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月の呪い 一
しおりを挟むそれから毎晩、火玉の室に寝酒を持っていくのが、輪花の仕事のひとつとなった。その日も輪花は寝酒をはこび、主殿でのとりとめもないことを火玉に報告して帰るところだった。
夜風は甘酸っぱい。春は遠ざかり、これから来たる本格的な夏を前にして、この時期の夜は大人になりかけた乙女のようなみずみずしさにあふれ、それでいて、ややねっとりとした官能を秘めて、人々を酔わす。
輪花はどこか夢見心地な気分になって石橋を進んだ。
軒下につらなる玻璃の灯篭にほのかに照らされ、池の水面が星を飲みこんだかのように輝いている。庭のあちこちに見られる夏椿の花は、神々しいほどに美しく、輪花は自分が別世界に迷いこんだ気がしてきた。
(……何だか、月の御殿に迷いこんだみたい)
この橋の向こうは主殿となる。主殿と奥殿のはざまで、輪花は奇妙な感慨にとらわれた。
(何だか……私、変。もう、このまま元の世界に帰りたくなくなってきたわ)
箒や雑巾を手に掃除にはげみ、主たちの衣や装飾品を準備し、ご機嫌をうかがい、給仕に勤め、わずかな時間で暗い厨房で大急ぎで食事をすます。その厨房ではくだらない女同士の諍いを見せつけられ……。自分の日常生活が、突然ひどくおろかで、味気ないものに思えてきたのは、月光の呪いのせいだろうか。石橋を渡り終えても、すぐに屋内に入る気がせず、輪花はもう少し夜風を楽しみたくなった。
(こんな、のんびりしていちゃいけないんだけれど……)
とは思いつつも、足は動かない。
(明日も早く起きて、英風様のお召し物の準備をして……、いえ、それは寝る前にちゃんと手配しておいた方がいいかも。明日は……金媛様は、どんなお召し物を召されるのかしら?)
きっと桃色や紅色の華やかな衣だ。
(花や蝶の模様をふんだんにあしらった贅沢なものだわ。装飾品も金銀、翡翠、瑠璃、瑪瑙、琥珀などお好みの宝玉でこしらえた豪華な髪飾りや腕輪、瓔珞を身に着けられるんだわ。きっと……)
それに比べて自分は、いつもの、このさえない褐色の粗末な衣だ。輪花は三日月を見上げて唇を噛んだ。
(こんな衣では、金媛様を前にしたら、さぞつまらない、貧相な娘に見られるでしょうね。英風様だってきっと私のこと不器量な娘だと思っていらっしゃるわ)
そんなことを考えている自分に驚くことを忘れるほどに、今の輪花は劣等感に埋まってしまっていた。
使用人が主を相手に自分の装いを気にするなど不遜もいいところだが、今の輪花にはそれすらわからなくなってしまっているのだ。
本当に月の女神が意地悪な呪いをかけたとしか思えない。もしくは白椿の精霊の悪戯か。
輪花が今まで抑えてきた娘心が弾けてしまったのだ。
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