46 / 141
新妻 二
しおりを挟む
私はまだそのとき夫の夜の訪問を受けておらず、心も身体も少女のままだった。だからこそ幸せだったのかもしれない。思えばそれは、甘い飴をあたえられて満足している子どものような、他愛ない幸せだったが。
それでも当時の私の日々はのどかなものだった。
近代的なコロニアル様式の呉家は西洋風の造りだけれども、第二夫人やその召使の女たちは色鮮やかなチャイナドレスに身を包み、下働きの召使たちはマレーシア風にクバヤやクルンなどの衣をまとっていた。
屋敷の広間には夫が射止めた動物の剥製もあれば、西洋人の来客と応対するときのための革ばりのソファもあり、床には赤い絨毯がしかれてあれば、中国風の深山を描いた屏風もある。客人には香辛料を効かせたカレーやロッティという麺麭が出されもした。
街にはオランダやポルトガル、イギリス風の建築物がならぶが、一歩建物のなかへ入れば中華風の装飾品がいろどりを放ち、インド人がこの国にもたらしたスパイスの香が廊下をながれもする。この街では、異種の文化が、多少いびつではあっても不思議と心地よく共存していた。
私のそだった家庭でも、貧しいながらも母は私に英語を学ばせ、華僑の誇りをうしなわなかった父からは、先祖が作ったという漢詩を学びもした。もっとも先祖の作ったものなので、世間ではほとんど知られてはいないけれど。
その日も私は近所の教会から流れてくる子どもたちの歌う英語の歌に耳をすませつつ、母や乳母から教えこまれた裁縫の練習にも手をぬかなかった。洋の東西、新旧の文化を、良し悪しや優劣がどうかよりも、ただ世間が、年寄たちが求めるものを持っていなくてはならないのだから。
その日、私はバルコニーで刺繍の練習にはげんでいた。朝顔の絵柄が純白の布地に映えて、かなり満足のいくものだったことを覚えている。
夢中になっていたものだから、すっかり時間がたってしまっていて、気がつけば日は少しかげってきていた。
熱をふくんだとろりとした風に吹かれて、だるくなってきた。ほんの息ぬきつもりで籐椅子の背もたれに身をまかせると、庭の椰子の木がぼんやりと見えて、それはのんびりとした時間を味わっていた。
一見、平和で幸福ではいても、やはり実家をはなれて他人ばかりの家で過ごすのは、気疲れするもので、誰もいない時間はとてもありがたいものに思えた。いつもはすぐ側にひかえている召使のサリナも、そのときは用事でもあったのか姿が見えず、かえって私はとても心地よい気分で、安心してまどろんでいた。
だから最初、緑の芝生のかたすみ、庭木の影に、ぼんやりと見えた人影は幻だと思っていた。
だが、それは幻ではなく、灰色の質素なクバヤに身をつつんだサリナだった。
それでも当時の私の日々はのどかなものだった。
近代的なコロニアル様式の呉家は西洋風の造りだけれども、第二夫人やその召使の女たちは色鮮やかなチャイナドレスに身を包み、下働きの召使たちはマレーシア風にクバヤやクルンなどの衣をまとっていた。
屋敷の広間には夫が射止めた動物の剥製もあれば、西洋人の来客と応対するときのための革ばりのソファもあり、床には赤い絨毯がしかれてあれば、中国風の深山を描いた屏風もある。客人には香辛料を効かせたカレーやロッティという麺麭が出されもした。
街にはオランダやポルトガル、イギリス風の建築物がならぶが、一歩建物のなかへ入れば中華風の装飾品がいろどりを放ち、インド人がこの国にもたらしたスパイスの香が廊下をながれもする。この街では、異種の文化が、多少いびつではあっても不思議と心地よく共存していた。
私のそだった家庭でも、貧しいながらも母は私に英語を学ばせ、華僑の誇りをうしなわなかった父からは、先祖が作ったという漢詩を学びもした。もっとも先祖の作ったものなので、世間ではほとんど知られてはいないけれど。
その日も私は近所の教会から流れてくる子どもたちの歌う英語の歌に耳をすませつつ、母や乳母から教えこまれた裁縫の練習にも手をぬかなかった。洋の東西、新旧の文化を、良し悪しや優劣がどうかよりも、ただ世間が、年寄たちが求めるものを持っていなくてはならないのだから。
その日、私はバルコニーで刺繍の練習にはげんでいた。朝顔の絵柄が純白の布地に映えて、かなり満足のいくものだったことを覚えている。
夢中になっていたものだから、すっかり時間がたってしまっていて、気がつけば日は少しかげってきていた。
熱をふくんだとろりとした風に吹かれて、だるくなってきた。ほんの息ぬきつもりで籐椅子の背もたれに身をまかせると、庭の椰子の木がぼんやりと見えて、それはのんびりとした時間を味わっていた。
一見、平和で幸福ではいても、やはり実家をはなれて他人ばかりの家で過ごすのは、気疲れするもので、誰もいない時間はとてもありがたいものに思えた。いつもはすぐ側にひかえている召使のサリナも、そのときは用事でもあったのか姿が見えず、かえって私はとても心地よい気分で、安心してまどろんでいた。
だから最初、緑の芝生のかたすみ、庭木の影に、ぼんやりと見えた人影は幻だと思っていた。
だが、それは幻ではなく、灰色の質素なクバヤに身をつつんだサリナだった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる