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初めまして、またいつか
…またいつか
しおりを挟む僕は何となくだけど理解した。もう、何となくで十分だと思っている。だって、この記憶は、その人の話ではまたどうせ無くなってしまうみたいだから。
「ほら、もう少し、羽を羽ばたかせて。強く大きく、そして早く。
もうすぐ、あなたの愛して止まないあの子の元へ着きそうだから」
僕自身、それを強烈に感じていた。胸の奥がジンジンと痛い。息苦しさと倦怠感が涙を誘う。この気持ち、何て言うんだろう…
僕は無意識の中で必死に羽をばたつかせた。何だかよく分からないけれど、僕の中の何かが僕を急き立てる。無我夢中で空中を切って飛んでいる僕は、この気持ちを表す唯一の言葉を感じ取った。
……会いたい、会いたかった、僕の君。
「いってらっしゃい…」
あの人の声を遠くに感じる。僕はそんな事さえもうどうでもよかった。とにかく早く、とにかく早く、僕の思考はまだ見た事もないあの子に占領されている。
すると、あっという間に視界が広がった。そこは見た事もない風景で、僕はやはり空の上から物事を見ている。
僕の気持ちは異様なほどに盛り上がっていて、心臓や血管がパンクするんじゃないかっていうほどに、猛スピードで激しく脈打っている。そして、今の時点で僕の涙は枯れ果てていた。切ないっていう言葉の意味がやっと分かった気がする。十九歳の僕にとって初めての感情だ。
その場所は日本ではない。僕の勘はヨーロッパのどこかだと告げている。石畳の街並みは坂道が多く、その坂道のてっぺんは小高い丘になっていた。
そして、その丘には教会がある。石造りの古い教会が僕の到着点だという事を、僕の直感が教えてくれた。
僕はとんがり屋根のてっぺんにとりあえず腰を下ろした。腰を下ろすという感覚が間違っていなければだけど。それより何より僕には時間がない。その不安要素は、僕がその子を感じ取った時から僕にまとわりついていた。
教会のてっぺんといってもそんなに高い場所ではなく、教会自体は二階建てでそのとんがり屋根の上だから、せいぜい三階建ての高さくらいだ。
僕は彼女が近くに居ることはもうすでに分かっていた。この教会の中にいる。でも、僕自身ここから身動きがとれない。だって、僕は一体何者なのか、僕以外の人から僕はどういう風に見えているのかそれが全く分からない。羽を広げてとか言われていたから、普通に考えれば鳥なのかもしれないけれど、でも、その考えにさえ自信を持てなかった。
そんな事をグダグダ考えながら下を見ていると、教会のドアが開いた。僕の胸は飛び跳ねる。心臓が口から出てくるんじゃないかと思うほど。
……見つけた。
僕の目に飛びこんできた彼女は、三十歳位の青い目をしたシスターだった。でも、僕の中では見た目とかそんなものはどうでもよくて、彼女の息遣いや匂い、そして磁石のように引き付けられるもの凄く強い威力に、僕はどうにも抗う事ができない。僕の頭と心は、もう喜びを通り越して呆然としていた。
すると、僕の中の奥深くにある何かが、いきなり僕の思考を乗っ取った。今の僕が、きっと本来の僕の姿。僕はギャラリーのように、乗っ取られた自分自身を堪能する事にした。
でも、何秒か時間が進むにつれ、その乗っ取られた思考が完全な紛れもない僕の思考なんだと分かった。
僕の奥に潜む魂は、僕の脳を使って今の僕に訴える。
…あの子は俺のものだって。
その言葉が聞こえた途端、僕は屋根の上からその彼女のいる近くまで急降下する。
彼女は洗濯物を取り込んでいた。教会の裏庭は色とりどりの花々で埋め尽くされていて、その先にある簡易式の物干し台に張られたロープには、たくさんの真っ白いシーツが干されている。
僕の彼女は… そう僕の大切な彼女は、真っ青な空の先に見える灰色の雨雲を気にかけながら、洗濯物を取り込もうとしていた。
でも、彼女の表情はとても幸せそうで、シーツを取り入れる手は中々動かずに、目の前にある美しい花々を手で触ったり匂いを嗅いだり。
ああ、何て言えばいいんだろう…
