闇より来たりし者

平坂 静音

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予兆 一

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「バス亭でバスを待っているときに、タクシーにひかれたらしいの」
 寮に帰ると、玄関ちかくで舎監と寮長が話していたところにかちあった。舎監は元シスターだという五十代ぐらいの地味な女性で、あまり必要以上には寮生に干渉しようとしない事なかれ主義な人だ。今も、用件をすませたら後は知らないといわんばかりに、そそくさと舎監室へと去っていく。私が近寄っていくと、寮長は知っているかぎりのことを教えてくれた。
「意識不明の重体らしいわ」
 その言葉がずっしりと重くひびく。
「お見舞いとかは今のところ無理だし、電話やメールは、ご家族にとってかえってご迷惑になるだろうから、工藤さんの快復を待つことにしているの」
 家族といっても、病院に駆けつけているのは美菜のお母さんだけかもしれない。
「だから落ち着くまで、お見舞いは待ってね」
「はい……大阪は遠いですし」
「それがねぇ……」
 寮長は眼鏡のおくの生真面目そうな目をゆがめた。
「大阪じゃないのよ。こっちにいたの……。あなただから言うけれど……」
 寮長が苦々しげに告げた地名は、かなり柄の悪い所として知られているホテル街だ。
 そのバス亭付近で事故に遭ったらしい。
「勿論、何かの事情でたまたま通りかかっただけかもしれないけれど……でも、ちゃんとした理由も言わずいきなりいなくなって、大阪に行っているなんて嘘をついて、それで、こういうことになったんだから、外聞悪い話だわ。電話でお母さんも泣いていらしたって」
 寮長はやれやれ、というふうに首を振る。そういう仕草をすると、なんだか同年代とは思えない。親の世代ぐらい、と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、若い教師ぐらいには見える。信楽寮長のような真面目な人から見たら、美菜は理解できない存在なのだろう。
 それでも私は他の、あきらかに美菜を敵視する寮生たちや、美菜の家の事情で彼女を軽蔑する連中にくらべたら、信楽寮長はまだ公平だと思う。  
 けれども、信楽寮長が美菜をそれほど嫌っていなかった一番の理由は、美菜が一見、奔放に見えて、けっこう門限をきちんと守るというところを買っていたからだ。それも今回みたいな事を起こしてしまうと、寮長の美菜を見る目は変わってしまうかもしれない。
「……とにかく、今は工藤さんの快復を祈るだけよ。私、今から礼拝堂に行ってくるわ」
 寮長は根っからのクリスチャンだ。生家の宗旨は一応、仏教なんだそうだけれど、お母さんが熱心なクリスチャンで、子どもの頃からキリスト教について学ばされたという。ちなみにお母さんも、聖アグネスの卒業生だそうだ。
「小倉さん、あなたも来る?」
 廊下の突き当たりには寮生のための礼拝堂がある。時々、寮生が舎監や寮長に相談をするときにカウンセリングルームとして使われているけれど、それ以外は人の出入りがほとんどない静かな部屋だ。
「いえ……、あの、私は部屋で祈ります」
 少し後ろめたく思いながらそう答えた。
 寮長は、そう、とぽつりと呟いて、礼拝堂に向かった。 
 
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