君の左目

便葉

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彼の時間 …2

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「でも、寧々ちゃん…
僕達はつき合ってもいないし、ほんの少し仲が良かっただけで、だから、これからの毎日に何も変化はないよ。
僕は総務課で、寧々ちゃんは受付で、与えられた仕事を一生懸命するだけ。

あ、でも、これだけは頭に入れていてほしい。
どんな状況かは分からないけど、辛くなる事があったなら、いつでも僕を利用して。
僕は喜んで寧々ちゃんの話を聞くからさ」

私は精一杯の真心を込めて、麻生さんに微笑んで見せた。
辛くなる事がやって来ることを想像したくはないけれど、何だか麻生さんの言葉が予言のように聞こえて、ちょっと怖くて無理に微笑んだ。

麻生さんに駅前のロータリーまで送ってもらった私は、車から降りた途端、すぐに幹太に電話をした。
昨夜のお休みの電話をした時、幹太が私と麻生さんが会う事にすごく我慢しているように感じたから。

一回目のコールが鳴り終わらない内に、幹太はすぐに電話に出た。

「幹太? 今、駅前に居るんだけど」

幹太は人混みの中にいるのか、何だか周りが騒がしい。

「うん、知ってる」

知ってる? 私は幹太の返事に驚き周りを見回した。
でも、今日は雨が降っているせいで、右側の視界さえもぼんやり見える。
すると、幹太はちゃんと私の右側からやって来た。最高の笑みを浮かべて。

「駅にいたの?」

幹太は何も言わずにすぐに私の手を取った。

「たまたま、いた」

幹太のたまたまはよく知っている。子供の頃も、私のピアノ教室の帰りとか女子の友達と遊んだ公園の入口とか、幹太は、たまたま、よくそんな所にいた。
「幹太、どうしたの?」って私が聞くと、「たまたま通りかかったんだ」って言うのが幹太のお決まりだった。

私は可笑しくて、でも嬉しくて、幹太の手を握り返す。
私にとって見慣れたこの駅の風景は、幹太がこの街に来てくれた事で、鮮やかな虹色に色を変えた。恋をすると全てが変わる。色々な人達がそんな事を言っていたけど、私には縁のない事だと思っていた。
そんな私が、今、恋をしている。急速に、そして狭く深く真っ直ぐに…

「幹太、引っ越しの足りない物は買ったの?」

幹太はバツが悪そうに肩をすくめた。手ぶらの状態の自分を指さし苦笑いをする。

「じゃあ、反対側の南口の方にホームセンターがあるから行ってみようか?大抵のものは揃うと思うんだけど」

幹太は握りしめていた私の手を離して、今度は左肩を抱き寄せた。私の肩を抱き寄せる時、幹太は必ず左肩を引き寄せる。左側という私の弱点を、幹太は大きな体で守ってくれる。

「了解、南口は行った事ないから、寧々が案内して」

幹太は、今日の私と麻生さんの事は何も聞かない。私の方からあえて切り出す事もしない。だって、今、私がここにいる事がちゃんとした答えだから。幹太もきっと分かってくれている。

私達はホームセンターの中に入ると、幹太は真っ先にキッチンコーナーへ向かった。私が後ろから幹太を観察していると、何だかマグカップを必死に見ている。

「マグカップ?」

私がそう聞くと、幹太は私を手招きした。

「ここに越して来る前は、独身寮みたいな所にいて、寮のおばさんがご飯は作ってくれてたんだ。
だから、俺の部屋にはキッチンはついてなくて、だから必然とこういう食器みたいな物は持ってない」

私は可笑しくて笑うのを堪えた。

「え、でも、マグカップもなかったら、お茶とかコーヒーとかはどんな風に飲んでたの?」

「ペットボトルか缶、だろ? 普通は」

私は幹太の独身寮での生活を思い浮かべて、やっぱり顔がほころぶ。

「だから、まずはここら辺の物を買わなきゃ、寧々を家に呼べない」

幹太のその気遣いが嬉しくて、私は下を向いてありがとうと言った。

「寧々が選んで。俺は何でもいいから。
全部、二個ずつ。もちろん、俺と寧々の分ね」

私は急速に縮まる二人の距離感に少しだけ戸惑った。でも、幹太はこれが当たり前だと思っている。人一倍心配性で、人一倍保護本能が強い幹太は、私を愛して、私を守る事を、呼吸をするように自然とできる人だから。

「幹太…
私達、本当につきあうの…?」

幸せに慣れていない私は、また後ろ向きな事を口走る。
幹太はわざと怒ったような顔をした。顔をしかめながら私の頭をポンポンと叩く。

「当たり前だろ。
世界中の誰もが反対しても、俺は寧々とつき合うし寧々の側にいたい。
寧々は?」

私の心の中は、まるでチョコレートの洪水にでも遭ったみたいにとろけていく。幹太が何気なく囁く愛の言葉は、私に恋愛の醍醐味を教えてくれた。

「……うん、私も」

私はそう言うのが必死だった。
幹太の溢れる程の愛情に、私は真っ直ぐに立っていられない。

「よかった… 
ほら、じゃ、この食器達を早く選ぼう。食器が終わったら、クッションとかも買いたいからさ」

「クッション?」

私が驚いてそう聞くと、幹太はまた苦笑いをした。

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