し訳ない。
電話口で黒部に謝り、大丈夫だからと言って電話を切った。
思えば、その「相当ヤバい顔」を、今日はずっと真衣に向けていたことになる。
かなり怖い思いをさせていただろうに、真衣はただ不安そうに僕の顔を覗き込んだ。
「電話、大丈夫でしたか……?」
「あー……うん。僕の生存確認だって。昨日はずっと真衣のことを考えていて、仕事中かなり暗い顔をしてたから心配させたみたい。だからって大袈裟だよね」
「き、昨日の私のせいですか……? あの、仕事中にまで気にさせていると思ってなくて、本当にごめんなさい……」
「え? あ……いや、違うよ。ごめんね。真衣のことを責めようと思って言ったわけじゃないんだ。嘘をつかれてるんじゃないかって、勝手に勘繰ったのは僕なんだから」
こんなに何度も謝らせてしまうのも、僕がずっと怖がらせるような顔で話していたからなのだろうか。
申し訳ないとかごめんなさいと言わせるばかりで、いつまでも真衣の本心が見えてこない。話しやすいように柔らかい表情を作ろうとすると、真衣がゆっくりと口を開いた。
「生存確認は、大袈裟じゃないと思います。葉山さんがそうなるの二回目だから、本当に心配になったんだと思いますよ」
真衣のことで悩み、黒部の前で弱音を吐いた回数は、正直二回どころではない。
それなのにきっぱりと言い切られた「二回目」という言葉が引っ掛かり、電話の前に話そうとしていた話題をもう一度切り出した。
「二回目っていうのは、僕が過去に一度死にそうな目に遭ってるってこと?」
「死にそうな目っていうか、葉山さんが自分で……」
「それは、さっき真衣が言ってた遺書を受け取りたくないって話と関係がある?」
当たり前ですよね? とでも言いたそうに怪訝な表情を浮かべ、真衣が一度頷く。
そのあとで、「思い出したくないことだったらごめんなさい」と小さな声で付け加えられ、少しだけ状況を理解した。
「あー……うん。鏡で見たわけじゃないから、どんな顔だったのか自分では分からないんだけど、僕はそんな勘違いをされるくらい酷い顔をしてたの?」
「え……?」
「僕が今にも死にそうな顔をしていて、だから遺書だと思われたのかな」
たとえそうだったとしても、遺書だと思い込むのは相当無理があると思うけれど。
手渡された紙を見て、これは遺書だと勘違いする子がいるなんて、考えてもみなかった。
(ああ、でも……過去にそういう経験をしたって言っていたっけ?)
目の前で線路に飛び込まれたと、さっき真衣は話していたはずだ。おそらくそいつが、真衣に遺書を託した奴なのだろう。
二人でビュッフェに行った際、「過去にいろいろあって、ああいうものを受け取るのが怖いんです」と真衣は話していたけれど、遺書を渡され目の前で自殺されるなんて、恐ろしい記憶として脳に刻まれて当然だ。
てっきり、過去にしつこいナンパに遭って怖い思いをした、という類の話だと勘違いしていたけれど、もっと根深いものらしい。
「その……死にそうな顔っていうか、何かを怖がってるような目がどこか似ていて……。葉山さんのすごく不安そうな顔が、遺書を渡してきた人と同じだったから、思い出したら怖くなって……」
きっと、真衣の中で強いトラウマになっているのだろう。
俯きがちに出された声が震えている。
無理にこんな話を引き出して、思い出さるような真似はしないほうがよかった。
「真衣。ごめん、もう――」
「でも、勘違いってことは……葉山さんは違ったんですか?」
ゆっくりと顔を上げた真衣が、縋るようにこちらを見つめてくる。
今まで気付いてあげられなかったことに申し訳なさを感じながら、「まあ、そうだね……」と肯定すると、真衣は分かりやすく固まってしまった。
数秒経って動き出したかと思うと、不思議そうな顔で首を傾げる。
「えっと、それじゃあ何の紙……?」
「えっ……」
引き攣った声が出てしまい、言ったあとで自分の口を押さえる。
(今頃になって、それを掘り返されるのか……)
忘れて欲しいと思っていた過去の失敗を、また引っ張り出されている気分だ。細かく話すことは避けたいけれど、ちゃんと説明しなければ真衣には伝わらないだろう。
こんな形で恥の上塗りをすることになるなんて、思ってもいなかった。
