闇より来たりし者

平坂 静音

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洗礼 一

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「その、トヨールを見なかったでしょうか? アレックスにとっては、それが一番の関心事なんです。そうよね、アレックス」
 アレックスがうなずく。私はなんだかちょっと、もやもやとした厭な気分になった。
「そうです。……リーランとネットを通じて知り合い、この文書を知らせてもらったのは神のわざだと思っているんです。もっとも……、私は不謹慎だがあまり神を信じないですが……。それでも、この件に関しては、何か見えないものの力が働いているとしか思えない」
 アレックスは理知的な黒い瞳に熱をこめて私を見る。
「リエさん、あなたは、トヨールを見なかったですか?」
「え? ……ええっと、あの、それらしき小瓶は見ました」
 アレックスの目が大きく見開かれた。
「やっぱり。今、それはどこにあるんですか? あなたが持っているんですか?」
「あの、友達が、美菜という友達が持っていると思うんですが。それで、美菜とは今連絡がとれなくて……」
 アレックスの目に失意が浮かび、私はなんだかとても申し訳ない気持ちになってくる。
「これを書いた呉家の第三夫人は、この後少しして、亡くなりました。首を吊ったのです」
「えっ?」
 言われて私はびっくりしたけれど、驚いたのは、第三夫人の自殺よりも、アレックスがそんなことを知っていることだ。
「な、なんでそんなことまで知っているんですか?」
「話がうま過ぎて疑わしいと思われるかもしれませんが、珠鳳という第三夫人のためにトヨールをつくったボモーは、私の祖父の弟子になるのです」
「えぇっ? 嘘ぉ……」
 あまりの偶然に私はつい間のぬけた反応をしてしまう。
「五年ほどまえ、母が祖母の遺品を整理しているとき、祖母が祖父の生前ちゅうに書きためていた仕事の記録文を見つけ、全部読ませてもらったのです。そのときは、こういう事があったのかと思ったのですが。正直、半信半疑でした」
 アレックスは苦笑した。
「祖父はそういった仕事上の書類や記録をすべて祖母にあずけていたのです。もともと祖母は祖父の職場で小間使いのような仕事をしていて、いつしか恋愛関係になったのだそうで、そういった事情から祖父の仕事にも深くかかわっていたらしいのです。また、その時代の貧しい家の娘にしては、祖父が教えたのでしょうが、かなり読み書きも達者だったそうで」
 それは、まるで文中にあったイサムとミヨ、祖父母たちの関係のようだ。
「祖父の弟子になるボモーは、かなりあくどい真似をして稼いでいたようで、祖父は途中から彼を出入り禁止にしていたのです。だが、あるとき、彼はこっそりと祖父の職場の小屋にしのびこんで、作りかけていたトヨールを盗んだらしいのです」
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