彼女の仕草は可愛らしくて美し過ぎて、抱きしめたくなるほどに僕の心を魅了した。
僕は彼女に触れたいと思った。彼女の匂いを嗅いで、彼女に僕はここにいると伝えたい。
僕達が現世で出会わなかった理由は、きっと、僕は若くして死んでしまう運命で、彼女は神様と身の契りを結ぶ事を選んだから。
ならば、来世で会おう。
僕は彼女の記憶に何かを刻みたいと思った。あの人の話では記憶というものは人間の情報伝達のツールにしか過ぎないという事だったけれど、僕は今はまだ人間であって(死んでないらしいから)、彼女なんて今を生きている完璧な人間だ。
まだ人間であるはずの僕に、彼女を抱きしめたいという感情が湧き出てくる。今の僕の体がどうなっているのか見当はつかないけれど、でも、人間としての僕の部分が彼女に触れたいと意気込んで苦しくてたまらない。
僕の目に映る彼女は何を感じているのか遠い空を見ていた。その視線の先には、青い空を埋め尽くす雨雲が迫っていて、その雨雲はきっと通り雨を降らせる。彼女はそれを感じ取っているはずなのに、急いで洗濯物を取り込もうとしない。遠い空を見つめたまま、遠い空のどこかに目を奪われたまま佇んでいる。
僕の本能は一気に空へと舞い上がった。僕の意思であって僕の意思ではない。でも、確実に分かる事は、彼女を求めて愛して止まないという切実な想い。
僕は細かい微粒子の点となって、迫りくる雨雲に吸い込まれていく。
僕は大粒の雨に姿を変えた。彼女の頭上を覆いつくす雨雲が、一斉に大粒の雨を地上へ舞い落す。雨粒に姿を変えた僕は、彼女の全身に降り注いだ。彼女はそんな雨を僕だと分かっているように、両手を横に伸ばし顔を空へ向け、雨粒を全身で浴びながら嬉しそうにクルクルと回り出す。
僕は彼女の額に頬にそしてくちびるに何度もキスをした。彼女の肩を引き寄せ包み込むように抱きしめた。
「初めまして…」
僕は今の彼女にそう伝えた。だって、魂は分かり合っていても、僕の目に映る彼女は初めて見る人だから。
「僕を覚えていて、この雨の音を、匂いを、そしてこの生温い優しさに満ちた僕の感触を…」
彼女は大切なシスターのベールを剥ぎ取った。雨に濡れた艶やかな金色の髪は僕の思考に絡み付く。僕も彼女もどういうわけか涙が溢れ出た。何だか切なくて、やり切れなくて、心臓をギュッとつままれたみたいなどうしようもない哀しみが僕達を支配する。
でも、それもつかの間だった。どす黒い雨は透明な雨に変わり始め、通り雨は今にも通り過ぎようとしている。僕は慌てて、もう一度彼女の体に絡み付く。決して忘れない、君の匂いを、君の感触を、君の魂を。
「またいつか… またいつか会おう。
僕達は必ず会えるから、いや、僕が必ず捜し出すから」
大粒の雨は小雨となり、彼女の上には青空が見え始める。
「来世で待っている、だから、今の君は今の時代を精一杯に生きて…」
雨が止んだと同時に、僕はまた羽を羽ばたかせている。
僕と彼女のつかの間の再会は、僕の心の奥底で治りきらないかさぶたとなって、更に力強いしるしをつけた。
「もう心残りはないかしら…?」
気が付かなかったけれど、あの人はまだ近くにいるらしい。僕は静かに頷いた。空から下を見下すと、三角屋根の教会がまだ見えた。
「あ…」
教会を囲むように大きな虹が架かっている。僕に姿を貸してくれたあの通り雨は、僕の大切なあの子に最高のプレゼントを残してくれたみたいだ。
「じゃ、行きましょう…か?」
僕の付添い人のその人は、小さく息を吐いてからそう言った。
そうか、そういうことか…
「もう、帰る場所は、病院じゃないってことですよね…?」
その人は僕の問いに何も答えない。
「羽を羽ばたかせて、大きく力強く」
僕はどこへ向かって飛んでいるのかはさっぱり分からないけれど、でも、やり残した事はもう何もない。次の世界で僕を産み落としてくれるお母さんにも、そして、最愛のあの子にも会う事ができた。
ならば来世で会おう。
僕はあなた達を決して忘れない。「初めまして」の偶然を、僕が必ず手繰りよせるから。
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