「……ただの、自分の連絡先を書いた紙だったよ。あの時は名刺を持ち歩いてなかったから、それしかなくて」
「連絡先……?」
本気で意味が分からないとでも言いたげに、さらに真衣が表情を曇らせる。
自分でも、失敗して情けない結果になった行動だと反省しているのだ。そろそろ察してくれないだろうか。
「連絡先なら、その場でスマホを出して交換すればいいだけじゃないですか……?」
「あー……うん。今思うと本当に恥ずかしいけど、真衣のことを怖がらせないように、僕なりに気を遣ったつもりだったんだよ。その場で無理やり聞き出す形になるのは不審がられると思って、とりあえず自分の連絡先を渡すだけなら、安全だと思ってもらえるかなって考えてそうしたんだけど……」
怖がらせないためと言いつつ、受け取ってすらもらえなかったことが予想外で、結局は強引に手渡そうとしていたのだ。
本当に格好がつかない。説明したばかりだけれど、今すぐに真衣の記憶から消して欲しい。
「え? あの……でも、それはおかしくないですか?」
「おかしい? 何が?」
「葉山さんが初対面の私に連絡先を渡そうとする意味がよく分からなくて……。その、今は付き合ってますけど、あの時は会話すらまだでしたよね? 駅で見かけただけの一瞬で、私の何を気に入ってくれたんだろうって思うと……」
不安そうな顔で覗かれ、内心で頭を抱える。
これ以上を話すと、本当にすべてを打ち明けることにりそうだ。
もうこの辺りで話を終えたいのに、真衣にじっと見つめられると誤魔化すこともできない。
溜息をひとつ落とし、重たい口を開く。
「駅で会う前から、僕が一方的に知ってただけだよ。仕入れに使ってる市場で、何度か真衣を見かけたことがあるから」
「……え?」
「仕事でよく行ってない?」
「市場の中の事務所とか管理棟、何回か行ったことありますけど……」
「作業着で働く人が多い中でスーツ姿の女の子がいたら、やっぱり目立つし目を引くよ。だから最初は、僕もそれだけが理由で見てたはずだったんだけど……」
本当に余計なことまで言ってしまいそうになり、一旦話をするのを止めた。
(どこまでの話なら、重たいと思われずに伝えることが出来るんだろう)
悩んだところでもう手遅れかもしれないが、ずっと見ていたことや、名前まで知っていたこと。市場の人に探りを入れて、真衣の職場やメンテナンスの日まで把握していたことを知られたら、さすがに引かれるだろう。まるでストーカーみたいだと、自分でも思っていたくらいだ。
仕事の邪魔になりそうで彼女に話しかけられなかったけれど、ずっと遠目に見ていて話す機会を窺っていた。
――こんな気持ちの悪いことを、本人に言えるわけがない。
「葉山さん……?」
「その……真衣と一緒に来てたメンテナンスの人、かな。その人が鍵を失くしたって泣きそうになってた時に、大丈夫だよって言いながら笑顔で慰めてた真衣がすごく印象的だったから、それでよく覚えてた」
決して嘘は言っていない。
ただ、伏せている内容もたくさんあった。
あの時、真衣に笑いかけてもらっている同僚らしき男が羨ましくて仕方なくて、彼女を探してしまう理由を自覚したのだ。
そこからさらに真衣のことを目で追う回数は増え、声をかける機会がないかと、いつも様子を窺っていたのである。
「あの……多分それ、新入社員の子が社用車の鍵を落としたかもしれないって、報告してきた時だと思うんですけど……」
「ああ、そうなんだ」
「二年くらい前の話ですよね……?」
おそるおそる問われて、ぶわりと背中に汗が吹き出す。
二年という長い期間、ただひたすら目で追っていただけなんて、もう完全に不審者だ。
「葉山さんって、そんなに前から私のこと知っていたんですか?」
「……っ、ごめん。気持ち悪いよね」
「え? な、何がですか?」
「そんなに前から観察するようなことをしていて、会話すらしたことないのに一方的に名前まで知っていて……」
最低限のことしか話したくないと思っていたのに、結局そんなことまで白状する羽目になった。
――余裕があって格好いい。
付き合った翌朝に、真衣はそう言ってくれた。そのイメージを崩したくないのに、素の自分が出てくると何ひとつ上手くいかない。
