阿古屋

平坂 静音

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几帳の内で 三

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「お父さまには良くない癖がおありだから、ああしてすこし釘をさしておこうと思ったのよ」
「まぁ、そんなことをおっしゃってよろしいのでございますか?」
 わたくしもついくだけた調子で言葉をかえしました。
「本当のことよ。わたしが生まれてすぐお母様がお亡くなりになってからも、お父様には十人以上の妻妾がいて、腹ちがいの兄弟姉妹もおぼえきれないほどたくさんいるわ」
 貴族の暮らしとはそういうものなのでございましょう。ぎゃくに一人の奥さまだけで落ち着く殿方の方が珍しいというのは、物語や女房たちのおしゃべりから得たわたくしのあさい知識ですが。
「ときどき思うの……。なにごともなく無事に十六になっても、都には帰りたくないわ」
 わたくしは一瞬、肩を揉む手をとめてしまいました。
「都にかえれば、だれぞ殿方を通わせてその人の妻とならないといけないでしょう?」
「姫様は、それがお嫌なのでございますか?」
「できることなら、尼にでもなってこの山のなかで一生を終わりたいぐらいなの」
「まぁ……、それは、とんでもない」
 姫様のようにお美しくお心ばえもみごとなお方が、こんな山のなかで一生を終わるなど、大量の砂金をむざむざ泥川に沈めてしまうようなものでございます。
「阿古屋もわたしの考えに反対なの?」
 姫様は高灯台のつくりだすほのかな光に照らされて、紺瑠璃こんるり色に光る瞳を悲しげにくもらされました。
「わたし、阿古屋だけはわたしの気持ちがわかってくれと思っていたのに。だって、阿古屋、おまえはつらい想いをして川にみずから身を投げたのでしょう?」
「それは……わたくし自身でもよくわからないのでございますが」
 言われてみて、わたくしはふと考えこんでしまいました。
 こちらでごやっかいになるようになり、姫様はじめ皆様に良くしていただいていても、時折、ふとした拍子にわたくしの胸底に、言いようのない痛み、悲しみのようなものがわきあがってくることがございます。それは黒い煙のように、ふっとわたくしにしのび寄ってきては、わたくしの魂を責めさいなみ、ひどくやるせない、どうにも身のおきどころのないような狂おしさをわたくしにもたらすのでございます。
「わたくし、本当にわからないのでございます。身を投げたのか、落ちたのか。それでも、どういうわけかときどきひどく辛い気持ちになるのでございます。記憶は失くしても、身体が胸の痛みをおぼえているようで。たしかに、なにかわたくしの身に辛いことがあったのだとは思うのですが、それと姫様のことは別でございましょう。姫様にはなにも悪いことなど起こりはいたしません。きっと素晴らしい殿方が通われるようになり、都一幸せな奥方様になられます」
「魔性のものが、わたしを狙っているとしても?」
 挑発するような、そそのかすような言い方で姫様が訊かれました。
「きっと、わたくしが、いえ、わたくしたちが姫様をお守りいたします。この身とひきかえにしても悪霊など寄せつけません」
 自分でもたいそうな口をきくこと、とは思うものの、わたくしの偽らざる心情でございました。
 この愛おしいお方をお守りするためなら、よろこんで我が身を悪霊にも鬼神にもささげましょう。わたくしに出来ることなどそれぐらいなのですから。
「阿古屋、阿古屋は本当に優しいわね」
 大人びた口調と目つきで姫様がいたわりをこめた目をむけてくださいました。姫様の白く細い指が、わたくしの指をなであげました。 
 それは、人離れしたほど美しい手でした。芸術調度品のようにお美しいそのお手にくらべれば、わたくしの手なぞ白金しらがねのまえの木屑のようなものでございます。そのお美しい手が、わたくしの手をにぎりしめました。几帳のうちに、薄紅ぐれんの炎が燃えました。

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