闇より来たりし者

平坂 静音

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新妻 一

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 このことを記しておいた方が良いかどうか迷ったが、やはり後々のために書き記しておくことにした。
 私、珠鳳じゅほう家に嫁いだのは十六のときだった。
 私の実家である家は、由緒ある家であり、祖父の代までは栄えていたが、父が商売に失敗してからは没落の一途をたどった。
 それでもれきある家だったので、マレーの華僑のなかでは一、ニを争うほどの財産家であった呉家に、世話してくれる人がいて嫁ぐことができたのだ。第三夫人として。
 私が十六で嫁いだとき、夫は四十三。第一夫人は三十九、第二夫人は二十六だった。私はイギリス風の近代的な家屋の西端にしはしに室をもらい、そこで夫を待つ日々をおくった。
 夫にはかつて第一夫人とのあいだに男の子がいたそうだが、その子は気の毒なことに三歳で病で亡くなったと聞いている。その後、第二夫人とのあいだに女の子ができたが、他に子どもはおらず、私が望まれたのは、とにかく跡継ぎとなる男子を得るためだった。
 第一夫人は愛児の死から病気になり、室にこもりっきりで、ほとんど人前に出ることもなく、この人とは嫁いできたときに一度挨拶を交わしただけで、ほとんど喋ったこともない。八十の老婆のように、ひどく老けてみえて、白くなった髪にうつろな目をして、その日も宴の席にも出ることなく、常に白い衣をまとって寝室で過ごしている気の毒な女性という印象しか、そのときの私にはなかった。
 気になるのは、やはり第二夫人の紫蘭しらんだ。
 向こうも私をかなり意識しており、挨拶にあがった初対面のときから、おもてむきは笑みを向け「私を姉とも思ってたよりにしてほしい」などと言いながらも、その吊りあがった細い目に針の光をひそめていたのは明らかだった。
 無理もないだろう。彼女は娘とはいえ夫とのあいだに一児をもうけており、このまま男児が生まれなければ、呉家の莫大な財産はすべて彼女の娘、ひいては彼女のものになるのだ。第一、彼女自身、まだ二十代半ば。女盛りであり、この先まだ子どもを生む可能性は充分にある。夫が自分より十歳も若い娘を娶れば、心安らかなわけがない。
 だが、これは後に召使の少女から聞いた話だが、夫はもはや彼女の室に行くことはないらしい。
 嫁いで三ヶ月ほどは平穏な日々だった。
 夫はそのころ仕事が忙しく、また世間も戦争の噂でごたごたしていたため、家庭をかえりみる余裕がなく、皮肉なことに寵をもたらす主のいない屋敷は、かえって奪いあう餌がない生簀いけすのようにしずかで平和だった。
 そんな平和なある日の夕方ごろ、私は暑さしのぎにバルコニーでくつろいでいた。長椅子によこたわって眺めるマレーの夕空は素晴らしかった。
 気位ばかりたかく貧しい家でそだった私は、呉家に来てからは食べる物も着る物も不自由することなく、マレーシア人の召使を付けてもらって、今までで一番幸せな時間をすごしていた。戦争も貧困もどこか遠く、私は自分にあたえられた小さな世界のなかで、それなりに満足していたと思う。 
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