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夜霧奇談 一
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「緑玉、大丈夫か? 少し休むか?」
生まれて初めての旅ですっかり疲れてしまったわたしを気遣って、兄の緑風が声をかけてくれました。けれど、馬上のわたしよりも徒歩の兄のほうが疲れているはずです。わたしは首を振りました。
「無理をするな。少し休もう。馬も疲れているだろうし。ほら、あそこに涼しげな小川がある」
深山のなかを、美しい銀色の狭霧を立ち昇らせるように小さな川が流れていて、わたしたちを誘っているようです。
「でも、兄さん、明日には町に着いていないと」
「なぁに、かまうものか、一日ぐらい遅れたって。ほら」
兄に支えられて馬から下りると、わたしは水辺に近寄りました。流水は清らかで、木々のあいだを縫って差しこむ午後の陽光をはじきかえし、きらめいています。
かぶっていた灰色の被衣を取りよけ、冷たい水で汗によごれた顔を洗うと、そのあまりの爽快感に、わたしは声をあげていました。ひとしきり手や顔を洗うと、薄紅の上衣の胸元から白い手巾を取り出し、顔をふきました。
水面には、若い娘の顔が映っています。ほっそりとした顔に、整った目鼻顔だち。十五をむかえたばかりの、村一番の器量良しと称えられた娘の顔が。わたしの嫌いな顔が。
やがてその顔の隣に、もうひとつの顔が映りました。ほっそりとした顔だちは良く似ていますが、眉は濃く、目元は凛々しげです。
「緑玉……これは、本当は町に着いてから渡そうと思っていたのだが」
兄は、黒い衣の胸元から小さな布包みを取り出しました。
「あら、これは何、緑風兄さん?」
「紅花だ」
包みを開けると、そこには貝殻があり、開くと、柘榴のように赤い紅。口紅です。
「町に行けば、こんなもの、いくらでもあると思うが、お前が十五になったときの祝いにと思って……」
「ああ……嬉しいわ、兄さん、ありがとう」
わたしは声が空々しくならないかと心配しながら、精一杯の笑みを作ってみました。
そうやって笑いながらも、内心は胸が引き裂かれそうでした。
町になど行きたくありません。どうか、このまま村へ連れ帰って。父さんと母さんのいる家へ連れて帰って、と兄の下裙にしがみついて頼んでしまいそうです。
そんなことをしたらどれだけ兄を苦しめるか解っているので、決して出来ませんが。
「……行こうか?」
「……はい」
わたしはまた馬に乗っての山道の旅を思うと気が滅入りましたが、文句は言えません。
この山を越えれば、わたしたちの村とは比べものにならない大きな町に出ます。
そしてその町に着いたら、わたしはもう故郷の村に帰ることはないでしょう。もしかしたら永遠に。
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