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七
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(でも……死んだなんて信じられない。あのエマが死んだなんて……)
ぽとり、とコンスタンスの頬を涙がつたう。
エマの死を悼んでの涙でないことはコンスタンス自身が知っていた。
いや、悲しいことは悲しいが、それはエマの死ではなく、この薄暗い家のせいだ。よどんだ空気、汚れた皿、枯れた花。この家そのものが死にかけているようだ。
父親の膝に抱かれて無邪気に笑っていたこともあれば、母マリーの焼いてくれた菓子をほおばっていたときもあった。この家で。
父も母も――コンスタンスにとって母はあくまでもマリーだ――幸せそうに笑っていた。今はもうないが、広間には中古のピアノがあり、それで母がヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いてくれたこともあった。マリーが家を出てすぐ、父はそのピアノを売り払ってしまった。
ささやかながらも幸せいっぱいだった日々。コンスタンスにとって幸せとはマリーとともに過ごした時間だった。母マリーの愛につつまれていたときこそ幸せだったのだ。
気づいたとき、コンスタンスは床にうずくまって誰もいない家のなかで泣いていた。
暗い家にはコンスタンスの泣き声だけが響きつづけた。
「コンスタンス・ドュホォール……コンスタンス、いるかい?」
遠慮がちに聞こえてきたのはフィオー刑事の声だ。彼は家の外で近所の人と話していた。
「明日、遺体が戻されて葬式を出すことになる。……その、お父さんはどうしているんだい?」
刑事の口調はやや柔らかいものになっていた。
「知りません……」
そうとしか言えない。刑事は口を引き締めた。
「……こっちでも捜したんだが、君のお父さんは……最後にわかっていることは、街のはずれの酒場で飲んでいたところだ。それからは誰も知っている者がいないんだ。捜索願いを出すかい?」
コンスタンスは首を振る。父はすでにコンスタンスのこともエマのことも捨てたのだ。
そうこうしているうちにも葬儀社の人間がやってきて葬儀の手続きをする。コンスタンスはぼんやりとその説明を聞いていた。
その夜をどう過ごしたのか、コンスタンスはほとんど覚えていない。
ぽとり、とコンスタンスの頬を涙がつたう。
エマの死を悼んでの涙でないことはコンスタンス自身が知っていた。
いや、悲しいことは悲しいが、それはエマの死ではなく、この薄暗い家のせいだ。よどんだ空気、汚れた皿、枯れた花。この家そのものが死にかけているようだ。
父親の膝に抱かれて無邪気に笑っていたこともあれば、母マリーの焼いてくれた菓子をほおばっていたときもあった。この家で。
父も母も――コンスタンスにとって母はあくまでもマリーだ――幸せそうに笑っていた。今はもうないが、広間には中古のピアノがあり、それで母がヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いてくれたこともあった。マリーが家を出てすぐ、父はそのピアノを売り払ってしまった。
ささやかながらも幸せいっぱいだった日々。コンスタンスにとって幸せとはマリーとともに過ごした時間だった。母マリーの愛につつまれていたときこそ幸せだったのだ。
気づいたとき、コンスタンスは床にうずくまって誰もいない家のなかで泣いていた。
暗い家にはコンスタンスの泣き声だけが響きつづけた。
「コンスタンス・ドュホォール……コンスタンス、いるかい?」
遠慮がちに聞こえてきたのはフィオー刑事の声だ。彼は家の外で近所の人と話していた。
「明日、遺体が戻されて葬式を出すことになる。……その、お父さんはどうしているんだい?」
刑事の口調はやや柔らかいものになっていた。
「知りません……」
そうとしか言えない。刑事は口を引き締めた。
「……こっちでも捜したんだが、君のお父さんは……最後にわかっていることは、街のはずれの酒場で飲んでいたところだ。それからは誰も知っている者がいないんだ。捜索願いを出すかい?」
コンスタンスは首を振る。父はすでにコンスタンスのこともエマのことも捨てたのだ。
そうこうしているうちにも葬儀社の人間がやってきて葬儀の手続きをする。コンスタンスはぼんやりとその説明を聞いていた。
その夜をどう過ごしたのか、コンスタンスはほとんど覚えていない。
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