しかしそんな僕の言葉を聞いて、真衣は安心したように表情を緩ませる。
「それじゃあ本当に、未練がある人とかいないんですよね?」
「これだけ真衣のことが好きって言ってるんだから当たり前でしょ。僕が誰かに未練があるかもしれないって考え、本当にどこから出てきたの?」
「う……その、遺書を書くほど葉山さんが苦しんだ原因が、すごく好きな人に捨てられたからなのかなって想像していて……。そう考えると、私にいろいろしてくれるのも辻褄が合うから」
そう言いながら、真衣の顔がどんどん赤く染まっていく。
「葉山さんが寂しい時に偶然私が近くにいて、ただの代わりとして大事にされてるだけかもしれないとか思ってて……。あ、はは……ほんと、変な勘違いして勝手に苦しくなって……もう本当に恥ずかしいです……」
僕の肩に顔を埋めるように正面から抱きつかれ、今日初めて甘えてくれたことに嬉しくなった。
恥ずかしさに耐えるように、「うぅ……」と真衣が声を漏らす。
僕と同じように恥ずかしがっているだけなのに、どうして真衣がやると、こんなにも可愛く思えるのだろう。
「真衣のことが大好きだってずっと言ってきたつもりだったけど、もしかして全然伝わってなかった?」
「つ……伝わってましたけど、付き合ってから私は全部葉山さんにしてもらうばっかりで、よくないって分かってるのに何もできなかったから……。愛想を尽かされるんじゃないかって不安で、それに、葉山さんのことがすごく好きだから、ただ恩を感じて優しくされているだけなら申し訳ないなって思ってたんです。話してみると本当に全部間違っていて、すごく恥ずかしいんですけど……」
抱きつかれているせいで顔が見れない。
だけど、今の真衣が真っ赤になって俯いているのだろうと、なんとなく想像できてしまう。
絶対に可愛い顔をしているのに、見れないなんてもったいない。
「真衣」
「……っ」
名前を呼んだ時の反応だけで、真衣の戸惑いが伝わってくる。ぴたりとくっついていた上半身をゆっくりと離し、恥ずかしそうにしながらも真衣はちゃんと顔を見せてくれた。
「赤くなってる。可愛い」
「変なことばっかり考えてて、全然可愛くないです……。あの……私は、葉山さんに無理をさせてない……?」
「無理なんて何ひとつしてないよ。ずっと前からやりたいと思ってたこと、今は全部させてもらってる。真衣が一緒にいてくれてすごく嬉しい」
心底安心したと言わんばかりに、真衣の表情が柔らかくほころぶ。
思わず顔を近付けると、嬉しそうに息を吐いてキスを受け入れてくれた。ずっと許してもらうばっかりで、真衣がどうして「何もできていない」と悩むのか理解が出来ない。
(こんなの、僕のほうがよっぽど貰いすぎている)
名残惜しく感じながらもゆっくりと顔を離し、真衣の表情を窺う。
キスをしたあとに見せてくれる、この少しとろんっとした顔が可愛くてたまらない。
「いろいろと誤解は解けたと思うけど、まだ返事をもらってないな」
「返事……?」
「重たいとか面倒臭いって思われたくなくて、同棲だってすごく譲歩して提案したんだよね。付き合って半月で、結婚したいって言っても頷いてもらえないの分かってたから」
言うつもりなんてなかったけれど、それ以上に黙っておきたかった出会う前のことまで、もう真衣には話してしまったのだ。
ずっと結婚したいと思っていたこともどうせバレている。隠していても仕方ないだろう。
「これからもずっと一緒にいて欲しい。僕と結婚してくれますか」
驚いたように一瞬動きを止めた真衣が、数回瞬きしてから口を開く。
勢いに任せて「結婚して」と玄関で口走ってしまった時とは違い、戸惑うことなく受け入れてくれているみたいだ。
「嬉しいけど、私で務まるのかな……?」
「そんなに難しく考えないでよ。真衣以外と結婚したいって考えたことないんだ。嫌じゃないなら約束して」
照れくさそうに頷いた真衣が、可愛らしくふわふわと笑う。
もう一度彼女のほうから抱きついてくれて、その体温に泣きそうなくらいに安心した。
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