あの夏に僕がここに来た理由

便葉

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友達

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朝の散歩は、海人にとって何もかもが刺激的だった。国道沿いの街並みや、流線型になった自動車や、人々の装いなど、海人の生まれた時代には想像がつかないほど未来は進んでいた。
そして、こんな平和な時代が訪れることを、自分の家族に教えてあげたい。毎日ひもじい生活をしている妹達は、きっと目を丸くして驚くことだろう。
……妹達は元気にしているだろうか。

「海人さん、海の匂いがしてきたのが分かる?」

ひまわりの声に、海人は現実へと呼び戻された。

「もう少し歩いたら右側に海が見えてくるの。急に景色か変わるから驚かないでね」

ひまわりは潮風を大きく吸い込んでそう教えてくれた。
海人の海の記憶は、戦争で見た海しかない。真っ青な海を見て、一度も綺麗だと思わなかった。
孤独で苦しみに満ちた灰色の海…
海人は関東の山奥で生まれたせいで、海に行ったことがなかった。母の次子は妹達の世話に忙しかったため、海人は小さい時から畑仕事を任された。
裕福な友達から海水浴へ行ったという話を聞いては、海というものを想像して楽しむほどに憧れていた。
しかし、戦争を経て、海人は変わってしまった。
海への憧れなど全くなくなり、幻滅に近い嫌悪感で吐き気がするほどだった。

街並みが途切れた先に、腰ほどのブロック塀が見えてきた。ひまわりは、歩道から海へと続く階段を駆け下りる。

「海人さ~ん、早く~~」

ひまわりの声は弾んでいる。
海人は階段を下り白い砂浜に足をついた時、目の前に広がる光景に思わず息を飲んでしまった。
平和な世界に広がるこの海は、小さな頃に憧れていたあの海に似ていた。
戦地で毎日眺めていたあの灰色の暗い海は存在しない。
もう死の淵で苦しまなくてもいい?
醜くてむごい戦いから本当に解放されたのか?
目の前に広がる海は、まるで自分の未来を暗示しているような明るい真っ青な海だった。
海人は裸足になってひまわりを追いかけた。ひまわりはすでに砂浜に腰を下ろして波を見ている。波打ち際まで走って来た海人はひまわりを呼んだ。

「気持ちいい~~、最高ですよ~」

海人はひまわりの方へ手を伸ばした。ひまわりはズボンに付いた砂を払い、そろりそろりと海へ入る。そして、海人の手をとると恥ずかしそうに笑った。
海人はひまわりと手を繋いだまま寄せては返す波とじゃれ合って、海の水の冷たさとひまわりの笑い声に生きている事を強く実感した。

日差しが強くなってきたため、二人は岩場にある日陰で休む事にした。ひまわりは麦茶の入った水筒を海人に差し出す。

「ひまわりさんは?」

「私はそんなに喉は渇いてないから、お先にどうぞ」

海人は一瞬ためらったが、軽く会釈をして喉の渇きを潤した。そして、遠くの海に目をやり小さくため息をついた。

「僕は、ひまわりさんに何もしてあげられない。
昨日からひまわりさんが僕にしてくれたことを考えると、何十回お礼を言っても足りないくらいなのに。
僕はあの公園でひまわりさんと会えてすごく幸運だったと思えるけど、ひまわりさんはあの状況で僕のことを置いて行けなかったんだと思うんだ。
それなのにこんなに親切にしてくれる。
僕は自分自身が歯痒くてしょうがないよ…」

海人は水筒を強く握りしめて、そう言った。

「僕は、以前の僕は、ちゃんと働いていて、裕福ではなかったけど妹や母を養っていた。
父は早くに死んだんだ。だから僕は一家の主だった。」

「海人さん、思い出してきたの?」

「う、うん、少しだけど」

ひまわりはゆっくりと待った。海人が話せるまで焦らずに…
そんな海人はじっと足元を見つめている。

「僕は、ひまわりさんに何もしてあげられない。
僕はこれからどうすればいいんだろう…」

今、僕が頼れる人は、ひまわりしかいないのは分かっている。でも、これ以上、学生のひまわりに迷惑をかけるわけにはいかない。
じゃ、一人で何ができる?
海人は途方に暮れていた。

「私は、きっと、海人さんの記憶が戻るまでは放っておけないと思う。
だから、海人さんが嫌じゃなければ、私の家でしばらく過ごしてほしいなと思ってる」

「………」

「じゃあ、そうだ。
私と海人さんは昨日から友達になった。
友達だったら、もしその人が住む所がなかったら必ず手を差し伸べるでしょ? お金がなかったら、貸してあげるし、苦しんでたら助けてあげる。
だって友達だもん。私達は昨日あの公園で親友になった。
友達なら、そうだ、海人さんには働いてもらおうかな。あの家は祖父が亡くなってから色んなところにがたがきてるの。庭ももっと綺麗にしたいし、雨どいは壊れてるし」

海人はまだ下を向いている。
少しの間の沈黙の後に、ひまわりは海人に見えるように砂浜に大きく“友達”と書いた。
海人はひまわりが書いた友達という文字をしばらく見て、そして、海人もひまわりの足元に“友達”と書きその横に“ありがとう”と大きく付け足した。
いつか必ずこの恩は返すから…
僕達の間に何が起ころうとも…

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