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彼の時間 …1
しおりを挟む麻生さんと映画に行く朝は、どんよりと雲が空を覆いつくしていた。雨や曇りの日は、何だか気持ちがブルーになる。私の世界が半分ぼやけたような気になるから。ううん、気になるのではなく、太陽の光が射さない一日は、確実に私の世界は少しだけぼやけていた。
麻生さんは口には出さないけれど、きっと、私の左目の事を気遣って二人で出掛ける時はいつもマイカーで迎えに来てくれる。
私が電車が苦手な事も、ちゃんと気付いている。駅の階段の人混みで困っている私を見かけた事があったらしいから。
という事で、今日も、私の家の近くのコンビニの駐車場で待ち合わせをしている。
私は小雨が降る中、傘を差してそのコンビニまで急いだ。
麻生さんは小雨が降っているのに、車の外に出て私を待っていてくれた。遠くに私を見つけると、はにかみながら手を振った。
「麻生さん、雨、濡れるから中に入ってて」
私は遠くからそう叫んだ。
麻生さんは本当に穏やかで優しい人。口数は少ないけれど、困った人には必ず手を差し伸べる。
「寧々ちゃんが転ばないか気になって。
本当は家の前まで車で行こうかって、電話しようと思ってたんだ」
「大丈夫ですよ…」
私は胸が痛かった。でも、別につき合っているわけでも、好きだと言われたわけでもない。
「寧々ちゃん、今日は何時まで大丈夫?」
麻生さんは私がシートベルトをしたのを確かめると、車をゆっくりと発進させた。
「今日は…
実は、小学校の時の友達が、この街にたまたま引っ越してきて、夕方にかけて会いに行こうかと思ってて」
私は何も嘘はついていないはずなのに声がうわずった。こういうシチュエーションはあまり得意じゃない。
麻生さんは何も言わずに運転を続けた。でも、赤信号で車が止まった時に、隣に座る私の方へゆっくりと顔を向ける。
「分かった。そういう事ならしょうがないよ。
きっと、その友達は寧々ちゃんを頼りにしてるはずだから」
私は何も言えずに小さく頷いた。こんなに胸が痛いのは、私が麻生さんの気持ちに気付いているから。
麻生さんは私の事を好き。それは口に出さなくても私にちゃんと伝わっていた。
「映画の後、コーヒーくらいは飲めるかな?」
私の右目に麻生さんの横顔が映る。笑っているけれど、ちょっと寂しそうに見えた。
「…うん」
私は、私も話があるからって言うつもりだったのに言えなかった。自分の弱さにため息が出る。
映画は、思いのほか面白かった。こてこてのホラー映画だと思っていた私達は、コメディタッチのその映画に二人でお腹を抱えて笑った。
何だかすごく楽しい気分になっている私達は、そのまま映画館の下の階にあるカフェへ直行した。
しばらくは映画の話で盛り上がった。
でも、時間は刻々と流れていく。
「あ、あの…」
麻生さんはアイスコーヒーのストローを回しながら、私に視線を移す。
「あの、麻生さん… その…
もう、こういう風に映画とか観れなくなっちゃうかも、なんです…」
もう日本語がめちゃくちゃで恥ずかしい。
「え、何で?」
私は一回大きく深呼吸をした。麻生さんの目の前でこういう事をする事自体、完全にパニック状態だ。でも、きっとそれさえも、今の私は気付いていない。
「あ、あの… か、彼氏ができたんです」
ストローに口をつけようとしていた麻生さんの動きが止まった。
「彼氏…? え? 区役所の人?」
私は手を振りながら首も横に振った。
「違います… 区役所とは全然関係ない人で、あの」
「その小学校の同級生だ」
私は小さく頷いた。
でも、その後に麻生さんからの言葉が何もない。
私が視線を麻生さんに向けると、麻生さんはやるせない目をしてアイスコーヒーの氷をストローでクルクル回していた。
私は胸がまた痛んだ。麻生さんは、区役所の中でいつも私の味方だったから。
受付要員として区役所に採用された私は、一見、健常者と見た目は同じで、でも、障害者枠での採用のため、入った頃は皆の注目の的だった。いい意味の注目ではなく…
そんな中、総務課の私の事情を知る職員は、皆で私を守ってくれた。その中でも、特に相談に乗ってくれたり気晴らしに食事に誘ってくれたのが麻生さんだった。
麻生さんは、目立つ事を嫌い、縁の下の力持ちが性に合っているといつも言っていた。
でも、今の私は、そんな麻生さんを傷つけてまで、幹太と一緒に居たいと心から思っている。
「ちょっと、遅かったかな…
告白とか中々勇気が出なくて、でも、そうだよね…
寧々ちゃんは美人さんで性格も可愛くて、モテないはずがない。
今になって、自分の決断力のなさに落ち込んでるよ」
私は何も言えずに下を向いた。この言葉が麻生さんの優しい人柄を映し出している。それが何だか辛かったから。
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