闇より来たりし者

平坂 静音

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予兆 五

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「麻衣、あなたまだ寝ているの?」
 私の返事を待たずにドアがひらかれ、母が顔をのぞかせる。
 家の中でもきちんと化粧をし、髪を丁寧にセットしている母は、五十過ぎにしては若く見える。身のこなしも、今は止めてしまったけれど日舞を習っていたせいでどこか優雅だ。子どもの頃は上品な母が誇らしかった……。それがうわべだけのものだと気づくまでは。
「あら、麻衣、あなたったら、服着たまま寝ていたの? ちゃんと昨日、お風呂に入ったの?」
「……入ったわよ」
 だるかったけれど、シャワーだけはどうにか浴びた。
「食事しているの? 村瀬さんが、用意した料理に全然手を付けてないって」
「お腹があんまり空かなくて」
 頭痛がしてきて、私は頭を抱えこんだ。スリッパの音が部屋に侵入してくる。
「麻衣、まさかあなた、悪い病気なんじゃないでしょうね?」
 母のつけている香水の匂いがぷんと強くかおってきて、私はろくに食べていないはずなのに吐き気をおぼえた。ああ、たのむから出て行って……。
「いったい、どうしたのよ?」
 母は不安そうに私をのぞきこむ。
「病院へ行く?」
 私は布団をかぶるって、首をふった。
「あんたってば、子どもみたいねぇ」
 母は時々、二人だけのとき、私をあんたと呼ぶ。
「そんなんで、どうするの? そろそろ学校へ戻らないといけないでしょう。いくらレベルの低い二流女子大でも、そうそう休んでいたら取り戻すのに大変じゃない?」
 聖アグネスは決して悪い女子大ではないはずだけれど、母に言わせれば〝二流〟なのだそうだ。
 ちなみに母は確かにかなり知名度の高い大学を出たけれど、だからといってその学歴を活かしてなにかを成し遂げたのかといえば、そうでもない。祖父のコネで就職して、たいしたキャリアを積むこともなく、わずか数年勤めただけで退職し、あとはよくあるように見合いで父と結婚して、専業主婦で気楽な毎日だ。
 家事や育児だって勿論大切な仕事かもしれないけれど、家事は通いの家政婦の村瀬さんがほとんどこなしているし、育児だって大学生にもなればもう終わったようなもので、要するに何もせず、ただひたすら趣味の稽古事や、似たような有閑マダム達とのお付き合いにいそしんでいるのだ。そして時折り母が家に招くそういったマダム達との会話もまた、やれピアノや日舞や、お茶会やなどという趣味だけの世界と、自分たちの自慢話か他人の噂話しか聞こえない。聞いていて、苛々する。
 母の生き方を見ていると、お金や暇にあふれた人生が、必ずしも当人に幸福をもたらさないということを実証しているような気がしてくる。
 成功した実業家の娘として生まれて、何不自由なく暮らし、仕事も結婚も周囲からあてがわれ、贅沢に生きている母の生き方を、私はずっと軽蔑していた。
 何も、たいして自分の力で成し遂げたわけじゃないじゃない? ピアノだって日舞だって、そりゃ、そこそこ出来るかもしれないけれど、なにもその道のプロになるわけじゃなくて、ただの暇つぶしじゃない、と軽く見ていた。
 友達のお母さんのなかには主婦業をこなしながらも働いている人はいたし、家計のためにアルバイトをしている人もいた。けれど、母はそういった苦労からは無縁の人生を送っていて、朝の朝食の準備を別にすれば、ほとんど家事らしい家事をしているのを見たことがない。掃除や洗濯、夕食の用意をするのはいつも家政婦だ。 
 でも、それぐらいなら、べつに悪いとは思わない。裕福な生活を否定することはないと思う。
 けれど……。そうだ、最初はただ少し軽く見ていた母を、確かに嫌いだと自覚するようになったのは、中学生ぐらいの頃からだった。
 母は、恵まれた自分の人生に、少しも感謝していないことに気づいたからだ。
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