闇より来たりし者

平坂 静音

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予兆 四

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 そして他の買い物をまとめてレジに向かい、当然ながら店員が花束の値段を打ち込むため、それを受け取ろうとしたとき、母が「あら、これは、花屋で払ったのよ」と平然と言ったときに、幼いながらも私は違和感をおぼえた。店員はとまどうような顔をしていた。その店では、会計は全てレジですることになっており、花売り場で支払いをするようなシステムは無かったのだろう。
 そうですか? と困惑する店員に母は苛々したのか、父に「これは向こうで払ったわよね」と当然のごとく怒りながら確認した。父はびっくりした顔で否定した。「知らないよ。僕は払っていないよ」
 店員の前で自分の主張する事実を否定された母は、眉と目をしかめて、鬼のような形相で父を睨みつけた。「いつも払うことになっているでしょう!」 
 些細な勘ちがいだが、私はこのときの一件を忘れることができなかった。何気ない日常の出来事ではあっても、そこに母という人の性格が強烈にあらわれているからだ。
 勿論、母は盗むような気持ちはこれっぽっちもなく、普段よく行く店ではそれぞれの売り場で会計をすますので、そういうものだと思いこんでおり、まして父が同行している場合は、彼が当然払っているものだと信じこんでいたのだ。
 会計は、その売り場でするものという思いこみも、自分の都合で買うものなのに父が払うものだという思いこみも、すべては母が自分を絶対のあるじとして勝手に想定したものだ。その自分の思いこみに現実が合ってないと、その現実や事実に対して怒るのだ。 
 勝手にそう思いこんだ自分が悪いのに、決してそれを認めず、店員にも一言も謝罪しなかったそのときの母を思い出すと、今でも胸が冷えていく。つくづく自己中心的な人だ。 
 夫婦関係がうまくいくわけもなく、父が、私が高校生になる頃には滅多に家に帰ってこなくなったのも仕方ないとあきらめている。むしろ家にいて、しょっちゅうつまらないことで夫婦喧嘩されるよりマシだ。そして私は大学進学とともに、この家と、毎日母の顔を見て苛々しなければならない日常から逃げ出すことができてホッとしたのだ。うまく逃げ出せた、と思っていた。
 他人が見たら、私は近郊にかなり大きな庭付き一戸建ての家で、何不自由なくぜいたくに育てられた幸せなお嬢様だと見られているかもしれない。けれど、それでもこの家で、あの母の娘として暮らすことは……私なりにつらかった。それを口に出して言えば、ぜいたくだ、我が儘だとなじられるか、せいぜいしたり顔で、よくある事よ、と軽く言われるのは何度も経験したので、もう言おうとも思わない。
 どうにか苦しかった思春期や少女期をやりこなして、母の圧力からぬけだし、新しい人生を送れると信じていた。うまく逃げおおせたと喜んでいた。
 でも、逃げられなかった……。
 それも母のせいではなく、自分自身のせいで。
 私には、行く場所が……、向かっていく場所が無いことに気づいてしまった。
 ぼんやりとしたままベッドに座りこんでいると、ノックをする音が聞こえた。
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